朝凪
「おはよう、世界」
レイが耳元でそう言った。クーラーは昨日からずっと稼働したまんまで今もまだ動いている。そのせいで喉がすごく渇いていた。レイは僕の額にキスをしてそれからまた布団の中に入った。やけに頭が痛かった。喉も渇いている。
「おはよう、世界……?」
僕は呟くようにレイにそう返した。変なあいさつをするなと思ったがレイはそういう奴だった。僕は眠気まなこのまま時計を探したがその部屋には掛け時計も置き時計もなくて仕方なく立ってリビングの机にあるスマホで時間を確認した。時刻は朝の7時を過ぎたばかりだった。
「喉が渇いた。水飲んで良い?」
僕がレイに聞くとレイは反対側を向いたままさっきより更に丸まって答えた。
「いちいち馬鹿みたいなこと聞かなくていい。自分でできることは自分でやって。何やったって別に怒らないから。歯ブラシは新しいのが洗面台の下の棚に入ってたと思う。使いたいなら使って」
レイは少し眠そうな声でそういうと布団を引っ張って完全に姿を消した。夏なのに部屋の中は寒いくらいだった。
「ありがとう。けど歯ブラシは持ってるからそれを使うよ」
「ふうん。早く戻ってきてね」
「窓を開けていい?」
僕はレイに聞いたがレイは答えなかった。僕は台所にいって水を2杯とコップの半分くらい飲んでそれから冷蔵庫を開けた。ほとんど何も入ってなかったがなんとかなりそうだなと思った。トイレを済ませて歯磨きを終えると僕はカーテンと窓を開けた。陽の光が気持ちがいいと感じる日がときどきあってそれはとてもいい朝ということだ。僕はベッドに戻って仰向けになり今日のスケジュールを練った。レイはベッドの沈みで僕が隣に来たことに気づき僕に自分の胸を押しつけてきた。
「あなたの夢を見たわ。幸せそうに犬と走ってた」
レイは小声でボソボソと空気を含みながら話した。まるで子供たちが親に内緒で話すみたいに。
「ボルゾイって犬種なんだ。名前はヘンリーって言う」
レイは僕の胸に自分の胸を押しつけたまま僕を見下ろすように見た。
「あなたは怖いのね。かわいそうに」
そう言ってまた離れて反対側を向いて丸まった。僕はレイの言葉を頭の中で繰り返した。
「あなたは怖いのね。かわいそうに」
それからキッチンに行ってコーヒーを沸かして米を研いでスイッチを押して部屋を出た。それから近くのスーパーで買い物をして家に戻った。レイはまだベッドで丸まったままだった。僕は味噌汁を作り、鯖とウインナーを焼いて卵焼きを作った。レイはのそりと起きてベットからこちらを見つめていた。それから服を着ていないことを思い出して近くにあった僕のシャツを一度匂ってから着た。
「なに作ってるの?」
レイは僕の方に近づいてきて言った。
「朝ごはんだよ。健康的な朝ごはん」
「ふうん」
「健康的な朝ごはんを食べる。どこかに出かけてきちんと疲れる。人間はだらけてても疲れるもんだ。大切なのは健康的な疲労感を1日かけて感じることなんだ」
「充実感?」
「そう、充実感」
レイは僕を見ながらコップに水を注いでリビングの机の前に座った。
「今日はどうするの?」
「君と遊ぶ。嵐山だとか太秦映画村だとか清水寺だとか外国人が観光に来た時にいくような場所に行く」
「そんな場所行ったって何にもいいことなんてないよ」
「もう一度言うけど目的はそうじゃない。健康的な疲労感を得ることが肝心なんだ」
「馬鹿じゃないの」
僕はレイの前に食事を並べ始めた。レイは出された食事の匂いをひとつひとつ丁寧に嗅ぎながら僕が座るのを待った。
「明日は帰る?」
「明日は帰る。切符の効果も切れるし」
「お金の心配はしなくていいわよ。いれるだけ居てくれていい。本当の話よ」
