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おはよう、世界  作者: 中鍋 鳳謹


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ウイスキーを傾けてよ!③

 ネコのつまらない話を聞きながら僕も同じくらいつまらない相槌を返していた。僕らは会話を楽しむのではなくて単に山登りがきつくて途中で黙り込む時間もあるからいつ途切れてもいいような話を淡々としていた。まるで適当に開いた辞書の1番最初に目に入った文言を読み合うようなそんな感じの会話だった。坂道はずっと長く続いていた。僕らはいつのまにかしりとりを始めていてそのしりとりもいつの間にか終わっていた。道がやや平坦になってくると少しだけ楽になったが僕らはさらにペースを落として呼吸を整えた。山の中腹あたりで出店をしていて団子やらソフトクリームだとかを販売していた。子供たちの何人かはそれらを買ってもらったらしく嬉しそうに山を眺めながら食べていた。僕らは何も買わず水を少しだけ飲んでまた歩き始めた。少しずつ慣れてきたのか僕らは会話を楽しめるようになっていた。


「右に幸せがあって左に不幸せがある道があるとしたらどっちを選ぶ?」


ネコは唐突に僕に訊いた。


「え?なんだって?」


僕が聞き返したがネコはやや下の方を見ながら歩き続けた。


「右が幸せなら多分右を選ぶよ」


僕がネコにいうとネコはふうんというだけで黙り込んだ。


「幸せなときでも?」


またしばらく空いた後にネコは僕に訊いた。


「うん。多分ね。君は?」


「わからない。私も多分右を選ぶとは思う」


僕はネコを見た。彼女はいかんせん真面目そうな顔をして答えたはずの問いを改めて考えているようだった。


「でも、幸せなら?」


ネコはさっきと同じ質問を繰り返した。僕は考えた。それから窓のない宇宙船の言葉を思い出した。


「だけどわかるの。あなたが大切なのはあなたの人生がどう面白くなるかっていうことなの。ときどきそれは本当に私を苦しめるの」


それは間違いじゃなかったのかもしれないと思った。


「その幸せや、不幸せによって違うだろうね。幸せも不幸せもそうだし、ある種の感情というのは短くて続かないものなんだと思うんだ」


ネコは黙ったまま歩き続けていた。


「どうしたの?」


僕はネコに訊いた。足音と僕らの呼吸音、布が擦れる音、それから風が木の葉を揺らす音以外には何も聞こえなかった。何も聞こえなかったしそれ以上の音は必要なかった。


「少し考え事をしていたの。あなたも言ってたでしょ?人生について考えないといけないって」


「まあ、そうだね。でも人生は仕事じゃないよ。人生という仕事をこなすように生きるのは良くないことだ。悩みすぎちゃだめだよ」


ネコは足を止めた。僕も足を止めた。風が少し吹いてこの葉を揺らしている。10月の末。それからネコは僕の顔を見た。僕もネコの顔を見ていた。


「じゃあ人生はなんなの?」


僕は少し考えた。


「そりゃあ、パーティだよ。楽しもうとしなくちゃ楽しめない」


ネコはまた歩き出した。


「へんなの。それじゃあずっと踊らなくちゃいけないってわけ?」


僕はそうだよと言おうとしたがやめた。


「さあ、それはパーティの種類にもよるだろうし」


ネコは僕の方を見て地面に落ちていた木の枝を蹴った。枝はくるくると周り崖の下に落ちていった。階段が見えてきて僕らはそれを黙ったまま登り鳥居をくぐった。右手に方に仏舎利塔への道があったので僕らは狭い道を少し登った。


「確か熊本にもあるよね?行ったことある?」


ネコが石像を見ながら僕に訊いた。


「あるよ。何度かね。数える程度だけど。車でも行ったことあるし、歩いて登ったこともある」


「ひとり?」


「ひとりのこともあればふたりのこともあったよ」


ネコは僕を横目で見ていた。それから少しだけため息をついた。


「疲れちゃった。ちょっと座りたい」


辺りを見渡しても座れそうな場所は無かった。汗をかいていてそれが乾燥して熱を奪っていくのを感じる。


「もうちょっと歩けば頂上だよ。その前に神社がいくつかあってそこなら座れるかもしれないね。どっちにしろここら辺に座る場所はないよ」


「ちょっとだけ、座ってもいい?」


ネコが近くの石段を指さしてそのままそっちへ歩いていった。僕もネコについていきネコが腰を下ろすと僕もその近くに座った。


「人が少なくてよかった」


僕が付け加えるようにそう言った。ネコは

うなずいて水を少しだけ口に運んだ。しばらく沈黙が続いた。嫌な沈黙だった。何か話しかけて場を繋いだ方がいいと思わせるような窮屈な沈黙だった。


「麓の温泉が気持ちいいよ、きっと」


僕がそう言うとネコはまた頷いた。


「ときどきね、不幸な方に進んでいる気分になる時があるの。どんなにいい選択をしていても、どんなに好きな人と一緒にいてもね……

多分ね、気が病んじゃってるんだと思うの。それでひとりでいる時も泣いちゃったりするの。ねえ、私ね、人の前で泣いたりすることってないのよ。ああいうのって凄く嫌なの。教室で虫が出ても騒いだりしないタイプなのよ、私」


すごく深刻な気がした。彼女が本当に悩んでいるように見えたから。


「君がハンカチを渡してくれたのを覚えてるよ。僕が窓ガラスを思いっきりぶん殴って出血したときに。あの頃は別の女の子と付き合ってたけど、正直な話僕が施された優しさの中で記憶に残っているのはあの日の君が何にも言わずにハンカチを渡してくれたことなんだ。あれはまやかしでもなんでもなくて単に君の優しさが溢れ出たんだと感じたんだよ。要するに無償の愛みたいなものを」


