夢とせせらぎ⑤
駅に隣接した温泉に入ってから僕たちは蕎麦を食べるために店に入った。ここで食べなきゃもっと安く食べれるだろうにここで食べなくちゃ意味のないものって必ずある。せっかくきたならそこに金を払う意味は必ずあってそれは季節を楽しむことにも同じことを言える。夏ならカブトムシをとりに行ったほうがいいし冬なら雪だるまを作ったほうがいい。高尾山に来たなら蕎麦を食ったほうがいい。てなわけで僕とせせらぎは店に入って蕎麦を食べた。それが二八そばなのか十割そばなのかはたまたそのどちらでもないのかはわからなかったがうまかった。その時に彼女は自分のあれこれを少し話してくれて僕は初めて彼女が法曹資格を持っていることを知った。聞けば父親も弁護士をやっているみたいでいわゆるエリートみたいな感じだった。
「でも本当は理系の方が興味があったのよ。できれば薬学だとかを専攻したかったの。私って根っからの内気なのよ。多分ね、あなたといる時が人生で1番話してる」
僕は彼女の話を聞いてから言った。
「なら本質的には陽気なんじゃないですか?僕に見せているあなたが本物なんです。本当は明るい人ですよ。多分」
彼女は微笑んで箸を丁寧に並べた。
「さっきも言ったけどあなたは他の人と違うの」
僕ははてな?というような顔をした。彼女はその顔が気に入ったらしくにっこりと微笑んだ。
「あなたには話してもいいって感じがするの。本当よ。例えばあなたが私が話したことを全部他の人に横流しするみたいに話したとしても別に私は怒ったりしないもの。単に私があなたに話したいってだけなの。馬鹿馬鹿しいことを言っているように聞こえるかもしれないけど」
僕は蕎麦を啜りながら彼女の方を見た。彼女も僕と目を合わせてから短く切り揃えられた髪の毛が頬にあたるのが気になったらしくそれをかき分けるみたいにして抑えながら蕎麦を啜った。それから美味しいと言った。
「世界にはいろんな人がいます。何億人もいるんです。生物だけでいうともっとずっと多くいます。そのなかに1人くらい僕にはなんだって言えるって人がいてもいいと思います。別に馬鹿なことを言っているようには思わないし、それがもしも馬鹿げたことであっても僕は嬉しいですね。本当の話」
「あなたって時々馬鹿げた規模の話を急に持ってくるわよね」
「好きなんですかね、そういうのが」
「たぶんね。好きなんじゃないかしら。電車の中で生物学の本やらを読んでるせいね。影響を受けているんだと思うわ」
僕は頷いた。
「それどころじゃないですよ。僕の思考を形作っているんです」
「哲学とかには興味はないの?」
せせらぎは僕に訊いた。
「うーん。でもあんまり読まないですね。興味がないわけではないんでしょうけど」
「ふうん」
せせらぎは納得したようなふうにそう言った。
「ふうん」
僕はなんとなく繰り返した。せせらぎは僕の方を優しく睨んで蕎麦をまた啜った。
それから彼女は自分の妹の話を少しだけした。だけどそれらはあまりにも断片的で僕はあんまり理解できなかった。どんな服が好きだったとか自分との腕相撲には一度も勝ったことがなかっただとか。そういうまるでアルバムの中の写真を適当に拾って情景を読み上げるみたいな話だった。その話はいつのまにか宇宙の話になっていて僕らはしばらく宇宙について話した。
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昼過ぎだったがその日はもう解散することにした。僕はせせらぎを登戸まで送ると暇だったんで歩いて家に帰ることにした。いささか足は疲れていたがなぜだか少しハイになっていて僕は持ってきていた有線のイヤホンをつけて適当に線路沿いを歩き始めた。ボガンボスのカーニバルを流した気がする。それから今までの自分の酷い行いや自分の周りでの出来事を想像してみた。僕には昔っからそういう気来があった。それで色んなことを思い出してひとりで嫌な気持ちになるんだ。なぜ?どうして?なんてことを思い出しても大抵のことは意味なんてない。そもそも人生にはさほど意味なんてないんだから緻密に物事を考えるメリットの方が少ないんだ。馬鹿であることは無意味な人生を過ごすにはちっとも問題がないとはよく言ったものだ。昔から悪さをすれば怒られるというのが身についた子どもは何かに挑戦することを恐れるようになる。もっとも僕は馬鹿だからそんなことは大したことじゃないと考えるわけ。つまり叱られてもまた同じことを繰り返して叱られたりしちまうんだ。これも小さい頃からそうだった。でもそれは僕なり考えた結果なんだ。悪いことをしたり、失敗したりすると怒られる。