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短編 『 記憶の彼方—生まれ変わりの道程』

作者: 小川敦人


『 記憶の彼方—生まれ変わりの道程』


突然、思い出した。空中から巨大な暗雲のような塊が徐々に大きくなって私を覆いつくし、その圧力で息ができないような押しつぶされるような不安感が襲ってくる感覚。そして、私は言葉もない生まれたての乳幼児だったような気がした。母の膝の上でだただた泣いている。


七十二歳になる今、この記憶の蘇りはもしかしたら今世からの別れ、つまり死期がせまっている兆候なのではないだろうか。そしてあの苦しみは、量子力学でいうところの多世界解釈―無数に存在する平行現実の中で、意識が別の次元へと波動関数の収束を起こし、観測者としての私が異なる時空間の状態へと遷移する瞬間の感覚かもしれないと思った。それともこの圧力は母の子宮体内か産道を通る苦しみの記憶かもしれない。全く突飛な話だが、記憶の感覚は確かにいまでも鮮明に覚えている。


## 一


縁側で朝刊を読んでいたときだった。紙面の活字が急に霞んで見え、代わりにその暗い感覚が蘇ったのは。新聞を膝に落とし、私は無意識に胸を押さえていた。心臓の鼓動が早まっているのがわかった。


妻の洋子は台所で朝食の片付けをしている。いつものように鼻歌を歌いながら。四十五年連れ添った彼女に、こんな奇妙な話をしても理解してもらえるだろうか。


「お父さん、どうしたの?顔が青いわよ」


振り返ると、洋子が心配そうにこちらを見ていた。


「いや、何でもない。ちょっと立ちくらみがしただけだ」


嘘だった。立ちくらみなどではない。あの感覚は、もっと根源的で、もっと深いところから湧き上がってくるものだった。


私は定年まで銀行員として働いた。数字と向き合い、規則正しい生活を送り、現実的な男だと自負していた。超自然的な現象を信じるような人間ではない。だが、この記憶だけは違う。これだけは、どうしても説明がつかない。


午後になって、私は一人で近所の神社を訪れた。特に信心深いわけではないが、なぜか足が向いたのだ。境内の古い銀杏の木の下に腰を下ろし、目を閉じる。


また、あの感覚が戻ってきた。


今度はより鮮明だった。暗雲というより、それは巨大な存在の影のようだった。その影が私を包み込み、圧迫する。息苦しさと同時に、なぜか懐かしさも感じる。まるで、遠い故郷を思い出すような。


そして、私は確かに泣いている。言葉にならない悲しみと、同時に深い安堵感に包まれて。


## 二


その夜、夢を見た。


私は光る通路を歩いている。足音はしない。周囲は白い霧に包まれているが、進むべき道ははっきりと見える。遠くから声が聞こえる。複数の声が重なり合って、まるで合唱のようだ。


