蒼人の回想
「大学院の方は、よかったのか……?」
狐丸に付いている血糊を丁寧に拭き取りながら、澄真が訊ねる。
その問いに、蒼人は頭を抱えて、言葉を返す。
「えぇ……。全然、良くないです」
唸る。
「……っ、ぶっ……!」
膨れっ面の蒼人が可笑しくて、澄真は思わず吹き出した。
「良くないのなら、行けば良かったのに……っ」
笑いを堪えながら、狐丸の血液で真っ赤になった手拭いを盥で洗った。
「……」
汲んで来た水が、一瞬にして真っ赤に染まる。
その様子に顔をしかめながら、澄真は溜め息をつく。
何故ここまで、我を張ったのか……そう、言いたそうな顔だった。
「……あなたを置いて、行けるわけがない……」
そんな澄真を横目で見ながら、蒼人は小さく呟いた。
「ん?」
蒼人の呟きが聞こえなかったようだ。目は狐丸を見つつ、小首を傾げる。
けれど、蒼人はそれには答えず、先を続ける。
「……いえ。私は一刻も早く、澄真さまを追い抜くつもりですから、大学院を休むと、その分遅れを取ってしまいます……」
蒼人のその言葉に、澄真は一瞬、目を丸くしたが、すぐに愉しげな表情になる。
「あれは、本気だったのか……。っ、ふ……」
ふふふと、必死に笑いをこらえようとする澄真に、蒼人はムッとする。
(まったく……失礼にも程がある……)
呆れたように蒼人は唸った。
蒼人は澄真の事を、幼い頃から知っている。
けれど澄真の方は、自分の事を知らない。
悔しいが、それが事実だ。
それは何故か。何もかも、妖怪のせいだ。
(あの妖怪のせいで、目を合わせることも叶わなかった……っ)
蒼人は振り返り、唇を噛む。
蒼人は、出会った頃のことを思い出す。
幼い澄真は、その見鬼の才があるお陰で、ほとんど表に出される事がなかった。
だから、遠い親戚にあたる蒼人も、あまり会ったことがない。
鬼ならば、蒼人にだって、昔から視ることが出来た。
父も母もそうだった。
陰陽師を多く出している、蒼人の家では普通の事だったが、澄真の家では違う。
武寄りの澄真の家で、鬼が視えるなど、ただ事ではない。当然、大騒ぎになった。
しかしそれでも、ただ鬼が視えるだけならいい。
それならば、多少視えないふりでもしながら、本来の武家の家系らしく、都を守れば良かった。
けれど、澄真の視え方は、半端なかった。
現実の人と怨霊の区別が、つかなかったのである。
蒼人は、丁寧に血糊を拭き取る澄真を眺めた。
「……」
──区別がつかないなら、訓練して区別が付くようになればよい。
澄真の母は、そう考えた。
けれど父親は既に、諦めていた。
家は養子を貰って継がせる。澄真は、好きに生きよ……と、澄真の父親は、早いうちからそう言っていた。
だから屋敷に閉じ込めて、誰も見えない奥深くに隠した。
けれどそれでは、出世の道が絶たれる。
焦ったのは母親の方だった。
運の悪いことに澄真は、一人っ子である。
一夫多妻が当たり前の時代ではあるが、澄真の家では不思議と子宝に恵まれなかった。
澄真が十になるまではと、母親も粘っていたが、遂に今に至るまで、代わりになるような子どもは生まれなかったのである。
そうなると、家を継がなければならない。
何とかして、世間でも通じる所作だけでも身につけてくれれば……。
そう思い、連れて来たのが、陰陽師の家系である蒼人の家であった。
(思い出しただけで、嫌になる……)
再び、狐丸の血糊を拭き取りにかかった澄真を見ながら、蒼人は思い出す。
蒼人と澄真は、そんなに歳は離れていない。
たった四つ違いである。
出会ったのは、蒼人が六つの時。
当時蒼人は、同年代の子どもより、体がずいぶん大きかった。
六つになった時に、蒼人は澄真に初めて出会ったのだが、澄真は、そんな蒼人よりも少し背が高いくらいだった。
人見知りするその姿が可愛らしく儚げで、蒼人は最初、澄真のことを女の子だと思っていた。
四つ年上と聞いていたけれど、人に慣れず、伏せ目がちに目を潤ませる澄真は、小さく弱々しく、蒼人は幼いながらも抱きしめたい衝動にかられた。
必ず澄真を守ってやろうと、蒼人は決心したものだ。
「……っ」
ギリッと蒼人は、唇を噛み締める。
──そう。
何を隠そう……蒼人の初恋の相手は、目の前の澄真だった。
蒼人の視線を感じて、澄真がニヤリと笑う。
「……」
おそらく澄真は、実力が自分に追いつけず、焦れて睨んでいる……とでも思っているのに違いない。
そう思いながら、蒼人はムッとする。
(そもそも名が、紛らわしいのだ……!)