これらはセットとして存在するものなんだ。例えば何か飲み物を買う。そしたらお金を払うみたいな感じでね。そう考えれば別になんだって大したことがない。嫌なことを考えればちっとばかしネガティブな気持ちになる。これもセット。別に大したことじゃない。それで、僕は本当にクソみたいな気持ちのまま歩いていた。通知音が鳴って携帯を見てみるとせせらぎが今日はありがとうとメッセージを送ってくれた。僕はなんだか全てが馬鹿馬鹿しく思えた。クソみたいな気分になる必要なんて全くないじゃないかと思えたわけだ。僕はこちらこそありがとうございました。と返信した。意味もなく下向きになった気持ちをもとに戻して僕はまた家までの道を歩き出した。
時々僕らは勘違いしてしまう。小学校くらいから始まり大人になるまでずっとやれ期日までにと言われ続けてきたからね。だけどね、うん。残念なことに誰がなんと言おうと僕が正しいことがある。人生は仕事じゃないってこと。人生は仕事じゃないんだよ。本当に。なのに周りを見てみればまるで人生という名前の仕事をせかせかとやっている人たちばかりなんだ。なあ、何を考えてるんだよ。君の人生は他人に決められた人生をなぞることが仕事じゃないだろ?と言いたくなる。こんな人になれ。だとかこんな人生はどう?生きやすいわ。なんて言われたり言われているのを見ると僕は嫌気がさす。そしてこう言ってやるんだ。「どうか僕の人生に文句を言わないでください」ってね。もう一度思い返してみて欲しい。人生は配られた問題集じゃない。君たちはもっと面白いってわかってる。人生は白画用紙で僕らはもっと自由に好きな絵を描いたり塗ったりしていた。12色のクーピーじゃ足りないことを君はわかっててあのとき泣いて駄々をこねたんだよ。12色のクーピー?あれ?と思った。昔っから僕は絵が下手だったんだ。だからクーピーを使い切ったことなんてなかったし特別に思い出のある品物ってわけでもない。それでもなんでか思い出す景色がある。今まで忘れていたことが少しはっきりとした気がする。何歳だったか覚えてないが僕は空の絵を描いていたんだ。好きな色だけで空を塗るのが好きで僕はそれを色んな人に自慢していたんだ。だけどほとんどの人は僕の空に対して興味がなかった。皆んなは僕の絵よりももっとずっと現実の空に近い色合いで塗ってある空を描いた子供たちの絵を上手だとか凄いって褒め称えていたんだ。別に僕の絵が貶されたわけじゃないんだけど僕はとにかく惨めな気持ちになった。だけどたったひとりだけ僕の絵を見て褒めてくれた人がいた。それは先生でも母親でもなくひとりの女の子だった。何か特別にいい言葉を言ったりするわけでもなく単純に僕にその画用紙を頂戴と言って持って帰ってくれたんだ。僕はそれがとても嬉しかったんだと思う。それでいつのまにか当たり前の色で塗り始めるまでは僕は好きな色で好きなものを塗ったんだ。うん、間違いない。それが42だ。そのあとから僕らは仲良くなったんだ。僕はずっと絵が下手だった。小学校にあがっても頭足人のような絵を描いていた。それでも少しは熱意があってゾウのエルマーを描く教室みたいなものに通ったことがあったがその講師の褒め方がやけに演技っぽくて僕はちっともはまらなかった。中学校にあがっても絵なんてこれっぽっちも描く気なんてなかった。おそらく根っからの差別主義者で絵なんて身体の弱い人がスポーツができない代わりにするものというような感覚でいたわけだ。だけど大人になるにつれてそのような差別的な意識は消え去り、むしろそういうものができないってのが恥ずかしいと思うようになった。それにそれは全体の話では無く自分だけの話であるということも弁えることができるようになったのだ。僕は今でも時々絵を描く。そしてそれは今でも下手くそなままだ。もしも絵画の教室に行ってそこで空の絵を描いたとしたら多分僕はあの日42に褒められたような絵を描くだろう。さらにもしもそこに42がいればおそらく僕があの日の男の子であるということを認識するだろうと思う。ただもちろん、そんな奇跡のようなことは起こるわけもない。僕は絵の教室なんて通わないしもしも通ったとしてもそこに42が来ることなんてないだろう。42はどんな女の子になってるんだろうか。たしかレイが何かを言っていたなカプリーヌハットとイルカのイヤリング。急にレイに電話をしたくなった。カプリーヌハットとイルカのイヤリングで合ってるよね?という電話をしたくなったんだ。そんなことわかりきってるのに無駄に自分が日々を忙しく生きていますよというような空虚な実感を得たくなったんだ。これまたもちろんのことなんだけど僕は電話なんてかけない。空虚さは自分の中だけで解決するようにしているんだ。沿線沿いはいろいろな音を立てていてイヤホンをしていてもそれは聞こえてきた。時々自転車が僕を追い越したりランニング中の人が僕を追い越したりしたが僕はすれ違うことはあれど誰も追い越したりしなかった。ただゆっくりと経堂までの帰り道を淡々と歩くのは楽しかった。
