夢とせせらぎ④
朝起きて窓の外を見ると雨が降っていた。コンクリートは黒く染まり人々は少し足早に右へ左へと向かっていた。僕はため息をついて昨日外に出し放していた洗濯物を取り入れて風呂に干しなおした。明日晴れたらまた洗い直さなくちゃならないと思うと面倒だった。今から洗い直してコインランドリーに持っていくことも視野にあったが金がなかったのとめんどくさかったのでやめた。レイから貰った10万円は使わないでとっておこうと思ったが女の子と2回デートにいき(どれも面白くなかった)友達と数回遊びに行った時にバカみたいに羽振りよく金を出したせいでほとんど消えてなくなった。なんでそんなに馬鹿な使い方をするのか小一時間ほど問いただしてみたが問いただした僕も問いただされた僕も馬鹿だったので答えは露になって消えた。まあ、気にしてても仕方ないでしょ、最初からなかったものだと思うしかないねという解決のできない人間の薄っぺらなポジティブシンキングを発動させて僕はうどんとカモメに水をやった。彼らは家から一歩も出ないから雨なんて関係ないのかもしれない、いや湿気が多い日が続けば枯れる可能性もあるか。僕はそう思って彼らの最も顔っぽい部分を決めて窓の外が見えるように位置を調節した。時々は窓の外を見なくっちゃ君たちもダメになるだろうと僕は声をかけた。それから腹が減ったんで何かを作ろうと思ったがどうしても美味いものが食いたくて(つまりいつもの単純に茹でたパスタにマヨネーズとポン酢をかけるだけの料理じゃないもの)僕は雨の降る街を歩くことにした。業務用スーパーは少し離れたところにあり雨の日に歩くのはあまりにも面倒なんだけどまだ自転車を買ってなかったので歩いて行くしかなかった。僕はカネコアヤノのカウボーイを流して傘をさして歩き出した。スーパーでオリーブオイルとニンニクと鷹の爪を買って家に帰りそれらをじっくりと熱してガーリックオイルを作った。そしてそのままパスタを茹でて作ったガーリックオイルでペペロンチーノを作った。これで今後塩だけで美味いパスタが作れると思うと最高に幸せな気分になれた。それから大学の課題を終わらせた。
19時ごろに雨が止んで僕は何かをやろうと思ってそわそわとしたがなにをどう始めればいいのかわからなくなってやめた。想像力がうまく機能していない。色んなことを考えようとしたがそれらがごく当たり前の別にわざわざ表現するほどのことでもないような気がしてペンが進まなかった。それで駅前にある本屋でリチャードドーキンスの利己的な遺伝子を買って読んだ。10ページほど進んで自分には向いてないなと思って辞めてまた本屋に行ってヴィクトールフランクルの夜と霧を買ってまた家に戻って読んだ。次は20ページほど読んでやめた。10ページ多く読めたのか向いてないということに10ページも多くかかったのかはわからないが自分の中の無力感みたいなものに嫌気がさしてでかい声で叫びたくなった。それで浴槽にお湯を溜めて僕は湯船に顔を突っ込んで叫んだ。叫んでも何かが変わるわけでも何かがわかるわけでもなかった。ただ水道代が少し上がり水分がどこかを循環するだけで僕に何かをもたらすわけではない。もう一度本屋に行こうと息巻いたが叫ぶついでに風呂に入ったのでめんどく感じてやめた。9月の半ばはまだ蒸し暑く本屋まで行けば確実に汗をかく。部屋はクーラーで満たされておりそこから出ていく生物なんて1匹たりともいないだろう。なんだかネコと映画でも見れたら最高なんだけどなと思った。だけど電話する理由にしては弱すぎる気がしたので電話はかけなかった。人生とは不思議なものでこういう時に限ってネコから電話がかかってきたりするものなんだ。そして僕はそういったものに運命のようなものを感じて勝手に盛り上がっちゃうわけだよ。これは本当の話でネコから電話がかかってきたんだ!
