桜のバットマン
彼のいる地域にはとある伝説がある。
牛若丸が過酷な剣道の連練習を抜け出し笛を練習したと言われる場所。
当時、誰にも名を名乗らず通りすがりの戦に参戦し59戦無敗。
対人戦においては600戦無敗だったと言われている、謎の剣豪。
その彼が技を極めた場所。
この二つが同じ場所にあるのだという。
その地域では有名な話である。
そしてそこの具体的な伝説は、
そこの場所で物ごとを極めると大成する、と。
人々は自身の私利私欲のためその場所を探し求め、探索を行い続けていたが手がかりがほとんどない。
一つの手がかりしかなく、闇雲に探さざるを得ず行き着くのは困難だった。
ついには、捜索隊が民家など個人の敷地に押し入り騒動となったため捜索は打ち切りに。
1人で探すものはいたが、団体で挑んでも不可能だったものは個人では当然困難であり次第に探索をするものは減り、ついにはただの伝説から…あるかないかわからない都市伝説へと変わり、幼少の頃に親から言い伝えられる御伽話的存在へと格が下がった。
なんでもその場所は。
桜が満開の時、そよ風が常に吹き桜の花が舞っている。
そして、なにか夢をみることがあると。
まるで神聖な場所らしい。
人々はそんなものがあるとは夢にも思わなくなった。
一部の人は、もうその場所は消えてしまったのだろうと言いこの伝説は笑い話と化した。
。。。。。。。。。。。。。。。
とある山の奥地にて。
大きい山の一箇所だけ桜の木が密集しているところがある。
それは全体の面積でいえば、山の100分の1に満たないごく僅かな面積だ。
その桜はまるで何かを囲むように自生している。
まるでそこにあるものを桜が守っているように。
けれどそれは上空からしか観察できず、そもそもその山は全く有名ではなく世間からの関心も低い。故に、人々には知られていなかった。
ただ歩くだけでもたどり着くまでは時間がかかる。
何百年にも渡り、その秘境には誰も訪れることがなかった。
戦争を越えて、大阪万博や東京五輪を越え…
雪が消えて暖かくなったらただただ桜はひとりでに咲き、散る。
ずっとそれが繰り返されてきた。
だが、ある一人の男によってそのサイクルは数百年ぶりに彩りが加わった。
…新田秀人。
彼は偶然その秘境に訪れた。
両親と進路について大喧嘩し、自らと両親の頭を冷やすためどこか落ち着ける場所を探していた時のことだった。
その時期は、まだ桜の咲き始める頃ではなかった。
けれどそこには何故か桜が満開になっていた。
樹木たちの間から入ってくる光と、桜の木が円状に自生し中央に教室と同じぐらいのスペースが広がっており、地面は秋や冬の名残なのか落ち葉が大量に敷き詰められていた。
なぜ桜がこの時期に咲くのか、彼は疑問に思った。
けれどすぐのその疑問は消え去った。
その場所が持つ神秘性や、美しさが彼の思考回路を停止させた。
ただ、なにか清純の雰囲気を持つ場所に魅力を感じた。
それだけだ。
通常ならばシンプルですぐに見飽きてしまうだろう。
だが彼は、しばらくの間そのスペースを眺め続けていた。
半時ほどした後、彼はゆっくりとスペースに向かって歩き出した。
ゆっくりと、確実に。
スペースの真ん中に来て、彼はゆっくりと背中に背負っていたバットケースを肩から下ろす。
そして、シリコンバットを取り出し顔の前にゆっくりと構えた時。
唐突に世界から音が消える。
ゆっくりと、余計な意識を削いでバットだけに集中する。
そして自身のセットポジションに入り、自分を軸としフルスイングする。
振り切った時、視界が一瞬暗転し次の瞬間には。
俺は、大歓声をあげる観客のいる球場の打席に立っていた。
目の前には、現役最強アンダースローのピッチャーがいた。
右を見ると、キャッチャーと審判。
下を見ると、見たことのある赤のユニフォームが。
前を見ると、ユニフォームを着た選手たちが。
後ろを見ると、自分と同じユニフォームを着た選手が。
呆然としながらも、頭に手をやる。
硬いものがすぐに当たり、頭に直接触れることはできなかった。