僕は首を振った。
「バイトがあるからどっちにしろ明日には帰るよ」
「休んじゃえばいいのよ、バイトなんて」
レイはそう言って僕にいただきますと言って味噌汁を啜った。
「まぁ、1日くらいならなんとかなるんだけど」
僕はレイの好意が嬉しかったのでそう言った。それから店長に電話をかけて休みをもらった。
「大丈夫だった?」
僕は頷いた。
「遠い親戚が死んだ。ベンおじさんっていう優しい人だったんだけど、雷に打たれて亡くなった」
レイはクスクスと笑った。
「ベンおじさんは死ぬために作られたのね。あなたがバイトを休んで可愛い女の子の家に泊まるために」
「ベンおじさんは僕がバイトを休んで可愛い女の子の家に泊まるために死んでくれるんだ」
僕も味噌汁を啜った。うまい。健康的だ。漬物があれば完璧だったな。僕が電話している間にレイは半分くらい食べすすめていた。おんなじものを作ったからレイも僕のものを食べないだろうと思っていたがウインナーにケチャップをかけずにレイが食べ切ったせいで僕のケチャップのついたウインナーを一口食べた。彼女の趣味なんだ、人のものを食べることが。
「こういう朝はいつぶりだろう。食卓を挟んでおしゃべりしながらご飯を食べる朝」
レイはご飯をおかわりするために席を立ってついでに2杯目の水も注いだ。僕はレイの独り言に似た文言を聞きながら彼女の動きを目で追っていた。
「私、朝ごはんの匂いで布団から出たのってもう随分と昔のことのように感じるわ。子供の頃を追体験しているみたい」
「君が幸せそうならよかった。ご飯はあとどのくらいあった?」
レイはそっぽを向いた。
「知らない」
僕はニヤついて席を立って炊飯器の前に行った。
「ねえ、一口分だけ残したって仕方ないだろ?」
「だって面倒だったんだもん」
僕はやれやれと思った。そして一口分だけ残されたご飯をよそってから炊飯器を水につけた。
「今日の夜はどこかで食べる?」
僕が聞くとレイは少し考えてから言った。
「あなたがご飯を作ってくれるならそれを食べたい。私ね、手料理が食べたいの。優しい味の手料理。カレーだとか豚汁だとかそういうの」
僕は炊飯器に水を溜め終えてから席に戻った。
「いいよ。何か適当に作るよ。帰りに買い物して帰ろう」
レイはニコリと笑った。
「次はちょっとだけ残したりしないから」
僕は頷いた。
「変なことを言ってもいい?」
彼女は食べ終わった食器を軽く流してから食洗機の中に入れた。僕はなにも言わなかったが彼女は続けた。
「昨日の夜のことね、泊まりにきた男の人で私とセックスしなかった人はあなたがはじめて。別にそんなにたくさんの人が泊まりにきてるわけじゃないけど」
彼女の動きを目で追いながら僕は話の続きを待った。だけど彼女はそれ以上何も言わなかった。確かにどうしてしなかったんだろう。元ソープ嬢の女の家に泊まって隣で裸で眠っていたのに。
「疲れてたんだよ。昨日は」
僕は適当に何か言葉を挟んでみた。彼女はコーヒーを沸かしながら僕の方をチラリと見た。それから小さなジョウロに水を入れて部屋の隅にある観葉植物に水をやった。
「別に好きになったりしないから安心してね。別にあなたのことタイプじゃないから。ーーそもそもタイプなんてないし誰かを好きになることに疲れたのよ」
僕は黙ったまま残りの食事を片付けた。そして彼女と同じように席を立って食器を軽く流して食洗機に入れた。
「シュークリームはいる?」
僕はついでに買ったシュークリームの話をした。
「いらない。コーヒーだけでいい。アイスコーヒーがいいから氷を入れて」