「ウーリー。久しぶり、もう旅は終わった?」
思えば僕はネコと10日以上連絡をとっていなかった。
「うん。終わったよ。君はもう東京に帰ってきたの?」
「ううん。まだ熊本にいるよ。ギリギリまでいるつもりなの、今回は」
「それで?どうしたの?何かあった?」
「別に。ただ少しだけ寂しくなっただけ。つまり、その。死んだ猫のことを思い出したりして」
しばらく沈黙が続いた。
「なんで言えばいいんだろう。それは難しいことだから。君の気持ちは少しはわかるけど僕になにができるのかがわからない」
「ううん」
多分ネコは向こうで首を振ったんだと思う。
「ウーリー。ただ話してくれるだけでいいの。こうやって今みたいに。今なにしてたの?」
「本を読んでたんだ。リチャードドーキンスの利己的な遺伝子っていう本。まだ途中だけど面白い。オススメはしないけどね」
「不思議な本を読んでるのね。あなたに借りた本はまだ読めてない。少しずつ読んでいくね」
僕は首を振った。
「いいんだ、別に読んでも読まなくてもどっちでもいい。感想を求めるわけでもないし貸したつもりもない。君が好きに使ってくれればいい」
それからまたしばらく沈黙が続いたあとにネコは自分が飼っていた猫の話をした。まるで繋がりのない文章を聞かされているみたいで正直つまらなかった。だけどネコが一生懸命話しているのがわかったから僕も一生懸命に聞いた。話がつまらないとしても伝えようとしてくれていることが嬉しかったんだと思う。いつの間にか10時半を回っていて僕らは電話をやめた。それから僕は夜と霧を全部読んでしまった。
次の朝バイト先でせせらぎに久しぶりに会った。彼女は髪を切っておりもうそのことに慣れているようだった。
「髪、切ったんですね、またお見合いですか?」
せせらぎは首を振った。
「もうね、お見合いはしなくてよくなったの。しばらくはね。お母さんが倒れて入院してるから」
「複雑だ。おめでたいことと残念なことが同じ文章に含まれてる」
「だから少し出かける余裕もある。あなたが誘ってくれるならの話だけど」
僕はにこやかに笑った。
「いつが空いてんですか?僕はいつでもいいですよ」
「明日も明後日も空いてるよー」
彼女はまるで緊張しているのを隠すようにそう言った。
「じゃあ明日遊びましょうよ、あさの10時に集まりましょう。最寄駅はどこになるんですか?」
「登戸」
「じゃあ登戸駅の改札前に10時にきてください。僕にいい考えがあるので」
せせらぎは慣れてない風に頷いた。
「あ、動きやすい服の方が良いですよ、歩くんで。ハイヒールとかはやめといてください」
彼女は少し考えるそぶりをした。
「カジュアルな服でいいの?デートなのに」
それで自分でデートと言ったくせに恥ずかしくなったのか顔を赤らめた。僕はなんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。
「あのね、お見合いじゃないんですよ。僕の世界じゃもっと気軽に全てのことが行われるんです。何か思ってることがあるなら言うし何かしたいことがあるならやってみるんです。堅苦しいものなんてほとんどないんです。当てはまるかなんてこと考えなくていいんですよ。それはそれで認め合うことからはじめなくちゃ。僕らは自立した生命体なんですから」
彼女は僕の方を見ながらニコニコと笑っていた。ほとんど頭の中には僕の言葉は入っていないように見えた。
「自立した生命体、デートは当てはまるかではなく認め合うことが大切」
彼女は僕が言ったことを要約した。なんだ、きちんと聞いてるじゃないかと僕は思った。
「そうです。そんな感じです。もうひとつ言うならライフイズパーティです。パーティが始まったらパーティが終わるまでは楽しまなくちゃならない」
「ライフイズパーティ。あなたの口癖も似たようなものね。人生は素晴らしい」
僕は頷いた。
「そうですね。でも僕ってそんなに言ってます?」
「まあまあ言ってると思う」
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登戸で彼女と待ち合わせをして僕らは高尾山口まで電車に揺られた。彼女は僕が追加で伝えた着替えをリュックに入れて持ってきていた。僕は手提げに着替えを入れて持ってきた。
