息を止めて水中を泳ぐ①
僕とネコは高校の頃にクラスメートだったということを除けば他に深い関わりなんてない。竹馬の友でもなければ何かを一緒に成し遂げたというようなこともない。何か行事ごとがあれば色々なことについて話すことはあれど、わざわざ休日に時間をとって落ち合うようなことは一度もなかった。僕らの中にあった共通認識は「こいつは敵ではない」ということだけだったがそれでもお互いに慈しみを持って接していた。一度体育の時間にネコがぶっ倒れた時に僕がお姫様抱っこをして医務室まで運んだことがある。それも別に僕らからすると大したことじゃなかったがこうやって覚えているのは周りにいた動けもしなかったガヤたちがお姫様抱っこに異常に反応したせいだ。ただ僕もネコもそうやって茶化されても大して気にも留めることはなかった。それは僕には窓のない宇宙船という学校内でも目立っていた女の子が隣にいたっていうのもあるけど単純に僕らの間にあった認識がやはり「こいつは敵ではない」というものだったからだと思う。そう考えると僕らの人生はまるでボタン掛けみたいだなと思った。掛かったり外れたりほつれて取れたりそれを直してみたり…どこまでも続くボタン掛け。人生というボタン掛け。悪くない響きだなと僕は思った。もしもあの時、周りのガヤたちに絆されて僕とネコが付き合ったりしたらきっとこうやって今2人で動物園を並んで歩いたりしてないだろうなと思った。
「心は取り戻せたの?アンドロイドさん」
ネコは僕が行きのバスの中で話しかけていたことの続きを話すように促した。タグにアルファベットの書いてある白のTシャツに綿麻の薄緑のワイドパンツを合わせていた。夏の暑さは予兆もなしに僕らに降り注いでいた。
「心?あぁ、心ね。アンドロイドにも心はあるよ。電気羊の夢を見るし慢性的な鬱病を抱えているやつもいる」
「慢性的な鬱病なの?」
「そういうロボットを知ってるってこと。自動ドアを嫌ってるんだ」
ネコはふうんというような顔をした。目の前にはスマトラトラの住んでいる場所があった。
「ここにあの子だけで住んでるの?」
ネコは僕に言った。
「実際の環境に寄せているんだよ。狭い檻の中をぐるぐるとまわり続けるのは可哀想だから」
ネコは一度僕の方を見たがまたすぐにそちらを見た。
「ひとりで住むには広すぎるわ。寂しくないのかしら」
「時々は寂しくなることもあるだろうね。だけどまあ、与えられた環境で楽しまなくちゃならないという面では僕らもおなじだ」
「そんな建設的な考え方をトラはしないわ。きっと寂しくて吠えてるのよ」
「寂しくて吠えてる」
僕は繰り返した。それから場所を移るために足を動かした。どのエリアもできる限りその動物に合った環境を作ろうとしているのがわかった。いい動物園だなと思った。動物園って時点で良いなんてことはないって言う人もいるかもしれないけれど動物園のはじまりって怪我をして野生じゃ生きていけない動物をリハビリの期間だけ展示して治療費などを稼いだとこから始まってるんだぜ?全ての動物園が悪いわけじゃないさ!と言ってやりたい。まあ、嘘だけど。始まりなんて知らない。
「寂しくて吠えてるトラで思い出したんだけどさ、君は前世の記憶を覚えてたりする?」
僕らは開けた場所にあるベンチに座って水分補給をしていた。汗はとめどなく流れお互いになんでこんな日にしたんだろうと思っていたと思う。
「前世?全くないわね。あるの?ウーリーは」
「信じてもらえないかもしれないけれどあるんだよ」
ネコは日傘を畳んで額の汗を丁寧にハンカチで拭いてから買った水をこれまた丁寧に一口飲んだ。それから僕の方に首からかけていた小さな扇風機で風を送った。
「あなたが前世だとか信じるなんて少し不思議な感じがする。占いだとかそういうのを信じない人だと思ってたから」
まだ午前中だということもあり暑さは予兆のようにジリジリと地面を熱し、あと一時間経てばそれらは陽炎を作り出すだろうと人々に思わせた。園内には平日の開園直後といえど人がまばらにおりベビーカーを押す若い母親はより一層この暑さに悩まされていた。
「信じてないよ。これは作り話だから」
「そうなの?何か偉い人か何かだったの?」
ネコがまだ僕に扇風機を向けてたから僕は彼女自身に向けるように促した。それから水を一口飲んでから話を続けた。
「いや、ガゼルだったんだ」
「ガゼル?ガゼルってあの動物の?草食動物でツノが生えてる?」
「うん。ウシ科でアディダスのスニーカーのモデルにもなってる四足動物」
ネコはその説明が面白かったのかケラケラと笑った。
「どうしてそんなこと思い出しちゃったの?」
まだ少し笑いながらネコは聞いた。
「捕食者を見たからだよ。食べられたんだ。なにに食べられたかは覚えてないけど、食べられて死んだってことは確かなんだ」
ネコは可哀想ね、といったような表情で僕の話の続きを待っていた。
「友達とのんびりと餌を食べていた時に周りのみんなが急に走り出したんだ。僕もなんだか走らなきゃならないって気分になって走ったんだ。そして追われていることに気がついた。僕が1番後ろにいたせいで僕が喰われる羽目になった」
「痛かった?」
心配そうにネコは聞いた。
「痛みだとかは覚えてない。ただ覚えてるのはあいつよりも早く走れてたらなって思ったことだけだった」
「捕まらなかったのにってこと?」
僕は首を振った。
「捕まったのが僕じゃなかったのにってこと。僕たちは捕食者と競争してるわけじゃないんだ。いつだってそう。本当は隣にいる誰かより優れてれば良いと思ってる。隣の奴が弱ければ良いって願ってるんだ」
「ねえ、怖い話はやめてよ」
僕は笑った。
「生物学の話だよ。世界はこうやって回ってるんだ」
ネコは少し僕に感心した様子を見せてからパンフレットを開き園内地図を眺めた。
「ここにあなたの仲間がいるかもしれないと思って探してみたけど、ガゼルは居ないみたいね。あなたはひとりみたい」
「寂しくて吠える」
僕が言うとネコは笑った。
「寂しくて吠える」
ネコも繰り返した。それから僕らはまた立ち上がってさっきよりも遅いペースで歩いてまわった。ネコは日傘を時々僕にさしてみたり小さな扇風機の風を僕に向けたりしてくれた。僕らは休み休みいろんな種類の動物を見てから北門でバスに乗り駐車場まで行った。それから2人で駅までのバスに乗った。僕もネコも汗をかいていてお昼ご飯を食べる予定だったけどそれどころじゃなかった。それで僕らは一度お互いの家に帰ることにした。シャワーを浴びてからまた集まろうとネコが言ったのだ。僕もそれが良いと思ったからそれに賛同した。色々と準備が面倒なら今日は解散でも良いよ、別にまた会えるんだしと僕が言ったがネコはもう少し話したいからと言ってその提案を断った。そうか、人生は素晴らしいんだなと僕は改めて思った。思うだけでなく声に出していってみた。
「人生は素晴らしい」
ネコは僕のほうを見てから何か気の利いた言葉を言おうとしたが浮かばなくてそっと微笑みだけを僕にくれた。その笑顔がとても素敵で僕は幸せな気持ちになった。通じ合えば言葉なんてものは必要ないんだ。