ヘルメットだ。
さっきまで俺はヘルメットをかぶっていなかった。
まさかと思い、自分のバットを見ると木製バット。
「新田選手、どうしました?」
声のする方をみると、審判が俺を怪訝そうな顔で見ていた。
キャッチャーも同じく。
「…いえ、何もないです…」
二人の方を見ずに消え入りそうな声で言った。
「…?そうですか、何かあったらタイムをとってくださいね」
そう言うと、マスクを被ってピッチャーを見た。
キャッチャーは、ピッチャーにサインを出し始める。
…未だに俺は自分がいるところを理解できない。
とにかく不思議だった。
何故にこんなところにいるのか、何故こんな格好なのか。
左を見るとピッチャーが投げる体勢に入ったのが見えた。
思わず反射的にバットを構える。
彼がセットポジションに入り投げる。
アンダースロー独特の軌道を描きながら俺に向かってくる。
反射でボールにバットが出る。
すると、手に強く軽い感触が伝わる。
そして打った方向を見ると、ボールは右方向に飛んでいき…
スタンドの後方に入りボールがスタンドの床に当たり跳ねる。
…ホームランなのか。
人生において初めて打ったホームランだと分かると、体の奥底から熱く押し上げるような感覚が身体中に駆け巡る。
野球は楽しい。
そう自覚すると、目の前が一瞬暗転しあの秘境に風景が戻った。
彼はバットを杖代わりにし立っていた。
今見たことが分からず呆然とする俺。
それが、彼の人生の路線が変更された瞬間だった。
平凡で終わる人生に少しの彩りがあったものが、とても起伏の激しい人生へと変わった。
彼はハッとして、今の感触を忘れないためにすぐに振り続けた。
両親と喧嘩したことをすっかり忘れて。
まるで、新しいおもちゃをもらった少年のように無邪気に。
シリコンバットを空が群青色と茜色が入り混じるまで、ひたすら丁寧に振り続けた。
彼は秘境から帰ってきた時に、両親に宣言した。
野球を続ける。
両親は当然今朝と同じように反対した。
ハイリスクローリターンであるから。
プロのタイトルを獲れる選手は、ほんのひと握り。
そこに行くまでに沢山の人が挑戦し、沢山が去っている。
故に人生の一部を賭けるのではなく、安泰を取ることが一番であると両親は良心で言っている。
けれども、彼の顔には覚悟と…気迫が。
目には闘志が。
雰囲気は、堂々としており何を言われても覆すつもりがないのが伝わってくる。
それを見た両親は最後まで粘ったが、最終的には折れた。
…好きなように野球をやりなさい。ちゃんと最後まで私たちは付き合おう。
そう言い、無言で父親は徐に席を立ち財布を持って支度をする。
不思議そうに見る母親と彼。
「…一人での練習は難しいだろう、おすすめのキャッチャーかファーストのグローブを教えてくれ」
そう言い、車の鍵を持ち家を出た。
二人は顔を見合わせ、苦笑しながらも母親はゆっくりと立ち上がり可愛い息子の頭撫でて二階に消えた。
その姿に思わず目が熱くなるが、すぐに目からのものを抑えて椅子に掛けてあったジャンパーを羽織り玄関に急いだ。
そこからの彼は学校から帰ってきては、秘境に篭り空が群青色に染まりかけるまでバットを振り続けた。
家の前では、父親とキャッチボールをして夕飯までひたすら鍛える。
週に2日ほど、休養日を設け家の手伝いをし父親と彼で母親に感謝を表す。
こうして家族が団結して彼を鍛えさせた。
やがて彼の努力は次第に目に見える形で報われるようになった。
体格は大きくなり、しっかりと体幹が備わっており人が二人係で突進しても決して揺らがないほどの強靭の肉体。
バットのスイング速度が上がり、バットが通常の人ではもう見えないほどに。
走力は部活内一位で、練習試合でも盗塁をどんどん決めるように。
部活の成績は主に3番打者としてチームをひ引っ張ったが、惜しくも県大会の決勝で敗れてしまう。
が、将来的な有望性と高い打撃能力を買われ、彼は高校3年の紅葉が咲く頃に…
見事、下位ではあるがドラフト指名を受けた。