「私、高尾山ってはじめて登る。ずっとこっちにいたけど登るのは初めて」
「いいですね。やったことないことならそれはよかった」
「その本、面白いよね。私も好き」
彼女は僕が読んでいたポールナースの生命とは何かを指さして言った。
「読んだことあるんですか?僕はまだ読んでる途中です」
僕はその本の表紙と背表紙を交互に見ながら言った。
「うん。そういう本は好き。よく考えるから。人生だとか生命だとか」
「愛だとか……」
と僕は付け加えた。彼女は頷いた。
「罪だとか……」
「他にオススメはありますか?」
僕が聞くと彼女は少し考えてから言った。
「利己的な遺伝子は読んだ?」
「まだ読んでないです。一昨日くらいに買いました」
「野生の思考は?」
僕は知らないという風に首を振った。
「難しいけど、レヴィ=ストロースって人が書いてる民俗学みたいなもの」
「読んでみようかなって思います」
「貸そうか?そういう本なら沢山あるよ」
「いや、大丈夫です。自分で買いたいので」
僕らは分倍河原で京王線に乗り換えた。平日だったので人はまばらで僕らは座ることができていた。
「だけどあなたって不思議よね。変わってるってよく言われるでしょ?」
「たまに言われますね。だけどみんなそうじゃないですか?」
彼女は首を振った。
「いいえ、あなたは変わってるのよ」
それからクスクスと笑って僕の頬を眺めるようにみていた。僕もときどき彼女の方を見たがその度に目が合った。
「変な話ね、例えば誰かに言う変わってるっていうのは他の人と違う目で見てますよってことだったりすると思うの。私も中学の時初めて人を好きになった時その人に言ってたもの。変わってるって。でもそれは別に変わってないの。俯瞰して見れば別に普通の人なのよ。だけどあなたは特別よみたいな意味で使っちゃってたわけ。少し複雑だけど言いたいことわかるでしょ?」
あくまで彼女は小声で話していた。僕らの周りにはほとんど人はいなかったというのに。ときどき彼女の声が電車が出す音で消されていたせいで僕は彼女の声をつなぎ止めて言葉にするのに精一杯だった。
「なんとなく言いたいことはわかります」
「だけどあなたは本当に変わってるの。違うのよ。アヒルの群れに白鳥がいるみたいにそれは全く違うのよ」
僕は笑った。
「白鳥の群れにアヒルがいるんですよ。ときどき過大評価されることがあるんです。だけど僕は他の人より優れたりしてない。まあ、白鳥がアヒルより優れている前提で話すのはいささかどうかと思いますが」
せせらぎもクスクスと笑った。
「でもそれって素敵よね。自分だけ違う美しさを持ってるってどんな気分なんだろうって時々思うの、あなたを見たり話したりしてると」
僕は考えてみた。
「みんな誰かにとっては白鳥だったりしますよ。多分」
「ねえ、そんなこと言わないでいいのよ」
僕はもう一度考えてみた。
「僕が思ってることって少ないんです。嫌なこと言っちゃうかもしれないんですけどね。例えば今僕の大切な誰かが死のうとそれで僕の人生がよりドラマチックになるのならいい気がするんです。悲しんだり寂しくなったりするのなら彼らが生きた意味ってのがしっかり残ったってわけじゃないですか。結局は僕は僕のことしか考えてないんですよ」
「私が死んでも?」
「死なないで欲しいんです。誰にも。だけどその反面そういったことで自分が作られているってのもあるんですよね。色んな不幸や幸福が僕という人間を作ってる。そうやって作られた僕が僕の周りの人間関係を作る。壊れるものもあれば新しくできるものもある。死というものがなければできなかったという事実があるじゃないですか。悲しいことに」
「それは少しわかる気がする。私も妹が死んでそれから両親がすごく過保護になった。だけどあなたに会えたりハーブティーを作ってみたりしてる。変な話ね」
「僕は今の僕が好きなんですよ。今の僕と今の僕が愛している人たちが。あなたもそうですし、他にも友達がいてその人たちのことも好きなんです。もちろん家族も。それから死んでいった人たちのことも愛しています」
