安倍晋三元首相の国葬に賛成する理由
私は政治にほぼ興味のない人間です。
正直この話題にも飛び込みたくない気持ち全開で書いています。
しかし、国葬には賛成です。
ただ、政治に興味がない、消極的な人間が、なぜこんな渦中に飛び込み、わざわざ火に油を注ぐような、「安倍晋三元首相の国葬」につい語るかというと安易に国葬反対と叫んでいる人達に従って国葬が行われないと色々と問題が大きくなるような気がしてならないからです。
なので、あくまで浅い知識な上に、間違っている点は多々あるかと思いますが、こんなことを考えている人間もいるんだというレベルでご参照ください。
国葬とは以下のように定義されています。
デジタル大辞泉から引用
こく‐そう〔‐サウ〕【国葬】
読み方:こくそう
国家に功労のあった人の死去に際し、国家の儀式として国費で行う葬儀。
正直この定義に私はかなり微妙な感想を持っています。
その理由は後述します。
さて、安倍晋三元首相が「国家に功労のあった人」に該当するかどうかは、人によって判断が分かれるところでしょう。
日本国民の中には恨んでいる人もいるでしょうし、政治家なんて功罪色々背負っている人だろうと思っている、私にとっては正直どちらでも良いと思っています。
ただし元首相と言うからには「功」があるというのは否定する気はありません。
いくら恨んでいる人がいようと、功罪は足し算引き算できるものではないと思います。
そしてマスメディアを始めとして反対意見は大量に上がっています。
ざっと見る限り、国費を利用することへの否定、根拠となる法令がない、人の死を政治利用している等様々です。
逆に賛成意見はと言うと、ざっと功罪の功を称えるためという意見がほとんどだと思います。
私はTwitterをしているのですが、国葬反対等のハッシュタグがそこそこ出回っているのも知っています。
内容は功罪の罪を全面的に押し出して国葬にふさわしくないというわけです。
さて、これまでの意見を正直わたしは踏まえる気さえ起きません。
正直意味のない議論だと思っているからです。
私は冷たい人間なので基本的に死んだあとの人間がどう扱われようが気にしません。
ただし、国葬には賛成派です。
なぜかというとすでに、安倍晋三元首相の死は個人や政治団体などで扱えるものではなくなっているからです。
元首相の死と言うだけでそこそこのインパクトが有りました、そして安倍晋三元首相は外交で活躍していました。
そしてテロリズムによって命を落としています。
この3つが合わさることによって何がおきるかというと、まだ、力を持っている諸外国の有力者が絡んでくるからです。
さて、彼らの弔問をさばききれる団体はあるでしょうか?
現状、国以外に対応できる団体といえば自民党が上がるでしょう。
他の団体が対応するのは無理に等しいです。
しかし、自民党が独自に対応したとして順番は?挨拶はといろいろと問題が出てくるのはわかりきっています。
当然自民党が対応する場合は、自民党と懇意にしている方を優先的にせざるを得ません。
配慮はするでしょうが、一政党が、懇意にしている人を蔑ろにできるはずがありません。
それが一般市民なら大きな問題にはならなかったでしょう。
しかし諸外国の有力者が絡んでくると話は別です。
自民党と懇意にしている人とそれ以外の人の軋轢が生まれかねません。
そんなの自民党の責任だと言って押し付けれると思っている人もいるかも知れませんが、相手は国内の人間ではなく外部の人間だということを忘れてはいけません。
例えばある大規模に展開しているファーストフード店でぞんざいに扱われた人が、その店だけではなくファーストフード店名の付いた店舗全体を嫌うことは往々にしてあります。
それが国単位で行われるのです。
日本に敵対的になる諸外国の有力者が現れると言うだけで嫌気が差します。
そうなると自民党だけに任せるわけには行きません。
安倍晋三元首相に反対していた人達の意見も取り入れて対応しなければもう収集がつかない状況です。
さてそうなってくると、最初に辞書で引用した、「国家に功労のあった人の死去に際し、国家の儀式として国費で行う葬儀」というのとはかなり外れてきます。
何故ならば国葬を外交の一部として行うべきだと私は述べているのですから。
ただ、言葉の意味などは時代とともに移り変わっていくものです。
ニュースやTwitterなどで死者についてあれこれ言い合いしているのは、私には怨念にしか見えません。
(私は怨念は死者のものではなく死者を取り囲む人間から発生すると思っています。)
個人的には亡くなった人にはゆっくり休んでほしいとしか思いませんが、ここまで膨れ上がった死者に対する人々の怨念を鎮めるのは容易いことではありません。
正直このまま放っておけば神にでも祭り上げられそうな勢いです。
どうにか一度一区切り付ける必要がると思っています。
国葬は安倍晋三元首相を取り囲む人々の怨念を鎮める絶好の機会だと思っています。
結婚式ですら、呼ばれた呼ばれてない、席はどこだったなどといろいろな思いが交錯します。
葬儀ともなればなおさらでしょう。
死者を政治利用するのは私にも忌避感があります。
しかし、亡くなった方を、新たな争いの火種にしないためにも国葬を執り行うべきだとわたしは思います。
いつまでも一般市民が、すでにお亡くなりになっている公人としての安倍元総理を過度に攻め立てたり、称賛したりというのは、あまりにも健全ではないのではないかと思います。
そういうのは政治学の専門家に任せるのが筋かと。
7/11に執り行われた葬儀が人としての送別式であったというのであれば、国葬は公人としての送別式になってほしいと思っています。