僕は冷蔵庫からシュークリームを取り出して一口食べた。それからグラスに氷を入れてコーヒーが沸くのを待った。
「でもヤりたいならいつでも相手になるわ。本当の話よ、あなたはいい人だから」
彼女はクスクスと笑いながらそう言った。
「ヤんねぇよ。別に。ねぇ、勘違いしないで欲しいんだ。僕は君といる時間が好きなんだ。別に性的な関係じゃなくたってそれはおんなじなんだよ。いい?今日からはね僕らは友達なんだ。男と女だとかそういうのじゃない。僕は君を、君は僕を尊重しよう」
彼女は楽しそうにジョウロを手の上でまわしながら僕のそばまで寄ってきた。そしてもとあった位置にジョウロを戻して僕の肩を軽く殴った。
「尊重ってなに?私ね今までそんなことされたことないし、多分したこともないわよ」
僕は彼女の目を見てそれからコーヒーが一滴ずつ落ちていくのを見た。
「他の人とおんなじだと思わないことだよ。僕は僕で君は君であるんだ。周りと比べたりしちゃいけない」
「それだけ?」
「それだけでいい。それはときどき難しいこともあるだろうけど」
彼女はわかったと言った。そして僕の分のコーヒーを淹れて机に運んでくれた。
それから僕らはシャワーを浴びて洗濯物を乾かし畳んでから家を出ると嵐山に向かった。観光者たちで溢れかえっている嵐山をレイと二人で歩き豆乳ソフトだとかみたらし団子とかを二人で分けながら歩いた。竹林の小径は風が吹いて少し涼しかったが夏はやはり僕らの身体を少しずつ蝕むように疲れさせていた。
「路面電車って素敵よね、京都じゃここだけみたいだし」
「僕が育った熊本県じゃ路面電車は当たり前だった。僕も素敵だと思う」
竹林の小径の電線がなくなる場所にやってきてレイは空の写真を撮った。僕らはまた歩いて嵐山公園の展望台へと向かった。景色を一通り見終わるとレイが疲れたと行ったので僕らは少し休憩した。
「ここ5年で1番歩いた気がする」
彼女は白くて細い足をマッサージしながら眩しそうに目を細めて僕を見た。僕は彼女の代わりに日傘を持って彼女に影がかかるようにしていた。
「でも思ったんだけどさ、42を見つけたとして僕はなんて声をかければいいんだろう?」
あまりにも唐突なことだったからレイはなにを言っているのか思い出すのに時間がかかったみたいだった。
「知らないわよ、私も。でも会ったことがあるんでしょ?小さいころに」
「まあ、そりゃそうだけどさ」
しばらく休んでから僕たちは駅まで戻り一度レイの家に戻った。レイの家に着いたのは昼過ぎだったが僕らは夏の暑さにやられ切ってしまっていてシャワーを浴びて昼寝をした。それから夕方ごろに起きて2人で近くのスーパーまで歩いていってカレーライスとポテトサラダを作った。夜になってそれを温め直して食べて赤ワインを飲みながら他愛のない話をした。
「正直言って、私と一緒にいたらもっと冒険みたいなことが起こると思ってたでしょ?」
レイはそう言った。
「まあね、多少はね。でも楽しかったよ」
「次にここにきた時にはもう私はこの家にはいないわよ。だから探したって意味ないんだからね」
「探さないよ。君から連絡がきて会えるならば会うってだけでいい」
彼女は赤ワインを意味もなく傾けてその粘り気を見ていた。
「もう電話なんかしないわ。あなたとはもう会わないから。私ね、わかるの。本当にわかるのよ。そういうことは。信じてくれるでしょ?」
「信じるよ。君とはもう会えないんだね」
彼女は寂しそうに頷いた。
「そういう運命なの。私たち」
「ボタン掛けみたいだね」
「うん。本当にそう。私ね、もう会うこともないから言うけど今回ね、あなたにね、会ったのはね、確かめたかったからなの……」
「確かめたかった」