「あなたは良い人だからね。とても優しい」
僕は考えてみてそれから結局ちっとも読まなかった本をカバンの中に入れてそうかもしれないですねと冗談っぽく言った。彼女は僕が冗談みたいにいったのに対しても真面目に情愛を持って「そうよ」と微笑んだ。
高尾山口駅のロッカーに僕は荷物を入れてペットボトルを持って小銭を少しだけポッケに入れた。彼女もリュックを僕と同じロッカーに入れてそれから僕とおんなじようにペットボトルの水を持って僕の隣に並んだ。かなり歩くからケーブルカーかリフトを使ってもいいと僕が提案したが彼女はできるだけ山道っぽい道がいいといったので僕らは6号路で登ることにした。彼女はとても幸せそうな歩幅でぐんぐんと進んでいった。僕らはもう道と呼ぶより小さな小川と言った方がいいような道を上へ上へと進んでいった。川は小さな流れを作っていた。木の葉を流せずに溜まっていた水たちも上から新しく流れてくる水滴たちに押されて新しい場所から溢れるように別のルートを作り流れていた。やがてそれらが岩を削り少しずつ大きな川になり海になる。海で飽きるまで漂えば深海に潜ったり蒸発して雲になったりする。降り注ぐ場所は選べないかもしれないがいずれにせよいつかは分子を忘れて原子になってどこかへ移動する。
「ねぇ、高尾山ってクマが出たりするの?」
狭い山道を通りながら彼女は僕に聞いた。夏は盛りを過ぎていたが温度は高かった。それでも山の奥に進めば進むほど涼しくなっている気がした。
「さぁ、もしかしたら出るんじゃないですかね?」
彼女はふうんと言った。
「小さい頃にね、絵本で読んだことがあるの。きょうはみんなでクマがりだって絵本」
「僕も好きでした。外国の作家が描いてるやつですよね」
「うん。なんだか今ふと思い出したのよ。まるで熊狩りをしているみたいだなって思ったから」
時折り山を降りてくる人たちとすれ違ったり僕らより遅い登山者を抜かしたり早い登山者に抜かされたりしていた。ひとりひとりのペースがあるんだ。
「もしも熊が出てここで食べられちゃってもいいかもって気分」
彼女は冗談なのか本気なのかわからないような感じで言った。歩幅は相変わらず楽しそうで僕は彼女の歩調が好きだった。レイサン島のいかれた脳みそを僕が持っていたらこれで何かメロディーを作れるのかもしれないと思った。
「お腹が空いてるなら食べられるのは僕のほうだ。それにまだ死ぬわけにはいかない。言ってなかったんですけど僕は音楽がしたいんです」
彼女はにこやかに笑った。それから持ってきていたハンカチで丁寧に汗を拭いた。
「素敵ね!あなたの言葉は誰かに届くべきだもん。救われる人がいると思うの。その、これはお世辞とかじゃなくてね。ねえ、こんなこと頼むのは変なことだしもしも嫌だったらいいんだけど、私の曲を作って欲しいの。そしたらもしもあなたが死んでしまったとしてもその音楽にもあなた自身にも意味みたいなものができるでしょう?ほら、あの今日の行き道に電車の中で言ってたみたいな」
僕はなんだか嬉しい気持ちになった。
「そうですね。でもそんなに上手くないんです。何もかも。音も歌も詩もあなたが思ってるようなものは作れないかもしれない」
せせらぎは首を振った。
「そんなことないわ。まだ曲を聴いたわけじゃないけどそれはわかるわ。ねぇ、聞かせてよ」
それで僕は何を聴かせるか悩んでアルマという曲を流してみた。
「これあなたが全部書いてるの?」
「うん。書いたのが僕で曲は友達が作ってます。メロディは浮かんできたものをふたりで出し合って作ったんです。相方がとにかく才能があるやつで時々やんなっちゃいますけど」
せせらぎは感心したように僕の目を見た。丁度広がりのある場所だったので僕らは止まって周りの景色を見ながら僕が作った曲を聴いていたんだ。
「優しい詩を描くと思ってたの。そうね。あなたにぴったりだと思う。それにやんなっちゃうことはないんじゃない?その人はあなたの味方なんでしょ?」
「えぇ、おそらく一番の味方ですね」
「わかってるじゃない。おんなじように強い部分で話し合うとお互い引けなかったりしてぶつかることもあると思うけど」
