パルプパルプパルプ④
ドイツの小さな田舎町のそれまた小さな靴屋の夫婦が大切にしている息子がいる。名前は確かルカとか言ったかな。その少年が最も信頼している叔父さんがいて彼の名前はベンと言った。少年がベンおじさんのことを何故信頼しているのかと言うと彼が自分と似ていて気弱で臆病だが動物や自分にはとても優しいからだった。彼、ベンおじさんは実際にただ優しくしているだけでなんの見返りも求めていない聖人だったがある朝に彼は死んでしまった。理由はついていなかったからという他ない。彼はその日全ての選択を間違えてしまったのだ。まず最初にいつも通る道が工事中だったため右か左かのどちらかに迂回しなくてはならず彼は左を選んだ。前にいた同僚の1人は右を選んだがそちらは渋滞に引っかかった。右を選んだ人も左を選んだ人もどちらも互いに自分が選んだ道の方が空いていて自分が選んだ道の方が早く目的地に着くと考えていた。結果は左折した人の方が何倍も早くつくことになる。ベンおじさんは左折を選びそれが不運の一つ目だった。だが彼は運が良かったと勘違いしたのだ。何故なら右側は渋滞になっており(それはその道で事故が起こっていたりカルガモが横断したりしたせいだ)普段よりも10分以上時間がかかることになるからだ。選択間違いはそれだけじゃなかった。いつも彼はマクドナルドでコーヒーのコンビを買うがドライブスルーで右側を選ぶと左側の端末の電源が落ちた。彼は今日はとても運がいい日だと思ったがこの後死ぬということを考えれば全くついてない日なのだ。さらに気分が良くなったためいつもと違い今日はコンビではなくセットを頼んだ。違いはハッシュポテトがついてくるかどうかのささやかな違いだったが担当する新人が手間取ったせいで少しだけ時間がかかった。さらにその新人店員のミスでお釣りを余計にもらった。新人はセットとコンビを打ち間違えたのだ。彼はやはり今日はついてると思ったが心優しい彼は自らの善意に従ってそれを店員に伝えて正規の値段を払った。これも間違い。
「今まで運が悪かったがね、ついに私にもツキが回ってきているようだよ」
ベンおじさんは陽気にそういった。
「すいませんね、新人なもんで。あなたみたいに親切で丁寧で心優しい人が増えればいいんですが」
彼はそう言った。それからベンおじさんに気をつけてご出勤下さいと言った。後にも先にもこれが最後の会話になった。
それから職場に着き駐車場に車を停めて外に出るとあまりにも綺麗な青空と心地よい気候に彼はいつもはしない伸びをした。その瞬間まさに青天の霹靂というべきだろう、雷が彼に落ちたのだ。もしもすぐに同僚が駆けつければ命があったかもしれないが彼が雷に打たれた時右側の渋滞を選んだ同僚はマックでいつも頼むコンビを頼み新人に文句を投げつけるように言っているところだった。そんなわけでベンおじさんは死んでしまった。
またある場所では戦争が起こっており今に撃ち合うのではないかという緊張が走っていた。それと同時に何千億光年という長い道のりを旅してきたゾンビウイルスが丁度この地球に舞い降りたところだった。だがそのウイルスは運が悪いことにその戦場に舞い降りわずか数秒で爆発に巻き込まれて死滅した。
このように奇跡的な運命というものは我々の知らない場所で今も起きている。僕らは毎日を当たり前のように過ごしているがときどきそれがどのくらいの奇跡なのか考えてみると良いだろう。僕は考えてみた。偉大なものや大きなものはたくさんある。例えば太陽や月、木星や地球、この世の中には大きなものというのは山ほどあるのにも関わらずここ最近僕の心を占めているのはネコというとても小さな女の子だった。僕の世界では彼女は宇宙よりも大きい。そんなことを考えている間に僕は九州を出た。山陽本線の岩国行きを降りて新山口駅に着くと僕はとりあえずその日泊まるホテルを探した。
