夢とせせらぎ①
砂浜をヘンリーと走る。潮風の香り、遠くに伸びる雲、水飛沫、波の音、濡れた砂と乾いた砂のコントラスト、風の音、乾く口内は少し血の味がする。日が暮れ始め景色が美しいグラデーションを見せると僕らを呼ぶ大人たちの声が聞こえる。大人の数は4人。僕の父と母、それから誰かの父と母。僕は立ち止まり大人たちの姿を見る。ヘンリーも息切れをしている。僕はその娘の手を握ったまま歩き出した。歩いても歩いてもどこへも進めない。そのうちヘンリーはいなくなってしまう。いついなくなったのだろうか?とても自然にまるでいなくなることが決まっていたように僕の前からいなくなる。僕はひたすらに歩き続ける。休むことなくひたすらに、彼女の手を握って……
あれ?
僕はふと握っている手を見る。それは手ではなく人間の手の骨に変わっていた。
これは誰の手なんだろう?
僕は何を探しているんだろう?
けたたましいアラームが鳴って目が覚める。それから身支度を整えて家を出てバイト先に向かう。途中の道の花屋の女店員が業者のおじさんに向けた笑顔がとても素敵だった。彼らもアラームによって起こされてる。世界はアラームに支配されている。日曜日の朝に僕はそれに気がついた。だけどアラームが考える世界の支配は僕たち人間にとっては無害なものに過ぎなかった。彼らは僕たち人類を起こすこと以外には特にこれといって野望がなかったからだ。そんなアラームに支配された日曜日の街はいつもより静かではあったがそれでも活気を絶やさずに生活を続けていた。僕は記憶が正常に働いているかどうか確かめるために昨日のことを思い出そうとしてみた。そうだ、昨日はネコと会っていたんだ。ネコと動物園に行っていろんな動物を見て、そのあと場所を移動して酒を飲んだんだ。あれはすごく楽しかった。僕はまだ少し二日酔いで鈍った頭の中でそういうことを考えていた。
「二日酔い?昨日は楽しかった?」
せせらぎが僕に聞いた。彼女はだいたい僕よりも先に休憩室にいる。
「楽しかったですよ。地球が間違って昨日をもう一度届けても僕は文句を言いません」
せせらぎはクスクスと笑った。彼女はエプロンを巻きながら家から持参した保温性のある水筒に口をつけた。
「ダメよ、二日酔いは。あれ、キツいんでしょ?」
彼女は蓋を丁寧に閉めながら僕に聞いた。店内には僕らの他に店長もいたが彼は忙しいらしく朝からバタバタと店中を走り回っていた。
「いや、軽いやつです。そんなにキツくないですよ。頭が少し痛いかなってくらいで」
僕もエプロンの紐を結びながら彼女の前髪が揺れているのを確認した。光に当てられ茶色く透けている整えられた前髪が綺麗だった。
「そうなんだ、お薬あるよ?生理痛のやつだけど」
僕は微笑んだ。
「いや、大丈夫です。こんなのすぐ治っちゃいますから」
彼女も微笑んだ。
「ハーブティーはいる?実家で育てたやつ」
僕はまた微笑んだ。せせらぎは何か誰かに施さなくちゃ気が済まない性格なのだ。
「一口いただきます」
彼女は僕が飲んでいる間少し恥ずかしそうにこちらを見ていた。
「家、出ないんですか?出たほうがいいですよ、あなたのためにも」
せせらぎは苦笑いした。
「出たいとは思ってるんだけど……」
沈黙が流れそうになったので僕は話題を戻した。彼女は何か言おうとしていたが僕がそれを遮った。別に遮っていい話なんだ。色々と言い訳を並べるだけだから。彼女はよくつけなくても良い助走をつけて結局話したいことを話せなかったりする。そこのところは彼女より僕がうまいから僕がリードするんだ。
「うまいですね、このハーブティー」
僕はありきたりなことを言った。
「私ね、昔からお茶を淹れるのだけは得意なの。他のことはダメダメだけど」
彼女は生き生きと話したと思ったらすぐに落ち込むような表情をした。1文に喜怒哀楽をひとつにしなかったからだ。彼女はとても表情が豊かだから観察をすると面白かった。
「そんなことないですよ、あなたほど丁寧に商品を陳列する人を僕はまだ見たことがありません。それにスピードもはやいし」
僕ができるだけわかりやすく言うとせせらぎはにこやかに笑った。
「褒めるほどのことじゃないわ、この前だってあなたに助けられたわけだし」
「この前?」
僕は思い当たることがなかったから疑問符をつけて返した。
「ほら、私が忘れてた仕事を教えて手伝ってくれたでしょ」
僕は笑った。
「それこそ覚えておくほどのことじゃないですよ。正直な話、あなたが思ってるほど悪い人たちばかりじゃないんですよ、世界は」
彼女は少し間をあけてからもう一度ハーブティーを飲んだ。
