千鬼
「父上。おはようございます」
呼ばれて、僕は頭を下げる。
うむ。と、父上は軽く頷く。
父上は上座に座って……いなかった。
「!」
僕は頭を下げたまま正直少し驚いて、目を見張った。
目通りして、父上が上座にいなかったことなど一度もない。
どうやら客人を伴っている。
父上が上座にいないとなると、その客人はおそらく高位の人物なのだろう。
背格好からして、僕とあまり変わらないように見えた。
「……」
ように見えたと言うのには訳がある。
実際しっかり見ることが、かなわなかったからだ。
父上の許しが出るまでは、顔を上げることが出来ない。
目を伏せ、父上に目通り、すぐに頭を下げたのだから、見えたのは目の端でしかない。
けれど、それでも分かったことが一つだけある。
(絢子が傍に、控えている……?)
どんなに探しても、見つからなかったはずだ。
こんな所にいたとは……。
「千鬼。表をあげよ」
「はい」
言われて頭を上げた。
(……初めに見るのは父上)
僕は客人を見たいのをグッと堪え、父上を見る。
機嫌が良いようだ。
珍しく笑っている。
(笑って、いる……?)
父上が笑っているところなど、ほとんど見たことがない。
もっと僕が小さかった頃には、良く遊んでくれ、その時の父上はとても嬉しそうで、たくさん笑いもしてくれたし、抱っこもしてくれた。
けれど最近は、そんな事はほとんどない。
成長したからもあるだろうが、それだけではないように思う。
実際父上は最近いつも、酷く疲れた顔をしていて、頭を抱えて考え込む姿がよく見られるようになった。
(仕事が大変なのだろう……)
悪霊や妖怪の類が頻繁に現れるようになったと、絢子も言っていた。
そのせいで、父上も疲れているのだと、勝手に解釈していたのだが、今日はやけに顔色がいい。
久しぶりに、父上の笑顔を見れ、僕は嬉しくなる。
(この、客人のお陰だろうか……?)
僕は誘惑に負けて、目の端で例の客人の姿を、そっととらえる。
(女の子……?)
思わず目を向けそうになり、グッと堪える。
女の子の客人など、未だかつてない。
淡い暗紅色の、落ち着いた着物を着ているようだ。
着物の具合からして、女の子でまず間違いない。
(……)
父上が上座に座らず、絢子が傍に控えているとなると、うちよりも高位の家の娘である事は確かだ。
高位であるならば、婚約者……という話でもないだろう。
何故、僕が呼ばれたのか……。
僕は父上に気づかれないように少し眉をしかめ、父上の目を見る。
ここは、率直に訊ねた方が早い。
「父上。私をお呼びでありましたが、何用でございましょう?」
床についていた手を膝にうつしかえ、父上に訊ねる。
父上は僕のその問いに、さも嬉しそうに目を細めると、口を開いた。
「あぁ、その前に紹介をしなければならないな……」
言いながら、父上は例の客人の方へ向き直る。
「小狐さま。……こちらは我が嫡男、千鬼でございまする」
紹介されて、僕は《小狐》……と言われた客人に体を向け、頭を下げる。
(やはり、うちより高位の人)
僕は思う。
高位でなければ、真っ先に僕へ紹介したはずだ。
「千鬼。こちらは本家の跡取りとなられる、小狐さまであられる」
言われ、頭を上げる。
(!)
一目見て、ドクンと心臓がはねた。
僕は目を見張る。
目の前の少女は、怯えて隣にいる絢子の袖を軽く掴んでいた。
今の状況が怖いのだろう。微かに震えている。
「……」
離れていても分かるほどに、睫毛が長い。
しかも色素が薄い。
見鬼の才を持つと、髪や目の色が薄くなるが、小狐は様子が違う。
普通、その色は栗色になることの方が多いが、彼女のそれは灰青と言った方が近い。
光の加減で銀色に輝く、その灰青色の長い睫毛を震わせ、今にも泣き出しそうな顔だ。
その表情に、僕の胸がズキリと傷んだ。
「……っ」
僕はゴクリと唾を飲み込む。
場面が場面でなければ、抱きしめていたかもしれない。
その姿があまりに可憐で、僕の血液が一気に逆流するのが分かった。
どうしたら、その不安気な顔を微笑ませる事が、出来るだろうか?