そのホテルは古びたホテルで簡素な作りのホテルでこれと言って特筆するようなことはなかった。入り口で座っている管理人は無愛想な顔をしており必要最低限の言葉は一言も発さなかった。上、3500円、階段、鍵という言葉以外をプログラミングされていないロボットのような感じだった。その代わりに大きな咳をしていて言葉で消費するべきエネルギーは全てそれに使われているみたいだった。僕はここあたりで美味い飯はあるかと彼に聞いてみたが首を振って喋らない代わりにこの地域の雑誌をおもむろに僕の前に差し出した。あの美術博物館のような赤褐色の灯りがここにもついており僕はやれやれと思った。それから僕は気になった場所の住所をふたつほど書き出して雑誌を返してからホテルを出た。それからメモをした場所で食事をしてホテルに戻ってその日は眠った。長い旅の始まりだなと思った。日数はそんなにかけないが疲労は溜まるだろうなと覚悟していた。
次の朝起きてホテルをチェックアウトしてから夕方まで電車に乗って高松駅で降りた。それから美味いうどん屋でうどんを食って回った。多分4店舗くらい回ったと思う。それからまた宿を探してシャワーを浴びてから隣接しているコインランドリーで洗濯をした。乾燥を待っている時誰かから電話が入ってることに気がついた。それは見慣れない電話番号だった。もしかするとホテルからかもしれないと思ってホテルの電話番号を調べたが違った。僕はとりあえず電話をかけてみた。2コール目でレイは出た。
「もしもし、久しぶり。レイよ。覚えてる?」
「覚えてるとも。だけど何で電話番号なんて知ってるの?」
「あなたが教えてくれたからよ」
僕は考えてみた。教えた記憶なんてちっともなかった。
「教えた記憶なんてない」
「教えてくれたわよ。夢の中できちんとね」
「君は何でもできるの?もしかして」
「まさか、あなたの現実とリンクしているだけよ。それに他の人にはもし電話番号がわかっても掛けたりしないわ。なんででしょう。あなたにならかけてもいい気がしたの。あなたには嫌われる気がしなかったから」
僕はやれやれと思った。
「どこにいるの?」
「今?今は京都にいるわ。東京には当分行かないわよ」
「僕は今東京にはいないよ」
「あら、そうなの?」
「うん。香川でうどんを食べてそれから洋服を洗濯しているところ」
「そうなのね。安心してよ。そこまでは見えないから。断片的に情報を仕入れているだけだから」
「明日京都に行くよ」
僕は少し考えてからそう言った。柔軟剤の香りが強い熱に当てられて部屋を満たしている。時計の針は規則的に音を鳴らしながら僕を急かすこともなく響かせていた。
「新幹線?飛行機?随分とリッチね」
レイはあまり興味のないと言った風な口調でそう言った。
「いや、青春18きっぷを使って鈍行だけで熊本から経堂まで帰るんだ」
「ふうん。楽しそう。じゃあ、明日会いましょうよ。そういう旅じゃないってなら無理に会わなくてもいいけど」
「いや、会おう。別に自分探しをしているわけでもないし、僕も君に会いたいから」
「じゃあ13時に伏見稲荷に来れる?」
「うん。多分いけるよ」
それでレイは電話を切った。僕は一度時計に目をやった。相変わらず規則的に動いている。もう22時を回っていた。乾燥が終わって服を畳んでからホテルにもどって眠くなるまでライ麦畑でつかまえてを読んだ。それから残っていたペットボトルの水を飲み干してから眠った。
レイは薄い藍色のレディースタンクトップにジーパンを履いてスニーカーを履いていた。当たり前だけど以前会ったときとは違っていて髪の毛の色もミルクティー色に染めて軽く巻いていた。
「ねぇ、何か言うことないの?」
レイは僕にそう言った。
「似合ってるよ。イメージが変わりすぎて驚いていたんだ。高性能な脳を持っているわけじゃないから処理に時間がかかる」
「かわいいでしょ?」
「うん。かわいいよ」
レイはよしと言うと伏見稲荷の階段を一段ずつ登り出した。
「ちょっと待って、登るの?」
僕がそう聞くとレイはとぼけた顔をした。
「じゃあ何のためにここに来たのよ」
「正直な話ね、僕は疲れてる。5時間以上電車に乗って移動してきたんだ。それにお腹も空いてる。百歩譲って登るのはいいよ。だけどその前に食事をしよう」
レイはあからさまに肩を落として大きなため息をついた。僕はレイの真似をして肩を落として大きなため息をつき返した。
「わかったわよ。じゃあパスタね。それならいいわよ。私は今パスタが食べたいしここら辺で美味しいパスタ屋さんを知っているから」
