第十抄:遺伝子の繋ぎ鎖と、ほつまの秘儀
高天原の召喚陣が、白青銀色の激しい輝きを放ち、次元の門が開かれた。 凄まじい次元の風とともに、一頭の巨大な、あるいは滑稽な、そしてどこかユーモラスな「角」を持つ龍が、山荘の前庭へと転がり込んできた。 「モォォォォォーッ!! 劉光様をお守りせねばならんのだっ!! どけ、邪魔をするな!! 俺は一騎当千の猛牛だぞ!!」 その鳴き声は、龍の咆哮というにはあまりにも牧歌的で、牛の不満というにはあまりにも荘厳であった。前庭の神霊樹が、その声の振動で激しく揺れ、鳥たちが驚いて一斉に飛び立つ。空には砂塵のようなノイズが混じり、召喚の余波が空間を歪ませていた。
「ドゥよ……. 帰ってきた早々、その鳴き声は何とかならんのか。私の山荘が家畜小屋になったかと思ったぞ。耳が痛くてお茶も楽しめん。高貴な空間が台無しだ」 水龍天君が、扇で鼻先を仰ぎながら、長椅子からゆっくりと立ち上がった。
「天君! 私は劉光様と、まさに歴史の最前線で激戦を繰り広げていたのです! なぜ今、この勝利の直前に呼び戻されたのですか! 劉光様は、私の埃……いえ、私の猛牛粉塵がなければ、官軍の卑劣な呪術を突破できないのですよ! 私がいなければ、彼はまた農民に逆戻りです! 私の角こそが、漢の未来を拓く槍だったのです!」 ドゥは、まだ自分の身体が四本足の牛ではなく、空中を浮遊する龍としての形態に戻っていることに気づかないかのように、前庭をのしのしと歩き回った。その長い尾が、うっかりとアダパーの丹精した庭木をなぎ倒しそうになる。
「ドゥ、よく見なさい」 天君は冷静に言い放った。 「ホログラムを巻き戻して見せてやろう。お前の後ろにいた兵たちは、お前の撒き散らす埃で前が全く見えず、前進するどころか互いにぶつかり合って迷子になっていたのだ。お前が先陣を切れば切るほど、味方の被害は増えていた。お前は敵ではなく、味方を蹂躙していたのだ。お前を引かせたのは、劉光の軍を全滅させないための、私の冷徹な慈悲だ。自画自賛したくなるほどの英断だったな。お前がいなくなって、ようやく戦場に平和が訪れたのだよ」
「ドゥ様、お疲れ様でございます」 アダパーが、蘭奢樹の杖を持ってドゥの前に進み出た。 「まずは、この蘭奢樹の香りを……. 牛としての記憶の澱みを、ひとまず洗い流しましょう。あなたは牛ではなく、天界を駆ける神龍なのですから。その高貴な鱗を思い出してください」
杖から放たれる微かな香煙が、ドゥの鼻孔を突き、その荒い呼吸を鎮めていく。龍の身体から、牛としての偽りの自己イメージが霧のように剥がれ落ち、本来の、銀色に輝く精悍な水龍戦神の姿へと戻っていく。
「アダパー……. 私は、本当に牛ではなかったのか? あの牧草の味、あの鼻輪の重み……すべては幻だったというのか。あの時、確かに私は牛としての魂の叫びを聞いた気がしたのだが。土を蹴るあの感触、あれは真実ではなかったのか」 本来の姿を取り戻しつつも、ドゥはどこか寂しげに呟いた。
「ドゥ様。あなたは、天君の遺伝子を最も濃く受け継ぐ誇り高き龍神にございます」 アダパーは優しく諭した。 「牧草ではなく、神霊実をお召し上がりください。その方が、はるかに消化が良いはずです。牛の真似は、もうその辺りで終わりにしましょう。龍が草を食む姿は、見ていて忍びない」
天君は、ドゥの背後に広がる次元ホログラムを指し示した。そこでは、愛牛を失って悲しみに暮れる間もなく、劉光のもとに黄金の毛並みを持つ巨大な狐と、白銀の翼を持つペガサスが現れる光景が映し出されていた。
「見なさい。劉光は、お前を失った悲しみよりも、新たなる駿馬と、神狐将軍の圧倒的な神々しさに目を奪われているではないか。さっきまでお前のために流していた涙も、もう乾いているぞ。人間は実利に聡い生き物だ。これでお前も、自分の足足まといぶりを自覚しただろう」
ドゥは、ホログラムの中の劉光が、かつての戦友をあっさりと忘れ、ペガサスの首を嬉しそうに撫でている姿を見て、ガックリと肩を落とした。 「……天君。神というものは、なんと薄情な存在なのでしょうか。いえ、人間が、でしょうか。私の猛牛粉塵、あんなに褒めてくださったのに……. あの温もりは、どこへ消えたのでしょう」
「そうではない、ドゥ」 天君は、扇を閉じてドゥの肩を優しく叩いた。 「それが人間の生存本能だ。悲しみに暮れるより、新たな光を掴む。それが生命の強さなのだよ。過去に縛られないからこそ、彼らは明日へ進める。人間は、常に『今』という瞬間を生きるために、過去を都合よく上書きするように設計されている。そうでなければ、数千年の転生にわたる膨大な記憶の重みに耐えきれず、その精神は瞬時に崩壊してしまうからだ。彼らが『忘れる』ことは、ユグドラシルが与えた最大の慈悲なのだよ」
「だが、我ら神族は、すべてを覚えていなければならない」 天君は、さらに言葉を重ねた。 「それが、管理者として我らが背負うべき情報の重み……つまり宿命なのだ。お前の寂しさも、いつか銀河の歴史の一節になるだろう。その痛みが、次の世界を織り成す糸となる」
天君は、山荘の窓から空を見上げた。そこには、ガブリエルが導いているベツレヘムの星が、一際明るく、青白く輝いていた。 「聖帝の降臨。そして劉光による漢の再興。すべてはほつま鎖と呼ばれる遺伝子の繋ぎ鎖によって、未来の蓬莱へと編まれていく。ドゥよ、いつまでもいじけていないで、次の大規模な歴史介入……いや、修練に備えなさい。今度は、牛ではなく……そうだな、龍として、あるいはもっと意外な姿で降りてもらうことになるかもしれん。例えば、お前が嫌いな蛇とかね」
「龍として……いえ、蛇は御免ですが。次は、どのような世界になるのですか?」 ドゥの問いに、天君は意味深な笑みを浮かべた。その瞳の奥には、数千億の星々の輝きが宿っている。 「それは、ガブリエル次第だな。あやつは今、始皇帝の地下宮殿で、未来の歴史書をせっせと書き換えているところだ。あの姫様七変化が、どんな突飛なシナリオを用意しているか、私も楽しみでならんのだよ。さあ、アダパー、お茶を淹れ直しなさい。ドゥの分も、特大のカップでな」
高天原の風が、ユグドラシルの葉を揺らし、心地よい囁きを奏でる。 その音は、まるで無数の魂が宇宙の秘密を語り合っているかのようだった。物語は、一つの時代という名の章を閉じ、さらなる多層的な、そして壮大な銀河の叙事詩へと、その螺旋を深めていく。その先に待ち受けるのは、神々さえも予測できぬ「調和」の瞬間であった。
(続く)
しかし・・・・、長くなるので、一度、完結といたします。
ご了承くださいませ。
著者 如月 妙美




