窓のない宇宙船について③
色々と面倒なことが多い年齢に話したくもない教師と相手が有利な状況で話し合いを進めなくちゃならないっていう行事が僕の高校にはあって、それを一大イベントかのようにはやし立てる風潮も共存していた。生徒たちは口々に自分の希望の大学について意気揚々と語っていた。別に誰もそんなことには興味なんてなかっただろうにあの場所、あの空間にいると多少は気になるものだ。僕ときたら大学一覧本のテキトーにページを開いた上から3つ目までの大学を書いてから、流石にこれじゃテキトーにやってるのがバレちまうなと思い空っぽの熱意を出すために枠外に4つ目の大学を記入してから提出した。そのせいでその話の輪に入れずに黙ってヘミングウェイの短編小説を黙々と読んでいた。ヘミングウェイの小説はなんだか人生の不安だとかそういったものに立ち向かうことの無謀さを僕に教えてくれた。来るべきものは来るわけだしって気持ちにさせてくれて僕は大好きだった。そう、来るべきものは来るのだ、老いも、死も、三者面談もなんだって必ずやってくる。大切なのはもしも直面したときにどう対応するかであってそれらを恐れることではないのだ。
えっと何の話だっけ、あ、そうそう。それで僕は小説を読みながら順番を待っていたんだ。他の人たちは話をしたり三年後にはどうせ捨てちまっているだろう英単語帳を眺めていたりした。僕は僕自身のことを崇高な人間だと思った。彼らが持っている紙の塊は僕のと違って役割があるからだ。気持ちが悪い役割。ある少しの時期だけみんながこぞって読みたがる可哀想な書物。経済新聞だとかそういうのとおんなじだ。くだらないよね。そして僕はそれを知っていて彼らはそれを知らないからだ。本当に意味のあるものは今その時に効力を発揮するものではなくて一つの考え方を享受した後にゆっくりと自分の力になるもののことを指すのだ。僕は父さんがイギリス人だってのもあって大抵の本は英語に翻訳されていても読めていた。そんな言い訳を用意してろくに勉強もしないまま時間が過ぎていった。数人が入れ替わった後に僕の番が来た。僕は重い腰を上げて先生と母さんがいる部屋に向かった。
その部屋はすごくしんみりとしていて僕が入った後もその静けさはしばらく続いた。昔バカ真面目だったせいで授業が始まった後にも先生が来なかったら呼びに行っていたんだけど一度だけ呼びにいかず途中で引き返して教室に戻ったときに僕のことをうざったいやつだってみんなが話していたのを思い出した。その時僕が教室に入るとさっきまで話していた奴らが急に静まり返ったのを覚えている。あの時の空気に少しだけ似ている気がした。そういえばあの後どのように関係を修復したんだっけ?僕は楽しく小学校生活を終えたから関係を修復してるはずなんだけど…余計なことを考えていたせいでノックをせずに扉を開けたんだ。談笑でもしていてくれたら少しは気が楽だったんだけどなと僕は思った。僕の学校生活だとか成績の話だとかじゃなくて昨日あったテレビの話でもしていてくれたらなってね。でも大人になったら昨日のテレビのことでは笑いあわないみたいだ。つまんないことにね。まあ、そもそも僕は昨日テレビなんて一秒も見てないからその話題で話されても困っちゃうんだけど。
「ウーリー君ノックをして入ってきなさい。これから受験の時や大人になってもそういうことは大切になってきますよ」
先生は僕にそう言った。そんなことが大切なわけないじゃないか、わけのわからない習慣が今も残り続けているだけだよと僕は思った。
「あー、はい。わかりました。先生」
僕がそういうと次は母さんが僕に言った。
「ウーリー。そういうところよ。あーはい。なんていわないの。はいってちゃんと言って」
そう言って母さんは不躾な息子のことを先生に謝った。なんてつまらない会だろう。こいつら何もわかっちゃいないんだ。大したことでもないことを指摘したら相手が不快感を覚えるってことくらい僕は10歳の時にはわかってたぞ。ノックのことも返事の前に余計なことを言っちゃいけないってこともそんなことはわかっているに決まっているじゃないか!なのにいちいち言わないと気が済まない空気を彼らは彼ら自身で作り出しているんだ。多分何かの勘違いで自分たちの昇給が決まるとか思っちゃってんだよね。言っとくけどこんなに馬鹿馬鹿しい会なんてないよ。本当の話。僕は泣いてやろうかなと思った。もしも僕がここで号泣でもすればこの先余計なことを言うのも少しはおさまるだろうし。
それから成績だとか学校生活でのことだとかいくつかの話をした後に先生は僕に将来どうしていきたいのかを訪ねた。
「君は将来について深く考えていますか?例えば大学受験に失敗してしまった場合どうするつもりですか?」
僕は少し考えてから話し出した。
「えっと、そのときはですね。山だとか森だとかで自給自足の生活を送っていこうと思います。正直な話、僕ならできるんじゃないかって思っているんですよ。火だってライターやマッチなんて使わずに起こせますし、海水から日光とペットボトルだけで真水を作り出すこともできるんです」
先生が何かを言おうとしたけれど僕は何を言われるかわかっていたから話を遮るように続けた。
「もちろん。始めるなら春からです。そんなことはわかってんですよ、先生」