僕はパスタなんてよく食べているから食べたくはなかった。
「もっと京都らしいのはないの?」
レイは手を横に開いてはてな?というような仕草をとった。
「そんなの夜に食べればいいじゃない」
「まあ、それは確かにそうだね。夜は一緒に食べる?」
「食べる」
レイは即答した。それからまた階段を降りてきて僕の肩をポンと優しく叩きついてきてというような仕草をした。僕はレイの進む道をゆっくりと歩いた。一度も横に並ぶことなくパスタ屋さんについて僕はボロネーゼの大盛りをレイはたらこパスタを頼んだ。
「和風のものを食べるんだね」
僕がいうとレイは少し考えてみた。
「ここのパスタの茹で加減が好きなの。それとタバコも吸えるし」
そう言ってアイコスを一口吸った。僕はふうんと言って水を一口飲んだ。
「タバコは吸わないの?あなたは」
レイは僕に聞いた。
「吸うよ。だけどときどきしか吸わない。気分屋なんだ」
「へぇ、なに吸うの?」
僕はウィンストンを出してレイに見せた。レイが後で一本吸わせてと言ったので僕は了承した。
ウェイターが運ばれてきたパスタを持ってくるとレイは僕に一口くれと言った。レイのひとつひとつの動作が可愛くて面白かったので断ったらどんな反応をするのかも見たくなったので僕は断ってみた。
「ケチ。一口ちょうだい。人が食べてるものが1番美味しく見えるのはみんな同じでしょ」
「まあ、確かにそうだね。一口あげるよ」
レイは一緒にきたセットの無糖の冷たい紅茶を一口飲んだ。それから僕のパスタに手を伸ばしながら言った。
「幸せは分けるために神様が作った発明品なんだから」
「まあ、そうかもね」
そして自分のたらこパスタは1人で食べてしまった。欲しいなら言えばくれるんだろうなと思った。幸せになりたいなら自分から動かなきゃいけないという教訓をパスタで再確認した。パスタは確かに美味かった。悪くない。僕は僕の幸せだけで満足できるんだ。わざわざ誰かの幸せを貰わなくても大丈夫なんだな。
「ミニトマトあげる。私ね普通のトマトも食べられるしトマトジュースも飲めるけどミニトマトは嫌いなの。だからあげる」
そう言いながら僕が了承する前にレイは僕のサラダの入っていた皿にミニトマトを入れた。不幸も分けるべきなんだ。そっちの方が辛くない。
「ここのパスタはうまいね。君についてきて良かった」
レイはニコリと笑った。
「東京で働いてた時にね、あの仕事って色んなところから人が来るからさ京都のお客さんもいたのよ。その人がここを教えてくれたの」
ふうんと僕は言った。
「君は京都に住んでるの?」
僕がそう聞くとレイは首を振った。
「色んな場所に住んでる。今は京都にいるけど」
「へぇ、大変なんだね」
レイはまた首を振った。
「好きだからそうしてるの。憧れもなければ夢もないから。その時の思いつきで行動してるの。案外なんとかなるものよ」
「君みたいな自由な人は初めて見たよ。僕の知り合いに分けてあげて欲しいくらい」
彼女は微笑んで僕のタバコを一本とって火をつけた。テラス席の床のニスは少し剥がれていて誰かが通るたびにギシギシと音を立てていた。レイは音が鳴るたびにそちらに目を向けてまたすぐに目線を戻していた。店内の方がずっと涼しいのにタバコを吸う人間は便利さよりもタバコを取る。バカみたいな話だけど本当なんだ。
「満足できた?おぼっちゃん」
レイは僕にそう聞いた。
「まあね。うまかった。デザートにプリンかなんかあれば完璧なんだけど」
「それなら美味しい店を知ってるわ。タバコは吸えないけど」
僕はタバコをポッケにしまった。
「僕はヤニカスじゃない。シケモクのプロだけどヤニカスじゃない。別に吸えなくても問題ない」
「何よ、シケモクのプロって。馬鹿じゃないの?」
「シケモクのプロはシケモクのプロだよ」
「へぇ。まあ、いいけど。凄いの?それ」
レイは全く興味がないといった感じで聞いた。
「凄くない。ただシケモクのプロってだけ。僕が男で君が地球人、このテラスの床が軋んでパスタがうまいのと同じ」
「馬鹿じゃないの?」
レイは呆れたようにそう言った。それから店を出てレイの後ろをまたついてまわった。パスタ代は全部レイが払ってくれた。