「うん。あなたのことが好きかどうか」
レイは照れ隠しでニヤけながらそう言った。僕はポテトサラダを一口食べた。
「それで?どうだったの」
「たぶんね、好きになれるだろうなと思ったわ。だけどね、あなたには今好きな人がいる でしょ」
「いるよ」
しばらく沈黙が続いた。僕はポテトサラダをまた一口食べた。それからワインも一口飲んだ。それからレイは一度ベッドの方に行き窓の外を覗いた。それから大きくため息をついた。
「ときどき、こんな人生がずっと続くのが退屈で仕方なくなるときがある」
ワイングラスを傾けて、それからグラスの中のワインを全部飲み干して続けた。
「人生のほとんどは悪くないんだけどね、例えば悪くても、悪くなくてもそれがずっとおんなじように続くならつまらないの。ずっと深海を落ちて行ってるような、あるいは宇宙を進んで行っているような」
僕はポテトサラダを一口食べた。それから立ってレイのそばに行って赤ワインを注ぎ足した。
「海底にもつかず、新しい惑星も見つからないならつまらない。おんなじような生き物やおんなじような隕石が近くを流れて去っていくだけ」
レイはそう言った。それからまた大きなため息をついた。僕は席に戻ってまたポテトサラダを一口食べた。ずっと細々と食べているせいでポテトサラダは大して減っていなかった。
「さみしくなったりする?」
僕は彼女に聞いた。
「ときどきね、でもあなたならわかるでしょう?寂しさだとかは大した問題じゃないの」
僕は頷いてワインを一口飲んだ。
「寂しさは大した問題じゃない。わかるよ」
レイは頷いた。それから席に戻ってきてワインを置いて自分の両手をお尻と椅子の間に挟むようにして座った。
「本当にわかる?」
僕は頷いた。
「問題は恒久的なことなんだ。君に必要なのは責任だよ。子供でも拵えればまた世界が変わって見えるだろうね」
「そんなに大人じゃないわ。もしも子供ができたら、そうね。何か変わるかもしれないわね。でも私ね、もしも生まれてきた子供が私と同じような苦しみを感じるならそれはそれで申し訳なくなっちゃうわけ。私ね、結構裕福に育ってきたの。何不自由なく生きてきたの。両親も優しかったし友達とも上手くやってた。でもね、私だけが上手くやってなかったの。私は私を上手く愛せないし、上手く使えないの。そしてね、家を飛び出したの。なんにも言わずに飛び出して友達との連絡もたった。本当の意味で一人になって風俗で働き出してお金を貯めたの。夢を見始めたのは一人になってからよ。少し人生が楽しくなった気がしたけど結局それにも慣れてしまったの」
「君は偉いと思うよ。君の考えかたの話だよ」
レイは僕の目をじっと見つめた。それから残りのワインを全部飲んでグラスを机の上に置いたままベッドの上に横たわった。
「迷惑かけないから、あなたもこっちにきて。明日全部片付ければいいのよ」
僕は片付け始めていた食器をそのままにしてレイの隣で横になった。
「人生は素晴らしいよ。君のだけじゃない、僕のもそう。素晴らしいんだ」
僕がそういうと彼女は優しく微笑んで僕にキスをした。それから服を脱ぎながら言った。
「何も言わないでいいわ。あなたも私もまたあの日のことを忘れられないだけだから。あなたは砂浜でまだ犬と一緒に走っているのよ」
僕は何も言わなかった。朝が来るまで朝は来ないし、夜が来るまで夜は来ない。そこにずっと太陽はあるけど誰もそんなことは気にしてない。全てが事実なんだ。カルパッチョ。僕は夢の中でレイと二人で静かな海の朝凪を眺めていた。その夢がレイが見せた夢なのかはわからないけど僕は少しだけ寂しい気持ちになった。




