蒼人と澄真
狐丸の手当を終え、澄真はホッと溜め息をついて、道具を置く。
入れ直した手桶の水で、手を洗う。
手に着いていた狐丸の血液が、水に溶けて煙のように消えていく。
「……」
澄真の顔色は悪い。
狐丸の血液に当てられて、軽い貧血を起こしているのかも知れない。
蒼人は、声を掛ける。
「澄真さま。……少し、休まれては……?」
「ん……? あぁ。ありがとう。そうして貰えると助かる……」
言いながら、上げた御簾から見える池を見た。
例の蒼人の曽祖父が、凝りに凝って造り上げた、あの池である。
「……。この池は、いつ見ても素晴らしいな……」
ポツリと言った澄真の言葉に、蒼人はギョッとなる。
「え? えぇ? この池がですか……?」
まさか、褒められるとは思いもしなかった。
澄真の家……本家では、これよりも大きく、美しい池が存在するのだ。
むしろ蒼人は、この池の違いで自信を失くしていた。
しかし逆に澄真の方が、蒼人の言葉に目を丸くする。
「え……? お前、まさか気づいていないのか……?」
唸るように蒼人を見ながら、四つん這いになってジリジリと詰め寄って来る。
「え? き、気づいていないとは……?」
ゴクリと唾を飲む。
詰め寄られて、蒼人の心臓が跳ねた。
(ち……近いぃっ!)
思わず後ずさる。
目の前にいるのは、あの頃の女の子ではない。
いい年をした男……しかも上司だ。
けれどそう簡単に、蒼人はこの想いを覆すことが出来なかった。
長年想い続けた相手なのである。
そう簡単に忘れることなど、出来はしない。
それならばいっそ、黙って見ているだけなら許されるだろうと思い直し、澄真が誰かを娶るまでは、静かに想っていようと心に決めた。
しかし一向に、そのような浮いた話が出てこない。
蒼人は半ば呆れ返っている。
(無理もないか……。ずっと屋敷の奥に隠されていたのだから……)
人との関わりを断たれていた澄真は、知らない人間に対して、ひどく冷たく接する。
おそらくそれで、人を見極めているのだろう。
どこまで自分を許せるのか、受け入れて貰えるのか。
そして受け入れて貰えなくても、それは自分が冷たく接したからだと、自分を慰める。
幼い頃から無防備に近づいて、手酷い仕打ちを受けてきたのだ。
臆病にもなるのも頷ける。
けれど、そこを超えればなんてことはない。
澄真も、どこにでもいるただの人なのである。が、周りはそうは思わない。
まず見た目の異様さ……色素の薄さから、物の怪の類ではないかと疑われ、話せば、やはりその通り……とばかりに離れていくのである。
恋文を贈る間柄になるなど、とんでもない話なのだ。
(女性であれば、すぐに私の傍においたのに……)
蒼人は悔しくてならない。
六歳の蒼人ですら、予測がついたことだ。
物の怪をまとわりつかせる男など、並の女性が近づく訳がない。
その逆も然り。
天地がひっくり返りでもしなければ、澄真が誰かと恋仲になるなど不可能だろう。
それが蒼人にとっては嬉しくもあり、不安になる原因の一つでもあった。
澄真は本家の跡取りである。
浮いた話がなければ、いずれ好きでもない相手と婚姻を結ぶ羽目になる。
それが蒼人には我慢が出来ない。
(こんなにも想っている私を差し置いて、好きでもない人間が割って入るなど……っ)
いっそ関係を持ってしまおうかと、思ったことも何度かある。
さすがに同性で婚姻を結ぶことなどしないが、遊びや出世狙いで、誰もが当たり前にやっていることだ。
相手が子どもであったり、同性であったりすることは、なんの弊害もならない。
(……けれど、嫌われたくない)
蒼人が実行に移さないのには、訳がある。
蒼人は知っている。
表立って言う者などいないが、同意のすれ違いで、ひどい亀裂が入った者たちがいることを。
《嫌だ》と言われ、そんな訳はない、これは《良い》の裏返しだと勝手に思い違いをして、爆走し、挙句の果てに空中分解。
(考えたくないが、よくある話だ……)
同性同士だと、気が楽になる。
異性に対する気遣いよりも、気が少し緩くなるのである。
緩くなった所に、《魔》が潜む。
気を許していた分だけ、相手が許せなくなる。
亀裂が入るのは、自分にとっても、家にとっても、いい事とは思えない。
(相手は、本家。縁を切られては、生きてはいけない……)
蒼人は、そう自分に言い聞かせている。
しかし本当のところは、勇気が出ないだけである。
触れることも叶わない相手に、睦事などとんでもない。
ましてやコトを起こすなど、想像するだけで赤くなる蒼人である。
本家がどうの、亀裂がどうのと、それはただの言い訳であった。
「おい、聞いているのか!」
ガシッと澄真に肩を掴まれ、蒼人は悲鳴をあげそうになる。
ハッとして顔を上げた。
よからぬ事を考えていた矢先のことで、蒼人はひどく動揺する。
澄真の顔が近い。灰青色の髪の束が、はらりと頬に触れ、蒼人は慌てた。
「き、聞いています。聞いています……っ!」
思わず上ずった声を出してしまい、蒼人は赤くなる。
「ん……? お前、顔が赤いぞ? 無茶をして熱でも出したか……?」
言いながら澄真は、蒼人の髪をかきあげ、その額に唇を押し付ける。
(うわぁぁあぁぁ……っ!!)
まさか口づけられるとは思っていなかった蒼人は、一瞬息が止まる。
額に押し付けられた柔らかな感触に、体中が熱い。
(やはり澄真さまを、誰にも渡したくはない……っ!)
想いだけが募っていく。
「んー……熱はないな……」
呟きながら離れていくぬくもりに、蒼人は泣きたくなるくらい、しがみつきたくなり、ぐっとその想いを飲み込む。
「……でも、顔色が悪いぞ?」
今度は頬に、澄真の手のひらが触れる。
(あぁ、もう、このまま死ねたらいいのに……っ!)
蒼人は頬に触れた澄真の手をギュッと握る。
はぁ、と小さく溜め息をついて見せて、ぐっと澄真を睨む。
「……っ」
心配気な灰青の瞳が思っていたよりも近くて、蒼人は一瞬息をのんだが、ぐっと腹に力を入れて言葉を紡いだ。
「澄真さま、おやめ下さい。私は子どもではありませんよ。体調管理くらい、自分でやれます」
自分の手で、澄真の手を押しのける。
……押しのけながら、心で泣く。
(救われない……)
そんな蒼人を見て、澄真は悪戯っぽく笑う。
「ふふ。蒼人らしい。……蒼人は悪態ついていた方が私は安心する……」
言いながらぽんぽんと頭を叩く。
「子ども、……扱いですか……」
不服そうに言うが、触れられてもらえ本当は、目眩がするほど嬉しい。
それを見て、再び澄真はふわりと微笑み掛ける。
「そうだよ。蒼人は、私の大切な弟みたいなものだから」
(……《大切》!)
澄真の言葉を心の中で反芻する。
弟呼ばわりは、やや腑に落ちないが、《大切》だと、言われてまんざらではない。
少し赤くなりながら、顔を伏せた。
──パシャン……!
池の鯉が跳ねた。
陽の光を受けて、水しぶきがキラキラと輝き、とても綺麗だった。