「もう一度」


「もう一度」


「時が来た」


声は次第に大きくなり、私を包み込む。恐怖はない。むしろ、長い間待ち続けていた何かがついに始まろうとしている、そんな予感があった。


通路の先に光が見える。眩しいほどの光だ。その光に向かって歩いていくと、突然足元が崩れた。私は落下していく。下には暗い水面が見える。


水に落ちる瞬間、私は目を覚ました。


枕元の時計は午前三時を指していた。隣で洋子が静かに寝息を立てている。私は汗をかいていた。


夢の中の感覚は、昼間蘇った記憶と同じだった。あの圧迫感、あの懐かしさ。そして、何かが始まろうとしている予感。


私は静かにベッドを抜け出し、書斎に向かった。机の上にあった便箋に、今の気持ちを書き留めようと思ったのだ。


だが、ペンを持った手が震えている。書こうとする文字が、まるで別の意志を持っているかのように勝手に動く。気がつくと、私は知らない言葉を書いていた。


「時の扉が開かれる時、魂は新たな器を求める」


何だ、これは。私はこんな言葉を知らない。だが、手は止まらない。


「七十二年の学びを終えし者よ、次なる段階への準備はできたか」


私は慌ててペンを置いた。便箋を見つめていると、文字がゆらゆらと動いているように見える。目を擦って再び見ると、普通の文字に戻っていた。


だが、そこに書かれた内容は確かに残っている。私が書いたのは間違いない。


## 三


翌朝、私は市立図書館に向かった。生まれ変わりについて調べてみようと思ったのだ。


司書の若い女性に案内されて、宗教・哲学の書架に向かう。輪廻転生、前世、魂の不滅。様々なタイトルの本が並んでいる。


一冊手に取ると、パラパラとページをめくった。すると、ある一節が目に留まった。


「魂が次の生への移行を準備する時、しばしば前世の記憶が蘇ることがある。特に、死の瞬間や誕生の瞬間の記憶は、強烈な印象として残存する場合が多い」


私の手が震えた。まさに、私が体験していることではないか。


さらに読み進めると、こんな記述もあった。


「七十二歳という年齢は、東洋思想において一つの完成を表す。六十年の還暦を超え、さらに十二年を重ねた者は、次なる段階への準備が整ったと考えられる」


偶然だろうか。あまりにも符合する内容に、私は背筋が寒くなった。


本を借りて帰宅すると、洋子が心配そうに出迎えた。


「お父さん、最近様子がおかしいわよ。何か悩みでもあるの?」


私は本を見せながら説明した。昨日から続く奇妙な体験を、できるだけ冷静に話した。洋子は最初困惑していたが、やがて真剣に聞いてくれた。


「お父さんがそう感じるなら、きっと何か意味があるのよ。私には分からないことだけど、否定はしない」


洋子のこの言葉に、私は救われた思いがした。


その夜、私は借りてきた本を読みふけった。様々な宗教や哲学が語る生まれ変わりの概念。チベット仏教の中陰説、ヒンドゥー教の輪廻思想、古代ギリシャの魂の不滅論。その中で特に印象深かったのは、生まれ変わる時期はそれぞれの人によって違うという記述だった。ある人は半年で生まれ変わり、ある人は百年間も待ち続ける。その違いは今世への未練の差だという。執着を手放し、この世での学びを完全に受け入れた魂ほど、次の段階への移行が早いのだそうだ。だから精一杯生きることが大切なのだと書かれていた。


どれも興味深かったが、最も印象に残ったのは、ある行者の体験談だった。


「死を迎える直前、私は暗い雲のような存在に包まれた。それは恐怖ではなく、むしろ温かい抱擁のようだった。そして、生まれたての赤子のように泣いた。それは悲しみの涙ではなく、新たな始まりへの涙だった」


## 四


それから数日、私の体験は続いた。


朝、庭の花に水をやっているとき。夕方、散歩から帰ってきたとき。夜、テレビを見ているとき。不意に、あの感覚が蘇る。


だが、恐怖は薄れていた。代わりに、深い納得感のようなものが芽生えてきた。


私は七十二年間、一人の人間として生きてきた。子供時代の無邪気さ、青春時代の情熱、中年期の責任感、そして今の老年期の静寂。全てが意味のある時間だった。


だが同時に、それは準備の時間だったのかもしれない。次なる段階への。


そんなことを考えていたある日の夕方、私は一人の老女と出会った。


散歩の途中、公園のベンチで休んでいると、隣に座った小柄な女性だった。八十歳は超えているだろう。だが、その目は驚くほど澄んでいた。


「あなた、最近不思議な体験をされていませんか?」


突然の言葉に、私は驚いた。


「どうして、そんなことを?」


「顔に書いてありますよ。魂の準備ができた人の顔です」


老女は微笑みながら続けた。


「私も昔、同じような体験をしました。もう三十年も前のことですが」


「三十年前?」


「ええ。でも、私の場合はまだその時ではありませんでした。今思えば、予告のようなものだったのかもしれません」


老女は空を見上げた。夕日が公園の木々を赤く染めている。


「時というものは、私たちが考えているより複雑なものです。過去も未来も、実は同時に存在している。魂はそれを知っているから、時々、境界を越えて記憶を運んでくるのです」


「境界を越えて?」


「生と死の境界、前世と現世の境界、現在と未来の境界。魂にとって、そんな境界は存在しないのかもしれません」


老女は立ち上がった。


「大切なのは、恐れないことです。あなたが体験していることは、とても自然なことなのですから」


そう言って、老女は去っていった。振り返ったときには、もうその姿は見えなかった。


## 五


その夜、私は洋子に全てを話した。図書館で読んだこと、老女との出会い、そして私の中で確信に変わりつつある思い。


「私は、生まれ変わろうとしているのかもしれない」


洋子は黙って聞いていた。涙を流していた。


「もしそうなら、私はどうすればいいの?」


「一緒にいてくれるだけでいい。今まで通りに」


私たちは抱き合った。四十五年間で、これほど深く抱き合ったことはなかったかもしれない。


翌朝、私は目覚めると同時に、全てが明確になった。


あの暗雲のような存在は、新しい生への扉だった。あの圧迫感は、産道を通る苦しみではなく、別の次元から この世界に入ってくる時の感覚だった。そして、あの赤子の泣き声は、新たな生命への歓喜の声だった。


私は七十二年という時間をかけて、一つの学びを完了したのだ。そして今、次の段階への準備が整った。


だが、それは死を意味するのではない。むしろ、より大きな生への移行を意味している。


その日から、私の日常は変わった。全てが新鮮に見えるようになった。朝の光、洋子の笑顔、庭の花々、街角の子供たちの声。まるで、初めて見るもののように美しく感じられた。