蒼人は唸る。
澄真の幼名は『小狐丸』だが、言いづらかったのか、大人たちは澄真のことを『小狐』……と呼んでいた。
色素の薄い、灰色の毛色をした儚げな澄真と、野山を駆ける小さな可愛い子ギツネが混ざり合い、蒼人は澄真が愛しくて仕方がなかった。
絶対自分の妻にするのだと、張り切っていた。
人外のような灰色の髪と目を持ち、鬼を視るなど普通の男の手に余る。
けれど、自分は違う。
全てを受け入れて、大切にすると約束する事が出来る。
──《小狐が僕のところに来てくれるなら、他の妻はいらない》
蒼人はそこまで、思っていたのだ。
(あぁ、……不毛過ぎる)
蒼人は頭を抱えて、うずくまる。
自分の不甲斐なさに、嫌気が差した。
「蒼人?」
うずくまった蒼人を心配して、気遣わしげな澄真の声が聞こえた。
「……」
しかし答える事が出来ない。
溜め息ばかりが漏れる。
本来なら、陰陽師としての立場が確立したら、迎えに行くつもりだった。
相手は本家の一人っ子だ。
許して貰えるかは分からなかったが、通い婚を申し込むつもりだった。
いわく付きではあるが、四つ年上だからと、本家の動向をそれとなく探らせもした。
自分以外の男に取られないように、必死だった。
(それが……なんで、男なんだ)
未だに受け入れることが出来ない。
そもそも、元服するからと言って、蒼人の家に来なくなった時に気づくべきだった。
女性は元服とは言わない。
《裳着》と言う。
しかも、澄真が男だと知ったのは、ついこの前。
蒼人が陰陽寮に入ってからだ。
息が止まるかと思った。
(いや、いっそ止まれば良かったのに……。)
長年想い続けたその人は、男だっただけではない。
蒼人の事を、すっかり忘れていたのである。
……いや、忘れられていたわけではない。
正確に言うと、あの時澄真は蒼人に《出会ってなかった》のである。
「……」
どういう事か……。
確かに二人は出会っている。
蒼人はしっかり覚えているし、淡い恋心も抱いた。
けれど、澄真は違う。
当時、澄真と仲良くしていた妖怪の中に、大禿と言う妖怪がいた。
何のことはない。
実際はタヌキが化けたものであったが、そのタヌキが曲者だった。
大禿は、時に大きなハゲ頭の妖怪になったかと思えば、時に妖艶な遊女に化ける。
それだけではない。
見鬼の力の強い澄真には視えるが、まだ未熟な蒼人には視えない……そんなギリギリの線を見極め、おちょくっていたのだ。
要は、《被っていた》のである。
(くそ妖怪が……)
その事実を知った時、フルフルと震えながら蒼人は怒った。
蒼人が澄真と仲良く話していた会話も、その前にいた大禿との会話に、なってしまっていたのだ。
(どうりで、目線が合わないはずだ……っ)
明らかにその妖怪は、蒼人と澄真が仲良くするのを阻止したかったのだろう。
あの時の大禿はどこに行ったのか……。
澄真の話を聞いて、必死に探したが、見つからなかった。
思えば、姿を見なくなったのも、澄真が蒼人の家に来なくなったのと同時期だった。
今頃、どうしているのか……。
「……」
そんな訳で、蒼人は妖怪を憎んでいる。
(世の中の妖怪、全て祓えるだけの、力を身につけてやる……っ)
そう思っている蒼人にとって、妖怪は全て憎い恋敵でもある。
それは白狐である狐丸もまた、例外ではなかった。
別に、その大禿がその場にいなかったとしても、澄真が女になる訳ではない。
けれど、女性だと思って、淡い恋心を抱いて話し掛けたあの事実が、なかった事にされたのだ。
「……っ」
蒼人はふるふると、拳を握る。
せめてもの慰めに、思い出くらいあっても許されるはずだ。
しかし、それすら許されないとは……!
普段蒼人は、静かに佇んでいるが、内心は煮えくり返るような想いを内に秘めている。
実のところ、怪我の手当をされている狐丸の存在も、目に余まるものがある。出来ることなら、澄真に近づいて欲しくない。
(いっそ、自分が手当てすると言ってみようか……)
しかしすぐに、首を振る。
(いや、無理だ)
自分ならすぐに祓ってしまうだろう……。
そんな事になれば、澄真は一生蒼人を憎むかも知れない。
「……」
それだけは避けたかった。
そんな訳で、蒼人は二人のそばに居るのだが、何も出来ずにただ見守ることしか出来ないのであった。