86話
彼の呼びかけは、他の者にとっては空に向かって独り言を呟いているようにしか見えないであろう。
なぜなら、そこには人間どころか獣すら、潜んではいないのだから。
しかし、何者もいないはずの草むらから確かに、彼に応える声があったのだ。
さながらそれは風のようで、彼以外の耳には届かない声ではあったのだが。
『……あなた、私がみえるの?』
「もちろん。僕の眼はどちらも魔眼だからね」
静かで落ち着きのあるソルトの声音に、草むらの主は興味を引かれたのだろう。
草むらから浮き出るようにして、その姿を彼の前へと現した。
それは、身長にして約十センチばかりにも満たない、小さな生命体である。
半透明の身体を持ち、さながら妖精の如き外見をしている。
無性の裸体、背に鮮やかな色合いをした蝶の羽、身に纏う燐光は魔力の光で、横に伸びる耳は上下に軽く震えている。
若緑に輝く髪は、女性のように腰まで伸ばしており、顔立ちはどこか子どもっぽくありながら、それでいて整った造形による美を有していた。
倫理感が著しく欠如している商人が見れば、如何なる方法をもってしてでもその存在を捕らえて獲得し、高値で売りさばくべく画策したであろう。
それほどに美麗な容姿を有した存在が、ソルトの前に現れたのだ。