僕はプリンを食べながらアイスコーヒーを飲むのが好きなんだ。好きなものはたくさんあるけどね。レイは熱いコーヒーを頼んで抹茶のかかったムースのようなものを食べていた。僕がレイに一口くれないかと言うとレイは嫌そうな顔をしたが一口だけ僕に食べさせてくれた。そして僕のプリンを二口食べた。ここもレイが全額出してくれたから別に全部食べられても文句は言わない。
「あなたといると心地がいいわ。よく言われない?」
「言われない」
「そう。あなたといると心地がいいわ。あなたは私のこと何にも聞いてこないから。年齢だとか仕事だとか家族のことだとか恋人のことだとか」
「住んでる場所は聞いた」
レイは少し考えた。
「あなたといると心地がいいわ」
「そういった個人的なことは聞かれるのは嫌なの?」
レイはまた少し考えた。
「別に。あなたに聞かれる分にはもう構わないわ。だけどなんて言うんだろう。そういうので会話が埋まらなかったのが良いんでしょうね、多分」
僕は彼女の目を見てプリンを食べきってうまかったと言った。
「久しぶりに他愛のない会話をしている気がするからあなたと話すのは楽しい」
そして彼女は昔の話をしだした。
「私ね、切れない関係が好きなの。家族だとか親友だとかペットだとかそういう言葉ではなくて本当の意味で心で繋がっている感じのやつよ。二者間の中にある不思議で切れない関係ってあるでしょ?」
「うん。なんと無くわかる気がする」
彼女は頷いた。それからコーヒーにミルクを入れた。
「簡単に言えば依存なんだけど、正確にはそうじゃないの。私も離さないし相手も離さないみたいな関係。とにかくそういうのが好きなの」
近くではおばさんたちが集まって何かをごちゃごちゃ話している。レイの耳にぶら下がっている少し大きめのリング型のイヤリングが揺れていた。彼女の腕にはタトゥーが入っていてそこには数字で00と書かれていた。もしかしたら本名もレイという名前なのかもなと僕は思った。
「同棲したりするとさ、嫌になったりするでしょ?それで夜に喧嘩したりして
「大っ嫌い!もう今日は1人で寝る!」
って私が彼に怒るとするでしょ?そういう時って大体の男の人って黙るでしょ?怒ってるのはわかってるんだけどグッと堪えるじゃない」
僕は相槌をつきながらレイの話の続きを待った。
「私はね、そういう時いつまで怒っていいかわからなくなるの。何に怒ってたかなんてわからないけどまだ怒っておかなくちゃならない気になっちゃうの。そしてそういう時はねいつも朝食を作るのにその日の朝は用意しないの。自分の分だけのトーストと自分の分だけの目玉焼きを焼いてコーヒーも1人分だけチャチャっと作っちゃうわけ。
いつもはね、コーヒーは沸かすから余っちゃってお昼に私がそれを飲むんだけどそういう日は1人分のインスタントコーヒーで淹れるの。
朝になって彼がリビングにきておはようって言っても私は返さない。彼が謝っても知らんぷりするの。そうしたら彼も何も言わなくなって仕事に出ていくのよ。
夜になったら彼は必ずケーキを買ってくるの。コンビニのケーキだったり時間があればケーキ屋に行ったりもする。とにかく何かを買ってきてくれるの。
「何これ?」
私がそういったら彼はとぼけたような顔で言うの。
「たまたま通りかかったから買っただけ」
そしたらね私も許しちゃうの。
「ごめんね、ありがとう」
ってちゃんというのよ。こういうのが好きなの。切れない関係のための準備。1人用のインスタントコーヒーだったり帰り道のケーキだったりね。そして私も彼に夜ご飯を差し出すの。彼の好きなオムライス。チキンライスに卵を乗せて作るの。それから唐揚げも用意してる。こういうのが好きなのよ」
「いいね。そういうの。切れないための準備。喧嘩も仲直りも計画的に行えたら1番いいだろうね」
「そうなのよね。わかってくれる?」
「なんとなくね。大抵のことは怒るほどのことではない。落ち着いて見てみれば」
レイは頷いた。そしてコーヒーを一口飲んだ。
「けど怒ってもいいでしょ?」
僕は頷いた。
「準備ができてればね」
それから僕らは店を出て伏見稲荷神社を登りきった。伏見駅まで戻るとレイが家に来てといったので僕らはタクシーでレイの家まで行った。