僕も先生もそれから母もとても苛立っていた。この空気は僕が作り出したんだろうけど先に謝るのは絶対に嫌だった。僕の意見としてはあんたら大人なんだから本当の意味で子供の立場に立つべきだってこと。もしも僕が先生や母親の立場なら絶対にこういう立ち回り方はしないね。神に誓ってそうだと思う。それで結局僕は先生と母親に嫌って程怒られた。高校生にもなってこんなに怒られるなんて恥ずかしいと思った方がいいとまで言われた。僕はとにかく何かにあたりたくなった。それで教室の窓ガラスをぶち割ったってわけ。素手で割っちゃったから僕の手からは血が出てしまった。周りのみんなは先生が来るまでの時間少しざわついたが先生が来るとまたせかせかと自分の勉強をし始めた。僕は少し大きなため息をついた。やれやれ、こいつら皆真面目だけどまともな奴なんて一人もいないんだと思った。まじめなことはけっしてまともだというわけではない。もちろんその時の僕もまともとまでは言えなかったけれどこいつらよりはましだなと思ったよ。でも一人だけまともな女の子がいた。それがネコだった。ネコは僕の手から流れる血を自分のハンカチで抑えてくれたんだ。もしもその時の僕がもうちょっとまともで大人だったらきっと彼女に恋をしたんだと思う。はっきり言っちゃうけどそうだと思うよ。あー、大きなため息を吐きたいと僕は思った。できるだけ大きくて不愉快なため息、教室中の雰囲気が一気にピリつくようなものを。だけど僕はそうはしなかった。それは僕が大人のような成熟した精神性を持ち合わせていたからではなく隣で手厚く僕を介助してくれたネコにだけは幸せになってほしいと心から思ったからだ。
「手、大丈夫?」
窓のない宇宙船は僕にそう言った。放課後いつもの場所で僕らは話していた。僕が怪我した手を病院で診てもらわなくちゃならなかったからいつもより遅い時間になった。心配する宇宙船に僕は手を握っては開いてを繰り返してみせた。
「みんな心配してた、あなたが窓ガラスを割ったって聞いて。私のクラスにまで音が聞こえたの」
僕は彼女をじっと見つめた。
「窓をつけなくちゃいけない」
僕はそっとそういった。
「まど?もうつけたんじゃないの?」
彼女は不思議そうに聞いた。
「君の話だよ。君はまるで窓のない宇宙船みたいだ。君にはすごく素敵な力があって魅力もあって…とにかくすごく素敵なんだ」
僕は沈黙を挟んだ。彼女も僕の話の続きを待った。接続詞的沈黙
「宇宙までいける。だけど窓がなきゃ外を見ることができない。君は静かな女の子だ。僕の前では少しはやかましくしてくれているけれど。だけどどこに行こうが、それが例えばカイロでもリバプールでも南極でも京都でも宇宙でも窓がなきゃダメだ。君は可愛いから色んな人に見られてきたんだろうけどそれに怯えちゃいけない。見られることにも見ることにも疲労は伴うけれど…」
僕は言葉に詰まった。それから深呼吸をした。
「あなたの言ってることなんとなくわかるわ。いつもあなたは私の本質的なところを見てくれている気がする。私が不安になったらその場所を見てくれているの。あなたには窓がついている」
僕は頷いた。それから彼女の手を握った。
「だからこそわかるの。あなたが私の本質的なところを見てくれているのを知ってるから……」
それからしばらく時間があいた。まるで助走をつけているみたいだった。
「あなたは私のこと本質的には愛していないでしょ?」
僕は彼女を見た。彼女も僕から目を離さなかった。その眼は涙で濡れてゆっくりと瞬きを繰り返して眼球は風鈴のように静かに揺れていた。
「誰だってーー」
「最初から愛することができないことはわかってる」
彼女は僕の言葉を先に言った。
「だけどわかるの。あなたが大切なのはあなたの人生がどう面白くなるかっていうことなの。ときどきそれは本当に私を苦しめるの」
僕は黙ったままその言葉について考えてみた。誰だってそうじゃないのかな?と思った。彼女は僕の手を握ったまま話を続けた。
「あなたのことが好き。だけどそれはそれとしてあなたとずっとそばにいることなんてできないってことがわかるの。あそこにカモがいる。たった2匹だけしかいない。だけどいつかは1人になるの。飛んでいってしまうから」
僕は同じ方向を見た。なんの偶然か1匹だけ飛んで群れに加わった。
「あのカモはどこへ向かうんだろう」
僕は彼女に聞いた。
「暖かい場所へ向かったのよ」
彼女は涙ぐんだままそう答えた。
「いや、そうじゃない。その場所に行ったのか帰ったのかってこと」
彼女はそれには答えなかった。それからしばらくして彼女は僕の手を離してなにも言わずにどこかへ行ってしまった。僕はまたしばらくその場に座ったまま空を見ていた。暗くなった空にカモの声が響いた。何を考えてるわけでもなく、何をするわけでもなく僕はただその場に佇んでいた。
(人生)
頭の中でロボットが言った。
「人生」
僕も繰り返した。
「帰らなくちゃならない」
そうだ、もう帰らなくちゃならない。あたりは暗くなったし家に帰って勉強しなくちゃ怒られちまうから。僕は立ってあたりをもう一度見渡してみた。ここはどこだろう?と思った。ここは江津湖だと頭の中で言い聞かせた。
「帰ろう」
もう一度呟いてみた。帰る?どこに帰るんだろう。たった今僕は帰る場所を無くしたというのに。