ネコは僕の方を見て手を出してというようなジェスチャーをした。それから僕の手をそっと握ってくれた。僕の腕は汗で湿っていて僕は少し恥ずかしかったけど彼女はそんなことちっとも気にせずにしばらくの間僕の腕を撫でて指や手を彼女の指や手で確かめるように触った。


「傷はないの?もう」


僕は頷いた。


「案外丈夫なんだ」


彼女は僕の手から自分の手を離した。


「私ね、あなたが思ってるより優しい人じゃないわよ。良い人でもないし、賢くもない。あなたは私にちょっと甘いのよ、たぶん」


僕は少し考えてみた。


「そうかもしれないね。でも僕の世界ってそうじゃないかな、僕が見てる君が本物だし、僕に優しい君がここにいる。君が他の誰かに酷いやつだとしても…えっとね、問題がないわけじゃないけど多分なんとかなるんだよ」


「あなた、好きな人がいる?」


僕は突然のことで驚いた。なんだか人生が決まる大事なときに失敗を迫られるような感覚になった。僕は僕のリズムで生きていかなくちゃいけない。だけどときどきこうやって決定的にリズムが狂う時がある。


「いないよ」


ネコは僕の方を見た。それからにっこりと笑った。


「私のことは好き?」


僕は頷いた。


「好きだよ」


ネコは立ってまた歩き出す準備をした。


「私もあなたのことは好き。よくわからないところとかも含めて。これが今までにあった感覚かと言われたらよくわからないけど。あなたから傷つけられる気もしないし、あなたがどこかに去っていくイメージも湧かない。こういうのって不思議だよね?」


僕は水を一口飲んだ。


「僕も多分似たようなものだと思う。たぶん僕らは…」


僕は大切なことを言いかけたがやめた。


「なに?」


「たぶんね、似てるんだと思う」


本当に言いたいこととは全く違うことを僕は言った。ありきたりでつまらない言葉だった。ネコは僕の目を見た。


「あなたはときどき嘘をつくけどそれは私を傷つけないためなのかしら?」


ネコは気づいているよと言ったんだと思う。


「たぶん、きちんとまとまってないから言いたくないだけだと思う。それは僕らを傷つけることになるかもしれないから」


ネコはまたニコリと笑った。


「でも、多分嘘は下手よ。あなた。だからこそすぐにわかるし、頻繁に嘘はついてないってのも良いところなんだけど」


「まとまったらいつか言うよ」


僕はそう言うと歩き出した。ネコも僕の隣に並んで歩き出した。それから僕らは頂上まで休まずに歩いた。途中、ムササビを見ている人たちがいて少し止まったがそれ以外では一切止まらなかった。


高尾山の頂上は夕暮れ時でも人はまばらにいてみんな遠くの山の尾根を眺めていた。臨む富士山は夕焼けが当たり空は美しいコントラストを映し、グラデーションを作るように存在していた。僕らはそれらを展望できるベンチに座りネコは水をまた一口飲んだがそれでも少し息切れをしているようだった。僕が最後走ろうと言ったせいだ。ネコは嫌がったがそれでも僕が走り出したせいで走る羽目になった。


「疲れた」


本当に疲れた顔をしていた。それからじっと黙ってしばらく景色を眺めていた。その表情は少しずつ元の落ち着きを取り戻しいつも通り静かで美しい表情になった。僕はその表情を見ているとなんだか幸せな気分になった。もしかしたら僕らは終わることがないんじゃないかとすら思った。人生の始まりがここでいつか老衰するまでこんな風な気持ちが続く気さえした。それからしばらく、つまりネコが僕に話しかけるまで僕らはじっと黙ったままだった。気持ちの良い沈黙だった。さっきまでの嫌な沈黙とは全く違うものだ。


「今、なにを考えてるの?ウーリー」


ネコが僕に訊いた。僕はネコを見て、それから靴で足元の枝を踏みながら地面と擦り合わせた。


「多分ね、10年後、あるいはもっと先にここに来たりここのことを考えたりするとしたら僕は今の景色のことを思い出すんだろうな」


「たぶん私もおんなじだと思う」


ネコは相槌をした。


「それから隣にすごくイカした女の子がいたことを思い出すんだ。あ、そうだあの時すごくイカした女の子と一緒にこの景色を見たんだ!ってね」


ネコは黙ったまま僕の話の続きを待った。


「ねえ、この燃ゆる夕焼けは僕らふたりの影をずっと覚えてたりするのかな?」


ネコはニコリと笑った。


「覚えてるのかな」


「できれば君といたいと思ってる」


「ねえ、難しい言葉なんて使わなくて良いのよ。すごく簡単な言葉でいいの。それでも嬉しいんだから」


僕はクスクスと笑った。


「君と難しい言葉を使わずに話せたら最高だろうね。でも僕は考えるんだ。僕だけの言い回しだとか、君だけに当てはまる言葉だとかそういうのを」


ネコもクスクスと笑った。それからまたしばらく僕らは黙り込んでなにも言わなかった。夕暮れが完全に終わり夜になり辺りは暗くなった。少しだけ寒くなってどちらかが降りようと言ったんだと思う。僕らは好きだとか愛しているだとかそういう言葉はなにも言わなかった。手も繋がなかったしキスもしなかった。ときどきどちらかの肩が当たって少しだけ離れるを繰り返すだけだった。ムササビが飛ぶのを見て山をゆっくりと降りてから僕らは温泉に向かった。ネコは女湯に入る暖簾の前で僕に手を振った。それはあざとい動作だったがそれよりも多分に愛が含まれた動作だった。僕は風呂に浸かりながら星が出ていることに気がついた。東京でちゃんと星を見たのはこれが最初だった気がした。

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