丁度betcover!! の母船が流れ終わった頃になんとなく見覚えのある道が見えてきた。携帯を見るとレイサン島から連絡が入っていた。時間がある時に電話してくれと言っていたので僕は電話をかけてみた。
「お前、タバコやってたよな。たしかキャスターを吸ってたろ。似たような味でもっと安く済むってならそっちがいいと思わないか?」
彼はまるで危ない薬を紹介するみたいにそういった。
「まあ、安く済むならそっちの方がいいね」
僕がそう返すと彼はわかったと言って今からそっちにこっちに来ると僕に伝えた。僕は部屋が散らかってたんで少し片付けて面倒だったが汗をかいてたからシャワーも浴びた。浴び終わってすごく足が疲れてたからマッサージをしているとレイサン島が訪ねてきた。
「よぉ。金はいらんよ。これ、自由が丘にこの前行って買ったんだよ」
彼は巻きタバコを買ってきたみたいでそれをおもむろに僕の前に広げてみせた。
「巻きタバコ?これどんくらいするの?」
彼は少し考えた。
「これ全部で1000円ちょっとやな。一本当たりでいうと普通のタバコよりずっと安いよ。しかも俺はまあ、ちょくちょく吸ってるけどお前はあんまり吸わないだろ?」
僕は頷いた。
「巻きタバコの方がうまい。あんまり吸わないならつくる時間ができようが大した問題じゃない。安いしうまいならそっちの方がいい。まあ、慣れるまで多少は面倒かもしれんが」
僕は少し考えてみた。それから悪くないねと言って2人でタバコを吸った。うまかった。今まで味なんてあんまり気にしてなかったがすごく美味しく感じた。それは山を登ってきて疲れていたってのもあるかもしれないけど味の違いがわかった初めてのタバコだった。
「箱は持ってるか?ウィンストンの」
僕は辺りを見渡してみた。
「あぁ、うん。たしか一度間違えて買ったことがある。普段はハードカバーのものは買わないんだけど」
「いいね。それに入れて持ち運べばいいよ。中身は貰うわ。3本くらい入ってる。その代わりこれはただであげる。そっちの方が貰いやすいだろ」
「まあね。ありがとう。今日は暇なの?」
「いや、暇じゃない。このあと下北沢に行ってちょいと面倒なことをやってくる。大したことじゃないが面倒なことは世の中にたくさんある」
僕は頷いた。
「じゃあまだ少し時間はある?」
「うん。あるよ」
「腹は減ってない?夜飯作るんだけど食ってかない?」
彼は少し考えた。
「いただいていこうかな。せっかくだし」
「ニンニクは入れない方が良いよね?」
「いや、多過ぎなければ問題ないよ。ブレスケアも持ってるし」
僕はキッチンに立ってペペロンチーノを作った。彼は僕のギターに触ってズレていたチューニングを直すだけ直して演奏はしなかった。
「何食べてるの?普段」
僕は彼に聞いた。
「カップ麺とかあとは彼女が作った料理とか」
「彼女がいるの?君に?」
レイサン島は頷いた。
「言ってなかったっけ?」
「うん。初めて聞いた。どんな子なの?」
「別に普通だよ。サークルで知り合ったんだ。2個上の先輩」
僕はふうんと言った。なんでかわからないけど彼が僕にそのことを言ってなかったことに腹が立った。別に言うべきことでもないんだけど秘密ごとをされている気がしたんだ。
「いいね。お幸せに。料理はうまいの?」
彼は首を振った。
「普通だよ。普通に美味しいって感じ。今度会わせるよ」
僕は何も言わずにペペロンチーノを作りあげて彼に振る舞った。その出来があまりにも良かったので彼はおかわりをして僕の分も食べた。それから適当に会話をして家を出ていった。彼が出ていってから僕は僕で自分の分のペペロンチーノを作って平らげると食器を洗わずにクーラーの効いた部屋でぐっすりと眠った。その日の疲れがどっと体に押し寄せてきて糖質のせいでさらに血糖値まで上がったんで気持ちよく眠ることができた。忙しい1日だったなと思った。
目が覚めたのは夜中の2時ごろだった。僕はYouTubeでナミビアのライブカメラを流しながら今日もらったタバコをいくつか巻いてコンビニに行ってチョコレートを買ってきた。それからウイスキーをコップに注いで部屋の電気を消した。窓の外を見たりライブカメラを見たりしながら僕は口の中でウイスキーボンボンを作るみたいにしてゆっくりと酒を飲んだ。少しずつ酒の量が増えていくのがわかる。外を見るのに飽きると扇風機をつけてまた眠った。次の日バイトに遅刻して店長に怒られたがせせらぎはその様子を楽しそうに見ていた。