(心配などないと言って、抱きしめたら、僕に笑いかけてくれるだろうか……?)
そんな事を思いながら、出来るだけ優しく微笑みながら小狐を見る。
「……」
僕に見られて、どうすればいいか分からなくなったのか、小狐は僕から顔を背けた。
「あ……、」
思わず溜め息が、口から漏れる。
顔を背けられ、僕の視線が泳いだ。
(な、なんで……)
まるで自分を否定されたような気持ちになり、ひどく動揺する。
あの滑らかな頬をこの手におさめて、こちらを向かせたら、目を合わせる事が出来るだろうか……?
(けれど、触れられない……っ)
離れているのが、口惜しかった……!
目をそらされたのが悔しくて、僕はぐっと唇を噛み締める。
彼女はさきほど目の端でとらえたように、暗紅色の衵(女の子が袿の代わりに着る着物)の上から、薄桃色の汗衫(薄手の上着)を羽織っている。
汗衫の左腕には、弓裁ち(肩の部分が縫っていない袖)がほどこされ、紅色の組紐でとめられていた。
ただでさえ線が細く儚げな小狐の姿が、その着物のお陰で更に、繊細さを醸し出していた。
(間違いない。これが一目惚れと言うものだ……)
僕は、呆然としながら小狐を見た。
(触りたい。……今すぐ、傍に行きたい)
けれど、それは許されない。
さきほど父上は《本家》と言った。《跡取り》とも言った。
僕は唇を噛み締める。
(僕も、この家の跡取りだ……)
だから《千鬼》の名をもらっているのだ。
「……っ」
ギュッと拳を握った。
どう考えてもつり合わない。
そんな想いをたたえ、自分の袴を握りしめる。
(けれど、どうしても小狐が欲しい……っ)
生まれて初めての恋心に、僕は目が眩んだ。
だから、大切な一言を聴き逃した。
僕が小狐に見とれている時に、絢子と父上が話していたのだ。
「まあ、《小狐》ではありません。《小狐丸》さまでございます!」
絢子が非難がましく呟く。
「おお。そうであったな。千鬼、こちらは小狐丸さまである。本家の嫡男であられるのだが、お体がたいそう弱くあられる。女児の姿をしておるのは、その為だ……と、千鬼? 千鬼? 聞いておるのか?」
名を呼ばれ、肩が跳ねる。
ハッとして、父上を見た。
「え? ……えぇ。申し訳ありません。……少し、驚いておりました」
軽く頭を下げる。
叱られると思い、咄嗟に聞いていたふりをする。
バレたか……とも思ったが、父上も絢子も微笑んでいる。バレなかったようだ。
(叱られなくて、よかった……)
この時、はっきり聞いてなかった。と言うべきだった。
けれどこの時、どうしても僕は小狐から目が離せなかった。
どうにかして、目線を合わせたい……!
その一心だった。
けれど父上は、僕が驚いていたのは、小狐丸が女児の格好をしているからだと勝手に勘違いし、話を続ける。
「そうか。それならば良い。……しばらく小狐さまをうちで預かることになっている。本家の御生母さまより、指導をしてくれないかと絢子に打診があってな。急だがしばしの間、我が家で預かることとなった。……お前は歳が近い。遊び相手となれ」
「え……? ここに?」
父上の言葉に、僕の胸は高鳴る。
しばらく傍にいれる……!?
「そうだ。だから、粗相のないようにお仕えするのだぞ」
「……はい!」
あまりの嬉しさに、顔が自然とほころぶ。
微笑む顔を、止めることが出来ない。
(変な顔をしていないだろうか……?)
僕は少し心配になって、自分の頬に触れる。
──粗相のないように……。
父上の言葉を思いかえす。
粗相のないようにとは、いったいどうすれば良いのだろう?
よく分からないが、好意を寄せている相手に粗相などする訳がない。
どうにかして、この想いが遂げられるように、大切に仕えよう。
きっと僕は、今まで他の誰かにしたことがないほど、優しく接する自信がある。
(きっときっと、振り向いてもらう……!)
振り向いて貰いさえすれば、手に入れることも叶うかも知れない。
僕はそう決心して、出来るだけ優しい眼差しを小狐に向けた。