「ときどきぶつかったりもしますね。多分」
「この曲好きよ。わたし。ねぇ、本当に私のこと描いてくれない?どんなものでもいいから」
僕は嬉しくなっていたのでそれに同意した。
「できるだけ上手く作れるようにします。時間はかかるかもしれないけれど」
それから僕らはまた歩き出した。彼女と歩くのはすごく素敵なことでまるで雨が止んで次の雨が降るまでの晴れ間を歩いているような感じがした。
「でも、本当の話ね、熊が出て食べられちゃってもいいって気分なの。この曲を聴きながら私は助けも求めずに死んでいくの」
「怖いこと言わないでくださいよ、全く」
僕がそういうと彼女はくすくすと僕を茶化すように笑った。
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頂上に着くと僕らは富士山を眺めたりせせらぎの写真を撮ったりした。それから直ぐに降りはじめて(帰りは1号路で帰った)、途中にある神社でおみくじを引いた。それからふたりで生物学や哲学の話をした。彼女の話は面白かった。
「でも、もしかしたらあなたの言うとおりかもしれないわね」
彼女は前までの文章を納得するみたいにそう言った。
「そうでしょ?世の中は支配者が巡るとこで変化していってるんですよ。ティラノサウルスもオパビニアもそうですよ」
彼女は頷いた。
「それで人類の次の支配者はAIになるってわけね?」
「えぇ、彼らは効率よく増えたり減ったりすると思うんです。そこにないものは愛なんですよ。だから僕らは最後の支配者なんです」
「最後の支配者ね……」
せせらぎはさっき聞いた曲でも出てきてたわね。というような表情をした。
「でも…」
せせらぎはそう言った。
「気づきましたか?」
と僕は答えた。それから彼女が言おうとしていることを言った。
「もしかすると唯一の支配者なのかもしれないってことですよね」
「うん。愛って証明できるものじゃないから。人間にも言えることかもしれないけど」
それから少し沈黙が続いた。僕らはリフト乗り場まで来てリフトに乗った。
「少しお腹が空いてきました。何か下で食べましょうよ。温泉に入ってからでいいんで」
僕が提案すると彼女はようやく考えるを止めて微笑んだ。
「あなたって賢いってよく言われるでしょ」
僕は首を振った。
「言われるけど間違いです。好奇心があるだけなんですよ。本当の話。数学なんてちんぷんかんぷんですし別に国語も点数取れるわけじゃないですから」
彼女はふうんと言った。それから足を空中でぶらぶらさせて胸元に空気を入れるみたいにパタパタとさせた。彼女のつけていた香水の匂いが香ってきた。どこかで嗅いだことのある匂いだった。勾配のある坂道をリフトはゆっくりと揺れながら降りていた。僕は彼女が何を考えているのかを考えてみた。
「例えば、さっきの熊のはなしーー」
と僕がいうと彼女は僕の方を見て僕が次に何をいうのかわかってるような感じでワクワクとした風な顔をした。僕は続けた。
「こういう場所で振り落とされてもいいって気分になるのと似ていますかね」
彼女は少し考えるような沈黙を作った。
「こういうのってなんで言えばいいのかわからないのよ。あなたのことを好きってわけでもなければ愛してるって感情とかでもない気がするの。だけどね、なんていうんだろう。なんとなく想像する未来よりも今のまま死んだ方がマシなんじゃないかって思うの。変な話、わたしは今幸せなの。別に恋人になって欲しいわけでもないし愛してくれって言いたいわけでもないのよ。ただ自分が過去や未来と比べても幸せな場所にいるなって感じるの。全く変な話なんだけど」
僕も同じくらいの沈黙をあけた。
「また僕たち遊べますか?」
彼女は頷いた。
「もちろん。あなたが嫌じゃないんだったら」
それらは全て健全だった。手を繋ぐこともなければキスをすることもない。ときどき肩がぶつかるくらいの至って健全な距離感。リフトは麓まできちんと仕事を終えるとまためんどくさそうに垂れたまんま上に登っていった。僕らはリフトとは反対方向に少しずつ少しずつ降っていった。