そして、あの記憶はもう恐ろしいものではなくなった。それは約束だったのだ。新しい冒険への招待状だったのだ。


## 六


季節は秋に移ろうとしていた。


私は毎日、散歩を続けている。公園で老女に会うことを期待しているのだが、あれ以来姿を見せない。きっと、必要な言葉は既に伝えてくれたのだろう。


ある日、孫の太郎が遊びに来た。小学生の彼は、いつも元気いっぱいだ。


「おじいちゃん、最近なんか違うね」


「違うって、どういうことだ?」


「なんか、キラキラしてる」


子供の純粋な感性は、大人が見落とすものを捉える。太郎の言葉に、私は微笑んだ。


「太郎、おじいちゃんはね、新しいことを始めようと思っているんだ」


「新しいこと?」


「うん。とても大きな冒険だ」


太郎は目を輝かせた。


「僕も一緒に行ける?」


「いつか、太郎も自分の冒険の時が来るよ。でも、今はまだその時じゃない」


太郎は少し残念そうだったが、すぐに別の話題に移った。子供は未来に生きている。私たち大人も、本当は未来に生きているのかもしれない。ただ、それに気づかないだけで。


夕方、太郎を見送ったあと、私は一人で庭に出た。秋の風が頬を撫でていく。空には薄い雲が浮かんでいる。


あの暗雲とは違う、柔らかい雲だ。


私は深呼吸をした。体の中に、新しいエネルギーが満ちているのを感じる。七十二年間蓄積してきた経験や記憶が、新しい形で蘇ろうとしている。


それは消失ではない。変容なのだ。


蝶が蛹から羽化するように、魂もまた新しい形へと変容する。その過程で、一時的に古い形を手放すだけなのだ。


## 七


その夜、私は最後の夢を見た。


今度は、暗い通路ではなく、光に満ちた広い空間にいた。そこには多くの人々がいる。みな、私と同じように次の段階への移行を待っている人たちのようだった。


年齢も性別も様々だが、全員が穏やかな表情をしている。恐れや不安はそこにはない。


私は一人の中年女性と話した。彼女は生前、医師だったという。


「私も最初は怖かった」と彼女は言った。「でも、死は終わりではないことがわかった。むしろ、新しい学びの始まりよ」


また別の老人は、農夫だった。


「畑で作物を育てるのと同じだ。種を蒔いて、育てて、収穫する。そして、また新しい種を蒔く。魂も同じことを繰り返している」


私は彼らとの会話を通して、さらに理解を深めた。生まれ変わりとは、罰でも報酬でもない。魂の自然な成長過程なのだ。


夢の最後、私は美しい女性と出会った。彼女は優しく微笑んでいた。


「あなたの次の人生では、私があなたの母親になります」


その瞬間、私は全てを理解した。あの記憶は、未来の記憶だったのだ。次の生で体験するであろう誕生の瞬間を、現在の私が感じ取っていたのだ。


目が覚めたとき、私の心は完全に平安だった。


## エピローグ


それから三ヶ月が過ぎた。


私は相変わらず元気に過ごしている。あの奇妙な体験も続いているが、今ではそれを楽しんでいる。未来からの便りのようなものだと思えるようになったからだ。


洋子との関係も、以前より深くなった。残された時間を、より大切に過ごすようになった。と言っても、それは悲しい別れを前提としたものではない。新しい出発への準備として、現在を充実させているのだ。


私は日記を書き始めた。この体験を記録しておきたいと思ったからだ。いつか、同じような体験をする人の役に立つかもしれない。


そして、時々図書館に通って、さらに多くのことを学んでいる。魂の旅について、意識の本質について、時間の秘密について。


学ぶほどに、この世界の奥深さに驚かされる。私たちが普段意識している現実は、ほんの一部分に過ぎないのだ。


今朝も、庭で花に水をやっていると、あの感覚が戻ってきた。だが、今度は恐れではなく、期待を感じた。


新しい冒険が、すぐそこまで来ている。


私は七十二歳の老人だが、同時に、もうすぐ生まれてくる新しい命でもある。過去と未来が、現在の私の中で出会っている。


そんなことを考えながら、私は今日という日を大切に生きている。生まれ変わりの準備をしながら、現在の人生を精一杯楽しんでいる。


なぜなら、全ての瞬間は貴重だから。過去の私も、現在の私も、未来の私も、全てが一つの大きな流れの中にあるのだから。


私の物語は終わらない。形を変えて、続いていく。


そして、それは私だけの物語ではない。私たち全ての魂の物語なのだ。

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