幼い頃の思い出
あれは、いつの頃だったろう。
あの日も藤の花が綺麗に咲き誇っていたから、今ぐらいの時だろうか。
雪のような桜がハラハラと散り終え、淡い紫の小さな花が、沢山たれさがる春の終わり。
その子は、うちに来た。
その頃私……蒼人はまだ六つで、けれど一生懸命、大人になろうと努力していた頃で、忙しい父に変わり、剣や武道、それから乗馬に手習いを教えてくれる父の妹の絢子に四六時中くっついて回っていた。
正直、絢子は変わり者だ。
見た目は……悪くないと思う。
真っ直ぐに伸びたたおやかなその髪は、驚くほど真っ黒で、日にかざせば青く見える。
見鬼の才を持っていると、どちらかというと体の色素は薄くなるのだが、絢子の髪は、そんな家に生まれながら尚も青黒く輝くその髪に、誰もが羨望の眼差しを向けた。
ただの女なら、結婚相手など、引く手あまただったように思う。
(けれど……)
いかんせん、絢子はじゃじゃ馬である。
鬼の視えるこの家でならいざ知らず、絢子はところ構わず山野を駆け回り、妖怪や悪鬼の類を見つけると、直ぐに式鬼にしてしまうクセがあった。
本家ではないにしても、絢子はれっきとした貴族の娘なのである。
武を嗜む家であれば、娘に武芸を教える家もあるが、それも敷地内に限った場所での話だ。
表立って女性が山野を駆け回る事など、あるわけがない。
はしたない、と言われるのがオチであったし、娘をそんな奇行に走らせる家など、品格がないに等しかった。
そもそも身内が、許すわけがないのである。
けれど、絢子は違う。
もともと見鬼の才に恵まれた家系ではあったが、絢子ほど、その力に恵まれた者も珍しい。
どんなに絢子を家に閉じ込めようとも、その類まれな力を駆使して、すり抜けてしまうのだ。
そんな絢子だから、行く末を案じた今は亡きお爺さまは、早々に婚約者を作っていた。
鬼を視る家では、珍しくない。
顔かたちが秀でていても、髪や目の色が他と違っていたり、視えるものが違うので変な行動をとったり、そんな普通では有り得ない生活を送る女性は、嫁の貰い手がなくなると言うのである。
現に、鬼を視る一族の女は、ほとんど独り身である。
大抵は絢子のように、幼い頃から婚約者が定められていて、裳着を済ませると共に嫁いでしまう。
けれど、やはり上手くはいかないようで、そのほとんどが一度は離縁して実家に戻って来るのだ。
当然、絢子も例外ではない。
本性は隠せない……といったところなのだろう。
けれど幼い私にとって、それは有難いことで、二十歳になったばかりの出戻り妹に、父は私の教育係を押し付けた。
始め私は、絢子の姿に驚いた。
ぐしゃぐしゃの髪の毛に、顔の所々に薄い痣のような痕があった。
「……」
何を掴んだらそうなるのか予測もつかないが、その両手には、けして消えることのない酷い火傷の痕まである。
(……嫁いだ先で、酷い折檻でも受けたのだろうか)
始めは同情の目で見ていた絢子だったが、話を聞くうちに、そうではないことを知り、頭を抱えた。
(まさか、火鼠を素手で触るとか……)
けれど絢子は、素晴らしく有能だった。
陰陽師としてだけでなく、剣、体術、馬術、水泳、手習い……料理や家事においても完璧で、ただ、その気性の荒い性格の為だけに絢子は離縁された事を知った。
(どこのバカ男だ……)
私は唸ったが、そのバカ男のお陰で、今こうして大人になる為の知識を教えてもらえるのである。感謝してもしきれない。
そんなある日のこと、私はその日も、稽古をつけてもらおうと、朝から絢子を探していた。
◆◇
「絢子……? 絢子はどこ? おかしいな。厨にも馬場にもいないとなると、山野にでも駆けて行ったのだろうか……?」
私は屋敷から見える山々を見る。
屋敷の周りにはほとんど民家がない。
多くの陰陽師を排出している一族どということを、他の人間は熟知していて、近くに居を構える奇特なものがいないせいだ。
お陰で、多少暴れても、他に害をなす事はほとんどない。
例え、普通の女性らしからぬ絢子が、着物の裾を絡げて山へと駆けていても、咎める者は誰もいない。
「……いや、とめろよ」
六歳になったばかりの私は呟く。
このままの調子だと、絢子はその生涯をたった一人で過ごすことになる。
それは、幼い心にも、寂しいのではないかと心配した。
あんなにも才に恵まれた絢子である。
一人でいるなど、もったいない。
何としてでも、幸せな家庭を持って欲しかった。
けれど、絢子の傍を離れるのは、嫌だ。
(……ま、結婚しても僕の師でいてもらおう……!)
幼い私は、思う。
あの頃は身勝手にも、そんな事を思っていた。
結婚した女性と、簡単に会えるわけがない。
無知もいいところだ。
けれど、あの日。
絢子は山を駆けずり回っていた訳ではなかった。
絢子を探して、屋敷中を駆けずり回っていた私の耳に、遠くで声が聞こえた。
「……千鬼。千鬼はおらぬか……?」
「! ……父上!?」
当時、私は幼名である《千鬼》を名乗っていた。
鬼を視る家系であったがため、代々幼名には《鬼》の一字が使われることになっていた。
悪鬼を牽制する意味合いが含まれているそうだ。
実際、名ごときで、悪鬼が怯むとは思えない。
けれど鬼に捕まることがないように、健やかに育つように……大人たちは、そんな願いをその名に託し、愛しい我が子へ贈った。
その中でも《千鬼》とは、跡を継ぐ嫡男のみに許された名前でもあり、それが私には誇らしかった。
「はい! 千鬼は、ここにおりまする……!」
私はすぐに返事をして、父の元に向かった。
父はほとんど屋敷に戻らない。
陰陽寮に籠り、忙しく駆けずり回っていた。
たまに戻ったとしても、私に会うことなど皆無に等しかったから、その日私は名を呼ばれ、嬉しくなって、駆けて行った。
「……」
そこで私は、澄真さまに出会う。
忘れもしない。あの運命の時。
「はぁ……」
私は小さく、溜め息をつく。
未だに思う。
未だにどうにか出来ないものかと、抗う自分がいる。
心の奥底で、まだ諦めきれない自分が囁く。
どうにか……。
どうにかして、……この力全てを使ったら……。
もしかしたら、出来るのではないだろうか……?
(……澄真さま一人くらい)
──女性に出来はしまいかと……。