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第2話:ナノの牢獄

 指の傷は浅かったが、智久ともひさの心に穿たれた穴は底が知れなかった。


 翌朝、銀座の仕入れを弟弟子に任せ、智久は一台のタクシーに飛び込んだ。向かったのは築地でも、馴染みの研ぎ陣でもない。多摩の丘陵に建つ、国立工業材料研究所だった。


「……物理的に、あり得んと言いたいのかね」


 電子顕微鏡室の薄暗がりで、工学博士・真壁まかべが、コーヒーカップを置かずに言った。彼は金属疲労の権威であり、同時に偏屈な美食家としても知られている。

 智久は、桐箱に収めた『薄墨うすずみ』を、祭壇に捧げるように差し出した。


「昨夜、こんにゃくを切ろうとしました。ですが、刃が石を叩いたように弾かれたんです。研ぎに微塵の曇りもなかった。それでも、一筋の傷さえつかなかった」


「こんにゃく?」


 真壁が鼻で笑った。


「水分九十五パーセントのゲル状物質だぞ。ダイヤモンドを切れというならまだしも、そんなものは、指の腹でも千切れる」


「見てください。この刃を」


 真壁は不承不承、『薄墨』をサンプラーステージにセットした。

 倍率が上がる。モニターに、肉眼では滑らかな鏡面に見えた刀身が、荒々しい山脈の連なりのように映し出された。

 真壁の眉がピクリと動く。


「……ほう。これは、妙だな」


 モニターの目盛りをナノメートル単位まで絞り込む。

 そこには、通常の鋼の結晶構造マルテンサイトとは明らかに異なる、黒い墨を散らしたような微細な炭化物が、規則正しく針のように突き出していた。


「智久君。この包丁の鋼、誰が打った?」


「……幕末から続く、名もなき刀匠の家系だと聞いています。成分比は一子相伝で、先代も詳しくは知りませんでした」


 真壁は無言で、ボウルに入ったこんにゃくの破片を取り出し、その「針」の上に押し当てた。


 モニターの中で、異様な光景が繰り広げられた。

 鋼の「針」がこんにゃくの表面に触れた瞬間、接触面から爆発的に水蒸気が噴き出したのだ。熱など加えていない。それなのに、こんにゃくに含まれる水分が、鋼の微細構造と反応し、一瞬で厚い「気層」を形成した。


「……ライデンフロスト現象、か?」


 真壁の声が、戦慄に震えた。


「通常、熱したフライパンの上に水を落とした時に起きる現象だ。だが、この包丁は常温でそれを引き起こしている。鋼に含まれる特定の触媒が、こんにゃく特有の強アルカリ成分と接触した瞬間、表面の水分を瞬時に気化させ、『水の膜』どころか『空気のクッション』を自ら作り出しているんだ」


 智久は、モニターを見つめたまま息を呑んだ。

「つまり……」


「物理的な拒絶だ。この包丁は、こんにゃくのような高含水のアルカリ物質に対して、完全な『超撥水状態』を維持するように設計されている。切ろうとすればするほど、刃と食材の間にはナノレベルの隙間が広がり、刃先は虚空を滑り続ける」


 真壁は顕微鏡から目を離し、智久を憐れむように見た。


「これは道具じゃない。物理法則そのものを書き換える、鋼の牢獄だ。智久君、君の技術がどうこうという問題じゃない。人類が火を使って以来の常識が、この包丁の前では通用しないんだよ」


 研究所を出た智久の耳に、昨夜の『薄墨』の悲鳴が蘇る。

 科学が証明したのは、希望ではなく、絶対的な不能だった。

「神の刃」は、最も卑近な食材を前にして、永遠に届かない「平行線」を宣告されたのだ。


 重い足取りで店に戻ると、入り口に一人の男が立っていた。

 着古したトレンチコート。白髪混じりの無精髭。そして、獲物を定める鷲のような、濁った、しかし鋭い眼光。


 加賀かが


 かつて一言の酷評で三つ星レストランを廃業に追い込み、料理界から「死神」と恐れられた評論家が、そこにいた。


「久しぶりだな、智久。先代の通夜以来か」


 加賀は、智久の左指の包帯をじっと見つめ、口角を歪めた。


「いい傷だ。ようやく、その包丁に相応しい『無力感』を味わったようだな」


「……何のご用ですか」


「一週間後だ。私の主宰する『精進会席』がある。お前を招待してやる」


 加賀は、ポケットから一枚の黒い招待状を取り出し、智久の胸元に叩きつけた。


「献立の主役は決まっている。『薄墨』で引いた、向こう側が透けるほどのこんにゃくの刺身だ。もし切れなければ――お前は、その包丁と共に銀座から消えろ」


 加賀の哄笑が、路地裏に冷たく響いた。

 智久の手の中で、『薄墨』を収めた桐箱が、まるで怯えるように微かに震えた気がした。

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