庭の池
その後、小狐は部屋へと戻った。
当然絢子も一緒で、僕はすることが無く、ただただ屋敷の庭を散策した。
「……」
散策しながらも、さきほどの小狐の事で頭はいっぱいだった。
父上は《遊び相手になれ》と言った。
(会いに行ってもいいだろうか?)
そんな思いが頭をよぎり、僕はそれを振り消す。
(ダメだダメだ! いくら何でも相手は女の子だ。四つ上だから、十歳か……)
ぼんやりと思った。
十歳……さすがに部屋へ乗り込むことは、躊躇われた。
「はぁ……。本家かぁ……」
ボソリと呟く。
本家など、特別なことがない限り、足を踏み入れることもない。
けれど僕は、冬に初めて本家に行っていた。
本家では、毎年正月になると一族の子どもを集めて、その成長を祝うのである。
みんなが皆、祝われるのではない。
特定の年齢に達し、その祝いに相応しいと思われる者だけが本家へ呼ばれる。
僕が受けたのは《袴着》と《深曽木》。
袴着は、初めて袴を履き始める祝いで、深曽木は伸ばし始めた髪の毛を、初めて切りそろえる儀式だ。
別々にするところもあるが、本家では同時に行っている。
もともと袴着は、九つになった者が受ける物だが、周りの者より体の大きな僕は、早めに行うよう、本家からお達しがあった。
そこで初めて、僕は本家に足を踏み入れた。
実際はまだ小さい頃にも、色んな祝い事があるので行っているはずなんだけれど、記憶にはない。
今、記憶にあるのだって、小狐の屋敷だと思うからこそ、頑張って思い出しているのに過ぎない。
本家と言えども、自分には手の届かないような、遠くの存在だと認識している。
(……あの大きな屋敷に住んでいるのか)
ぼんやりと思う。
自分の屋敷も、そう狭いわけではないと思う。
けれど本家の……あの屋敷の広さの前には、この屋敷も掘っ建て小屋に見えるに違いない。
「……はぁ」
自分で勝手に思い、落ち込む。
(やっぱり、どう足掻いてもつり合わない……)
溜め息をつきながら、目の前の庭を見た。
庭には池がある。
たいてい、どこの屋敷にも池はあるのだが、うちの池は手が込んでいた。この庭園を創った曽祖父が、たいそう鯉が好きだったそうだ。
魚好きが高じて、池の造りがだんだん凝ったものになったのだと、母が溜め息をついていた。
曽祖父の造った池の近くには岩山がある。
岩山と言っても、自然にできたものではない。当然、曽祖父が池の為に造り上げたものだ。
屋敷の屋根ほどの高さがあるその岩山は、既に苔むしており、まるで自然に出来た岩山のようだった。
そこからこんこんと水が流れており、小さな滝になっている。
湧き水を利用しているため、池の水は驚くほど澄んでいた。
大きさもそれなりの広さがあって、朱塗りの橋が掛けられ趣深い。
群青色の菖蒲が咲きそろい、暖かな春の到来を感じさせた。
もうじき、菖蒲の節句の時期だ。
菖蒲の季節には、体を壊しやすいと言うから、用心しなくてはいけない。
──パシャン……!
「!」
激しい水音が立ち、僕はハッと驚いて顔を上げる。
「緋鯉か……」
ボソリと呟いて、僕は静かにその様子を眺める。
池には目視できるだけでも、五匹程の鯉が悠々と泳いでいた。
「はぁ」
再び溜め息が漏れる。
曾祖父の道楽が高じて出来た池は、他のどの公家たちの屋敷にも、負けず劣らず素晴らしいものだったが、こと本家に対しては別だ。
(本家とは、規模が全然違う……)
僕は軽く頭を抱える。
本家にも当然、池があった。
(……)
池……と言うよりも、湖と言った方が早い。
近くを流れる川を引き入れて、驚くほど大きな池……湖を造っていた。
朱塗りの橋など、いく本も架けられ、まるで物語に聞く天界のようだった。
そもそも敷地が半端なく広い。
屋敷に踏み入れたことすら気づかず、いつの間にか建物が近づいていて、驚いた。
池の中には鯉ではなく、川に住む魚たちが泳いでいた。
聞けば、釣りを楽しむことも出来るらしい。
池と言えどもほどよい流れがあり、青みがかった澄んだ美しい緑色をしていた。
それだけではない。
奥には雑木林が造られ、美しい竹林までも見えた。
狩りは禁じられているが、数頭の鹿を飼っているのだと、本家の侍従が自慢げに話していたのを、ぼんやり思い出す。
暗に敷地が広いことを、言っているのだろう。
確かに、ひどく広かった。
武を主とする家であるので、奥に道場があるのだと、一緒に出掛けた父がこっそり教えてくれたっけ。
(あの子も、何か武道を嗜むのだろうか……)
ふとそんな事を思う。
武道は、僕も得意だ。
体が大きいせいもあるけれど、子ども相手に負けた記憶などない。
「……」
小狐と手合わせしようものなら、すぐに投げ飛ばしてしまいそうだ。
「……ぷっ。ふふふ……」
思わず笑みが零れる。
手合わせするようなことは、きっと有り得ないだろう。
出来ることなら、僕が守りたい。
ずっと傍にいられたらいいのに……。
そんな想いばかりが駆け巡る。
「本家の姫……」
いずれ然るべき所から、婿を取るのかもしれない。
「……っ」
考えて、ゾッとする。
思わずその場に座り込んだ。
(嫌、だ……)
他の奴と一緒にいるところなんて、見たくもない。
ましてや祝うなど、絶対に出来るはずがない。
けれど相手は、本家の人間だ。
分家の跡取りとなる自分は、絶対にその場に呼ばれるはずだ。
「……っ」
胸が苦しくなって、僕は着物を掴んだ。
(嫌、だ……。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ……)
まだ言葉すら交わしていないのに、想いだけが募る。
うちに娶ることは叶わない。
ならば、自分が婿として行けないだろうか……?
そうなれば、家を継ぐことなど出来なくなる。
父は怒るだろうか?
「いいや……。それも、無理だ……!」
僕は唸る。
本家の方が、嫌がるだろう。
「……」
僕は目をつぶる。
たかが分家。
そこから婿を取って、本家になんの利になるというのだろう。
そんなことは、天地がひっくり返っても、ありはしない。
(いっそ、消えたい……)
思わずその場に、うずくまる。
(胸が……苦し……っ)
胸の衣を握りしめた。
「どうしたのだ……? 加減でもわるいのか?」
不意に声がかかった。
「!」
驚いて振り返ると、そこに小狐がいた。
ひゅっと喉が鳴る。
(息が……)
息が、止まるかと思った……。
僕は目を見張って、心配気に覗く小狐を眺める。
あれほど触れたかった、小狐がこんなにも近くにいて、気にかけてくれている。
(う、わ……。灰青の、瞳……っ)
夢の中にいるような、不思議な色合いに、僕は言葉を失う。
触れる絶好の機会だと言うのに、僕は緊張で耳まで真っ赤になってしまって、顔を伏せてしまった。
「だ、……大丈夫、です」
それだけ小さく言って、小狐から逃げてしまった。
「あ……っ! 待って……っ」
後ろで声がしたけれど、僕は振り返らず、走り去る。
せっかくの機会を、自分で逃してしまった。
「……」
自分の不甲斐なさに、もう、何も言えない。
結局のところ、いつも毎回こんな感じで、小狐が滞在していた三年間……ついぞ一度も、触れることは叶わなかった。