第八章 そこ
暗い空間だった。
空もない。
地面もない。
ただ、黒い。
どこまで続いているのか分からない黒。
俺は立っていた。
足元は確かにあるはずなのに、感触がない。
静かだった。
耳鳴りすらしない。
「……ここは」
声を出す。
だが音が吸い込まれていく。
その時だった。
視界の端に、何かが見えた。
人影。
一人。
いや、違う。
二人。
三人。
目を凝らす。
黒い影が、あちこちに立っている。
動かない。
ただ、立っている。
俺はゆっくり歩く。
近づく。
影の形は、人間に似ていた。
だがどこか歪んでいる。
腕が長い。
首が曲がっている。
顔がない。
まるで、人間だったものが壊れたみたいな形。
俺は思わず後ろに下がる。
その時。
一つの影が、わずかに動いた。
俺は息を止める。
影はゆっくり顔を上げた。
その顔を見た瞬間、背筋が凍る。
知らない顔。
だが――
どこか見覚えがある。
会社の誰か。
昔の友人。
電車で見た人。
記憶のどこかにいる顔。
でも名前が出てこない。
周りを見る。
他の影。
その顔も、同じだった。
どこかで見た顔。
でも思い出せない顔。
その時、気づく。
ここにいるのは――
誰かに忘れられた人間。
胸の奥が冷たくなる。
その瞬間。
後ろから声がした。
「やっと来たか」
低い声だった。
俺はゆっくり振り返る。
一つの影が立っている。
他の影と違う。
顔がある。
その顔を見た瞬間、心臓が強く跳ねた。
父親だった。
昔と同じ顔。
少し無精ひげ。
くたびれた目。
俺は声を絞り出す。
「……なんで」
父親は肩をすくめる。
「そりゃ来るだろ」
周りを見渡す。
無数の影。
「ここはな」
父親は言う。
「孤独を望んだ人間が来る場所だ」
俺は首を振る。
「意味がわからない」
父親は笑う。
その笑い方も、昔と同じだった。
「人間はさ」
父親はゆっくり続ける。
「一人になりたいって言うくせに」
影を見渡す。
「本当に一人になると壊れる」
そして俺を見る。
「お前もそうだろ?」
その言葉で思い出す。
離婚の日。
俺が吐き捨てた言葉。
「俺は一人の方が楽だ」
父親は静かに言う。
「これは呪いじゃない」
「ずっと前からある場所だ」
そして影を指す。
「人間が孤独を望んだ時」
「ここに来る」
父親は少し笑った。
「俺もそうだった」
その時。
自分の手を見る。
指が黒くなっていた。
ゆっくりと。
影と同じ形に、崩れ始めていた。