「昨日疲れたもんね」
せせらぎが店長の前でそんなことを言うもんだから彼は僕らが深い関係にあるのではないかと思って驚いた表情をした。僕は一応彼の勘違いを晴らすために続けた。
「高尾山に登ったのははじめてだったので帰って少ししたら寝てしまったんです」
店長は安堵したような顔をしたが別にお前が安堵する意味はないだろと僕は思った。
「ハーブティーを飲んだらいいわ。疲れが取れるから」
「はい。休憩のときにもらいます」
そしてまたクスクスと笑ってせせらぎは自分の業務に戻っていった。店長は僕の方を見て頷いたあとボソリと口を開いた。
「君がきて彼女が少し明るくなったように感じるよ。彼女もいろいろあるんだ。別に僕が心配したりするのはお門違いだろうけど。彼女にとって君は大切な存在なんだろう」
僕は頷いた。
「僕も彼女に助けてもらってます」
彼は頷いた。
「君の根本は善意でできてるんだろうね。正直にいうけど君たち2人はできるだけシフトを被せるようにしてるんだ」
僕は頷いた。
「もしも嫌だったら言ってくれたらいいよ」
「いや、別に嫌じゃないです」
「変な話を聞くけど、君には彼女がいるの?」
「いや、いませんよ」
彼はニコリと笑った。
「そうか」
それだけ言って彼はまた従業員室に足早に入っていった。なんでそんなに面倒ごとを押し付けるみたいに彼女を扱うのかはよくわからなかったが僕は僕として彼女の友達としてきちんと向き合おうと改めて思った。彼女は帰る前に僕にルイボスティーを振舞ってくれた。
「寒い地域で暖かいルイボスティーを飲むのが好きなの。いつも冬になると家族で旅行に出かけるのよ。雪が降り積もってる場所で温泉があって……私はそういうのは好きなのよね」
「いいですね。僕もいってみたいです」
彼女はにこやかな表情を浮かべた。
「いつか行ってみるといいと思う。あなたはもっと北の方が似合うけど。ノルウェイだとかフィンランドとか…あるいはシベリアだとか」
「僕も温泉に入りたいですね」
彼女は少しだけ考えた。
「だけどあなたには似合わないわ」
「似合わなくても温泉に入りたいです」
彼女はもう一度考えてみた。
「温泉なら緑茶がいいのかしら?本当は」
僕も少し考えてみる。彼女は僕のコップにルイボスティーを注ぎ足してくれた。それから足を組み直して僕の目をじっと見つめた。
「確かにそうかもしれない。シベリアのルイボスティーそれから温泉宿の緑茶。だけど逆でもいいですね。シベリアの緑茶温泉宿のルイボスティー」
彼女は微笑んだ。
「そんなこと言ってるけどルイボスティーって南アフリカで有名よね」
僕は頷いて。ルイボスティーを一口飲んだ。
「はじめて知りました。ならシベリアのルイボスティーってだけで逆なんですね」
彼女はクスクスと笑った。僕は何度目かのルイボスティーを口に運んだ。最初はあんまり美味しいとは思ってなかったがどんどん好きになっていた。
「小さい頃ね、よくおんなじ夢を見てたの。白い箱に閉じ込められている夢。時々誰かが入ってきていつの間にかいなくなってる夢」
「もしも誰かが入ってきてるならドアがあるかもしれませんね」
「そうなの。うん。あのね、あったのよ。ドアは。だけど私はそこからは出ようとしなかったの。そこから出ることはできないことを知っているみたいな感覚」
「なんとなくわかる気がします」
「ふとその夢を思い出したの。今まで忘れてたけどね、この前山を登った日におんなじ夢を見て思い出したの」
僕は話の続きを待った。彼女は考えながらゆっくりと言葉を選んでいるようだった。
「なんていうのかな。いや、あのね。あなたの夢を見たの。夢の話だからあなたが知るはずもないんだろうけど、あなたはどうしていなくならなかったの?」
僕は少し考えてみた。真剣に。
「それは……」
なにか僕は言葉にしようとしたが難しかったのでやめた。
「ごめんね。またね」
彼女はそう言った。それからせせらぎが帰って僕は業務に戻った。他人の夢に出た自分がどんな姿をしているのか僕はいまいちよくわからなかった。他の人に自分がどう映っているのかなんてことを考えたことがなかった。僕は自分で巻いたタバコを持ってきてたがすっかり忘れてしまっていた。まあ、多分一緒に吸おうと言っても彼女は断るだろうけど。いや、それももうわからないな。せせらぎは少しずつ変わり始めているんだ。僕も思考を変えていかなくちゃならない。




