表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/8

第八話:薄墨の朝

 嵐のあとの厨房には、沈黙だけがよどんでいた。


 加賀が去り、重い鉄の扉が閉まったあとも、智久ともひさは動けずにいた。まな板の上には、宝石のように光を散らすこんにゃくの残骸と、体温を失い、再び冷徹な輝きを取り戻した『薄墨うすずみ』が横たわっている。


 智久は、ゆっくりと自分の右手を見た。

 指先の感覚は、まだあの「界面」の向こう側に残っているかのように熱く、痺れている。物理法則をねじ伏せ、不殺の誓いと和解した感覚。それは勝利の昂揚というよりは、深海から這い上がってきたばかりのダイバーが感じるような、希薄で、しかし確かな生の実感だった。


(終わったんだな……)


 彼は、丁寧に『薄墨』を拭い、鞘に収めた。

 桐箱の蓋を閉める音が、がらんとした店内に小さく、しかし清々しく響く。

 智久はそのまま、カウンターの椅子に深く身を沈めた。気づけば、東の空が白み始めている。銀座の路地裏に、朝の静かな気配が染み出してきていた。


 数時間後。

 築地からの仕入れを終えた弟弟子の健太が、店の鍵を開けて入ってきた。


「おはようございます、師匠! ……あれ、寝てないんですか?」


 健太は、隅に積まれたこんにゃくの山を見て、目を丸くした。


「……ああ。少し、考え事をしていてな」


 智久は立ち上がり、軽く肩を回した。数日間の狂気が嘘のように、心は凪いでいた。


「健太。今日の仕込みだが、こんにゃくの煮物を一品加えよう」


「えっ、こんにゃくですか? うちの店で?」


 健太は首を傾げた。銀座の高級割烹『うすずみ』に、家庭的な煮物など並んだことは一度もない。


「ああ。だが、『薄墨』は使うな。棚の奥にある、あの安物のステンレス包丁を出せ」


 智久は、かつて自分がゴミ箱へ投げ捨てようとした、千円の包丁を手にした。

 錆びを落とし、丁寧に研ぎ直されたその刃は、無骨で、どこか頼もしい。

 智久はこんにゃくを手に取り、あえて包丁を使わず、手で不規則にちぎり始めた。


「師匠、何してるんですか! 断面がボロボロじゃないですか」


「これでいいんだよ、健太。……こんにゃくってのはな、このボロボロの断面にこそ、出汁がよく染み込むんだ」


 智久は、笑っていた。

 界面を統べ、鏡のような断面を作る技術は、一生に一度の「極致」として胸に刻めばいい。だが、日々の営みとしての料理には、この「不完全な抵抗感」こそが必要なのだ。


 彼は『薄墨』を、神棚のような高い場所から降ろし、他の包丁たちと並べて包丁差しに置いた。

 もはや、畏怖すべき神の道具ではない。

 不器用な自分を、時に突き放し、時に導いてくれる、一振りの相棒。

 不殺の誓いも、超撥水現象も、すべてはこの一振りの「個性」として受け入れられる。


 仕込みの鍋から、醤油と出汁の、どこか懐かしい香りが立ち上り始める。

 智久はふと、店の入り口に飾られた『うすずみ』という屋号を見つめた。

 淡い墨色。それは、黒と白の間に横たわる、無限の階調グラデーション

 完璧な切れ味と、切れないもどかしさ。

 科学的な冷徹さと、歴史的な温もり。

 その両端を知った者にしか作れない一皿が、きっとある。


「さあ、開店の準備だ。今日から、新しい『うすずみ』を始めるぞ」


 智久が暖簾を掲げると、銀座の朝陽が、白木のカウンターを真っ直ぐに照らし出した。

 その光の中で、包丁差しの隅に収まった『薄墨』の柄が、まるで満足げに微かな光を放ったように見えた。

 職人の朝は、いつもと変わらず、しかし決定的に新しく、始まろうとしていた。

本作を最後までお読みいただきありがとうございました!

3/4より新作の連載を開始予定です。

ぜひチェックしてみてください!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