「あなたは私より若いのに世の中を私よりもずっと知っているみたい」
僕は頷いた。
「僕の世の中の話です。それは僕しか知らないですから話半分に聞いてくれればいいですよ。話せることは多いんです。おしゃべりだし色んな変わった人たちと関わってきたつもりだから」
彼女はなぜか少しだけ照れたふうに頷いた。
「あなたと話している時間は楽しい。少しの時間しかないけど。この時間が好きで少し早くきてるの」
そう言ってロッカーに水筒を直して鍵をかけてバックヤードから出ていった。僕は鍵をかけずに彼女の後を追った。彼女は僕よりも短い時間しか働かずに帰るから僕が帰る時にはいつも居ない。その日ももちろん僕より先に帰った。僕はもう少し彼女と話をしたいと思ったが相手がそれを望んでいるかはわからなかったから求めることはしなかった。いつもバイトが始まる前の30分くらいの間だけおしゃべりをする両親からの束縛が激しい26歳の女の子というのがせせらぎの簡単な説明だ。彼女は人生で何を望んでいるんだろう。自分のためだけに毎日毎日ハーブティーを淹れるのは少し寂しい気がした。
次の週も僕らはバイトが始まる前におしゃべりをした。せせらぎは髪を少しだけ切っていた。僕は彼女に会ってすぐにそのことに気がついてそれを指摘すると彼女は少しだけ嬉しそうに微笑んだ。褒められることに慣れていないみたいで少し褒めると否定しながらもいつも嬉しそうにしているのがとても可愛かった。
「この前からお見合いをさせられてるの。それで少し髪を切ったの。知らない誰かのために髪を切るのは嫌だから、あなたが気づいてくれて嬉しい」
彼女は友愛の気持ちを込めて僕に言ったが言葉を放った後にそれが変に伝わるんじゃないかと気づきごちゃごちゃと言い訳を並べた。
「わかってますよ、僕も気づけて嬉しいです。それより今の時代にお見合いなんて珍しいですね」
彼女はまだ少し照れながらこちらを見ていた。
「今のところうまく断ってはいるんだけど、お母さんも少し不機嫌になってきてるのよね」
「そんなの気にしなくていいですよ。自分の人生なんですから、自分の人生の終わりに向き合えるのは自分だけなんです。みんないつ死んじまうかわからないんですから」
彼女は少し寂しそうな顔をした。
「あなたみたいに自由でいれたらいいんだけど。多分あなたが私ならもっとずっとうまくやってるんだろうなって思うの」
「それは逆も同じですよ。世の中で1番自分を嫌っているのは自分です。だいたいの人はこう思ってます。弱くてずるくてつまらない自分のことが嫌いなんです。僕も時々あいつだったらなって思ったりします。うまく愛するしかないんです。僕の友達が言ってたことなんですが自分って言うのは乗り物に過ぎないんです。どう動かすかってのを考えないといけないものなんですよ」
彼女は僕の言った言葉をメモした。そんなことする人は世の中探しても彼女だけだろうと思った。
「メモなんて取らなくていいですよ。大したことを言ってるわけでもないし、もしも聞きたくなったらいつでもまた話しますから」
彼女はメモを取るのをやめた。それから僕の方を見た。
「あなたと本当はもっと長く話したいんだけど…」
僕は微笑んだ。
「今度お茶でもしましょうよ。僕も話したいですし」
彼女は首を横に振った。
「そんなこと、許されないわ、きっと。だってバイトだってようやく許されたの。それも少しの時間だけ、送り迎え付きが条件で。時々私を見るためだけにここに買い物に来たりするのよ、あの人たち」
僕は改めてひどい環境だなと思った。過保護にも程がある。26歳の発言だとは思えなかった。
「嘘もつけなさそうですね。逆にグレてみればいいんじゃないですか?自分の人生はこうだって主張してみれば…」
僕は茶化すように笑いながら言った。せせらぎはまた首を振った。そしてそっぽを向いて真面目に答えた。
「私がダメなのはその人たちのことを愛していることなんだと思う。傷つけるのがたぶん怖いのね」
僕はやれやれと思った。彼女は少し気まずくなってトイレに行った。僕は考えてみた。多分彼女は今までずっと過保護で育ってきたから一人で生きていけるかが不安なんだと思う。そしてそれを隠すために傷つけるのが怖いと嘘をついたんだ。僕はもう一度やれやれと思った。責任も取れないのに自由に生きろなんていうのは良くないことだ。僕はなんとかして彼女と遊べないかと思い、いくつか脳内でシュミレーションをしてみたが僕の野蛮な脳みそでは彼女の両親が何度も何度も繰り返して死んだためそれ以上考えるのはやめておいた。