。。。。。。。。。。。。。。。。
数年後彼の姿は秘境にあった。
桜が咲き誇る時期の時だ。
普段プロ野球はこの時期、ペナントレース中で秘境に行くほどの時間も労力も掛けていられない。
けれど彼にはかなり時間があった。
彼は極度のスランプに陥り、開幕から連続して67打席ほど出塁することができず守備でも失策を犯してしまい2軍へ降格となってしまったのだ。
通常の二軍の試合は出なければならないが、彼は自ら監督に一週間ほどの休養を申し出て了承をもらい秘境に訪れたのだ。
彼は焦っていた。
結果を残さなければ、自分は今年でクビになるかもしれない。
去年は不甲斐ない成績で終わり、一昨年やその前などはまず一軍の試合に出場することができていなかった。
そもそも一軍に出場できていたのは去年からだ。
その焦りを抱えながら、木製バットを取り出しスペースの中央で足元の落ち葉を力強く踏みながら鋭くスイングをした。
バットを振り切った時、見たことのある暗転が起き次の瞬間には時間が昼となっていた。
その景色はとても懐かしく、今まで忘れていたものだった。
手にはシリコンバットとバッティンググローブが。
足はただのスニーカー。
服は、ユニフォームではなくポリエステル製のTシャツにアンダーシャツ。
ズボンも似たような服装。
木の方には学生の頃よく着ていたジャンバーが置かれていた。
一番目についたのが俺が身につけていたバッティンググローブだった。
それは高校時代使っていた自分の小遣いから買った、自分が気に入っていた紺と黒のグラデーション。
所々に、メーカーの金色の刺繍が施されている。
当時、毎日のように使っていたが高校卒業時に部活の後輩に頼まれて譲渡して、もう見ることがなかったものだ。
しばらく俺はバットを地面に立てて、呆けていた。
けれど左手につけた腕時計はゆっくりと進む。
桜の花がゆっくりと落ち、一枚二枚…と舞い始める。
ようやく状況を理解した俺は、思わず笑みが溢れる。
先人が強くなれたのは、このおかげかと。
…初心に戻る。
これは当たり前の話かもしれない。
けれど、成長する過程でどんどん戻ることが難しくなる。
終いには、初心を忘れて自分の道を突き進んでしまう。
その結果、失敗してしまう。
取り返しの失敗であれば、まだいい。
まだまだ挽回できるチャンスが転がっている。
けれど、取り返しのつかない失敗を犯してしまったら。
自分が終わり、他人を悲しませることになる。
もしかしたら誰か他の人生をも奪ってしまいかねない。
危うく自分は後者になるところだった。
…野球を続けるきっかけとはなんだっただろうか。
ゆっくりとバットを顔の前に構える。
バットが重く感じる。
けれども、心地よい重さだ。
…お金のためだっただろうか、いや違う。
足を肩幅に開き、目を瞑り深く深呼吸をする。
鋭く目を開け、左を向く。
…それともただの自己満足やみてくれで今までやっていただろうか…ふっ、違う。
バットを右に構えて、左足を小さくあげる。
そして体重を左足と右足で4:6の比重でかけて、地面に対して力強く踏み込む。
…ようやく思い出した、俺の続けるきっかけ。
バットが速く鋭く俺を軸にして回り始める。
足、腰、胸、腕の順で体が回る。
…ただただ楽しみたかっただけなんだよ、俺。
完璧なスイングの軌道を描いたバットは、右手が離れ左手で振り抜く。
その時体の軸は、右足から頭まで一直線だった。
彼が振り抜いた瞬間、桜が舞い散った。
夜の桜は、月明かりに照らされ彼と共に光り輝く。
昼の桜は、太陽の痛い日差しが桜により緩和され優しい光が桜と彼を包む。
刹那、そこには二人の人物が背を向け合い彼の後ろに立っていた。
一方は、笛を持ち美しく柔らかい音色を奏でる平安貴族の服をした青年。
もう一方は、刀を構え上に振り抜く深緑色の袴姿の左眼に眼帯をつけた若者。
その光景を偶然にみた者は後に手記へこう記した
彼らは下界に降りてきた神のようだった、と。
新田秀人…彼はその後、現役を引退するまで毎年必ず一つのタイトルを獲り続けた。