天女
──いや。
よく見れば、天女ではない。
その額には二本の小さな角を生やし、口には牙が生えている。
艶やかなその唇は、血を掃いたように赤く、禍々しい。
鬼神は口角を、キュッと吊り上げ笑った。
──妾は、希風と言う。
ニッコリと笑い、希風は言った。
話しかけられて、澄真は怯む。
護符で召喚される鬼神は、式鬼ではない。
地上にある精霊の力を集め、具現化しただけのものだ。
《応》の言葉や、唸り声を上げたとしても、話す事は出来ない。
けれど目の前の鬼神は、澄真に話しかけているのである。
「……」
──そこにおられるのは、シラフサさま、かえ?
「……?」
訊ねられた言葉の意味が、澄真にはよく分からない。
(シラフサさま……?)
訝しみながら、眉を寄せる。
質問に答えない澄真に焦れて、希風は澄真の袖の中を覗いた。
──……っ!?
途端、軽い悲鳴を上げ、その美しい顔を歪めた。
──何故、怪我をされている? お前がしたのか!? ……いいや、違うな……。
鼻に皺を寄せながら、希風は言い、辺りを見回す。
──あぁ。あの、臭い餓鬼か……?
雷神を餓鬼と言って一笑に伏し、希風は持っていた丸団扇をクルクルと回しだす。
正確に言えば、狐丸の傷の原因は澄真の結界なのだが、澄真に、答える余裕はない。
「……」
今の状況が上手く飲み込めず、声すら出せないでいた。
希風は横目で、そんな澄真を一瞥すると口を開いた。
──お前は、妾に《守れ》と命じたな……?
ゆっくりと澄真を見下ろした。
「あ、あぁ。そうだ」
ごくりと唾を飲み込みながら、澄真は答えた。
──ならばその願い、聞き届けようぞ……!
言うが早いか、手の丸団扇を一振あおいだ。
──ゴオォォオォォ……!!
「……っ!」
物凄い風が吹き荒れ、雷神は、あっという間に空の彼方へ消えていった。
──これで、良いかの?
希風は艷やかに笑う。
澄真は目を丸くし、言葉もない。
(鬼神……鬼神が、団扇の一振で……)
──さぁ、さぁ。妾に、シラフサさまのお顔をもっとよく見せておくれ……。
そう言いながら、希風は狐丸を覗き込む。
ふわりと優しい風が吹いた。
「っ!」
けれど、澄真は希風を信用してはいない。
慌てて狐丸を袖の内に隠す。
規格外の召喚に、不審感を顕にした。
──……。
隠されて希風は、困った顔をする。
──妾を呼んだのは、そなたであろうに……。
けれど希風は、面白そうに笑うと、澄真に言う。
──まあ、よい。これからは《希風》とさえ呼べば、妾は御前に上がろうぞ。
「!」
思わぬ提案に、澄真は動揺する。
(……何を言って……)
──護符は不要……と、言っておる。妾は、妖怪ではないからな。名を呼べば飛んで来よう。
(妖怪では……ない……?)
一瞬澄真が呆けた隙に、希風が狐丸の傍へ寄る。
「!?」
慌てて隠そうとするが、間に合わない。
希風は澄真の袖を少し捲り、狐丸を覗き込んだ。
覗き込み、満足気な声を出す。
──怪我は、大した事なさそうだ。
ホッとしたのか、希風は艶やかに微笑んだ。
──シラフサさま……。
優しく呼びかけ、その細い指先で狐丸の頬を撫でる。
狐丸の耳がぴくりと動く。
微かに唸り、返事をした。
「う……ん。……キ、フ……?」
「!」
狐丸の受け答えに、澄真が動揺する。
(この鬼神を、知っているのか……!?)
──妾を、覚えておいででしたか……シラフサさま。
「……」
狐丸は、目を瞑ったまま唸る。
「違う。……僕は《狐丸》……」
言って、再び眠りにつく。
希風はそんな狐丸に優しく微笑みながら、ふわりと飛び、距離を置いた。
膝を折り、頭を垂れる。
──承知致しました。狐丸さま。
言って、澄真に向き直る。
──それでは妾は行くからの。狐丸さまを頼むぞ。
それだけ言うと、希風は掻き消えるように、姿を消した。
「……」
風が吹き焦げた木の枝が、パラパラと散った。
「う……ん……」
蒼人が唸る。
ハッとして澄真は、狐丸を抱え、蒼人の傍へ駆け寄った。
「蒼人……!」
「澄真、さま……。それが、例の白狐、……ですか……?」
疲れきった様子で、蒼人が、澄真の腕に抱かれている狐丸を見る。
「あぁ、そうだ。まだ幼いだろう……?」
言いながら澄真は、小さく笑って、腕の中の狐丸を見下ろす。
「……っ」
長年の付き合いではあるが、澄真のそんな優しい眼差しを蒼人は見たことがなかった。
軽い驚きが、蒼人を包む。
蒼人は、そんな澄真の様子に疑問を抱きながら、狐丸をもう一度よく見る。
さきほど対峙した白狐とは思えないほど、穏やかな顔をした少年の姿に、蒼人は少し戸惑う。
(この少年を、仕留めようとしたのか……?)
痛々しくも、無数の傷を負った狐丸は、可愛らしい白色の耳を伏せ、目を瞑っている。
微かにその睫毛が震えていた。
けれどあの時の白狐は、どこをどう見ても危険だった。
今回、事なきを得たが、今回あった事が、今後ないとも言いきれない。
その時また、無事であるかどうかも分からない。
「……」
蒼人は眉を寄せ、静かに澄真を見た。
「?」
澄真は、そんな蒼人に気づき、首を傾げる。
(……そうなったら……この人は、白狐を倒すよりも、自分が倒れることを選ぶかも知れない……)
そんな気がした。
「はぁ……」
蒼人は溜め息をつく。
やはり、仕留められなかったのが、悔やまれた。
蒼人の心配を汲んでか、澄真は苦笑いをしながら、口を開く。
「狐丸はもう、暴れはしない」
「……。そう、ですか」
どうしたら、そんな自信が出てくるのだと、少し苛立ちながら、蒼人が呟く。
苦々しく、小さく溜め息をついた。
「……あれは、今の私の会心の一撃でした。絶対に仕留められると……思ったのですが……」
八つ当たり気味に言い捨てながら、蒼人は唇を噛む。
そんな蒼人の頭をポンポンと軽く叩き、澄真はニヤリと笑った。
「私も驚いた。正直、肝が冷えた……」
困ったように笑いながら、澄真は続ける。
「……だが、お前が未熟で助かったよ。私なら絶対に外さない」
不敵に笑ったその顔が、蒼人の対抗心を煽る。
「……はっ、言いますね……」
蒼人が目を伏せ、溜め息をつくように言い捨てた。
「いつか、あなたを追い抜きますよ……!」
軽く下から睨め付けながら、蒼人が呟く。
蒼人のその強気な発言に、澄真はニヤリと笑う。
「楽しみに待ってるよ……」
「……」
何故笑えるのか……。蒼人には、それが不服だった。
澄真にとって、蒼人の宣戦布告は、所詮その程度のものなのだ。
「はぁ」
蒼人は、溜め息をつく。
「まだまだ、実力が足りない……」
ポツリと呟やき、蒼人は空を見上げた。
真っ青な空に、太陽が登り始めている。
「……」
既に疲労困憊なのだが、今日はまだ始まったばかりだった。