第七章 最後の記憶
俺はその場を離れた。
どうやって帰ったのか覚えていない。
気づいた時には、もう自分の部屋の前に立っていた。
ポケットから鍵を取り出す。
手が少し震えていた。
鍵穴に差し込む。
回す。
カチッという音。
いつもと同じ音のはずなのに、妙に遠く感じた。
ドアを開ける。
静かな部屋。
誰もいない部屋。
靴を脱ぐ。
それだけの動作なのに、やけに時間がかかる。
俺はリビングへ入る。
電気はつけなかった。
暗いままの部屋。
窓の外の街灯の光だけが、ぼんやりと床を照らしている。
俺はそのまま床に座り込んだ。
頭の中に、さっきの言葉が何度も浮かぶ。
「ママ、この人だれ?」
胸の奥が締め付けられる。
思い出す。
子供が初めて歩いた日。
小さな靴。
ふらふらしながら俺の方へ歩いてきて、最後は転んで泣いた。
その時、俺は笑いながら抱き上げた。
その時の感触。
小さな体。
温かさ。
全部覚えている。
なのに。
向こうは覚えていない。
俺はスマホを取り出した。
写真フォルダを開く。
そこには、昔撮った写真がたくさんあったはずだった。
子供の写真。
家族旅行。
誕生日。
だが。
画面には何もなかった。
真っ白だった。
スクロールする。
何もない。
もう一度スクロールする。
それでも何もない。
俺は息を止めた。
「……なんでだよ」
声が小さく漏れる。
スマホの画面が、やけに冷たく感じた。
その時だった。
ふと、違和感に気づく。
部屋の中が静かすぎる。
外の車の音。
隣の部屋の生活音。
いつもなら聞こえるはずの音が、何も聞こえない。
まるで世界そのものが、遠くに行ってしまったみたいだった。
俺はゆっくり立ち上がる。
窓に近づく。
カーテンを開ける。
外を見る。
街はいつも通りのはずだった。
街灯。
道路。
マンション。
だが。
人がいない。
車も走っていない。
信号だけが、意味もなく色を変えている。
「……なんだよ」
心臓が少し速くなる。
その時、気づいた。
もし世界中の人間が俺を忘れたら。
俺は――
どこに行く?
その瞬間。
部屋の空気が歪んだ。
床が揺れる。
視界が暗くなる。
俺は何かに引きずられるような感覚に襲われた。
立っていられない。
足元が崩れる。
そして。
気づいた時。
俺は――
知らない場所に立っていた。




