妖怪と陰陽師
「……結界が、ない」
中務省についてからの、狐丸の第一声はそれだった。
そもそも、京の都自体が、碁盤の目のように整えられ、結界が張られている。けれど、それだけでは足りない。全ての厄災を防ぐ事は不可能で、現にこうして、狐丸や姮娥など古参の妖怪は、難なく入り込めてしまう。
蒼人や吉昌は、そこのところを熟知しているから、自分の住まいである屋敷には、かなり高度な結界を張り巡らせていた。
陰陽師であるのにも関わらず、何もしていない澄真の屋敷は、かえって奇異に映る。
ただ、都の要である中務省であるならば、きっと厳重な結界が張られているのだと、狐丸は思っていた。
思っていたが、何もないのである。
肩透かしを食らったように、狐丸は素っ頓狂な声をあげた。
その声に姮娥は、くくくと笑う。
「ええ、そうです。帝の住まう内裏には、さすがに結界が張られていますけれど、中務省には張られていませんわ。……結界など張ろうものなら、陰陽師たちの式鬼も、弾かれてしまいますもの……」
着物の端を持ち、しとやかに口許へとあてて、にこりと狐丸を見た。
「……そう、なの……? 僕、明日は藤見の宴に呼ばれているんだ。入れるのかな……?」
不安げに、狐丸は呟く。
「藤見の宴……?」
姮娥は首を捻る。
「うん。前に言ったろ? 澄真に捕縛符を投げつけられた話」
言われて姮娥は思い出す。
「え……ええ……」
(あの、禍々しい捕縛符……)
思い出しただけで、血の気が引く。
未だ、狐丸の左腕に取り付いているその捕縛符は、並の力ではない。
小さな妖など、瞬時に祓ってしまいそうな、恐ろしいものだ。それを苦もなく腕に巻いている、狐丸も狐丸。
姮娥にとって、あまり聞きたい話ではない。
「その時に、帝の子どもを助けたんだよ。敦康って言う……」
「あぁ、あの……」
《敦康》と聞いて、姮娥は宮廷内で囁かれている噂話を思い出した。
なんでも帝の嫡男であるの敦康を、廃嫡にするという噂だ。
姮娥は頬に指をあて考える。
(確か、今はまだ義理の母である彰子さまと共に、飛香舎におられるはず……)
敦康は、既に元服している。本来なら、義理の母と言えども一緒に住むことは出来ない。
けれど、敦康の立場の不安定さと、彰子たっての願いで、藤見の宴まで共に過ごす許可が与えられたという。
(その宴に、狐丸さまが……?)
藤見の宴以降、敦康は内裏を離れ、別の場所に居を構える。
(今回の宴は、敦康さまが内裏にいる最後の宴となるので、内々で行うと聞きましたけれど、……そこへ呼ばれているとは……)
口許に指をあて、姮娥は考える。
可能性として、ないわけではない。
命を救われた敦康が、どうしてもと頼めば、それも可能だろう。
けれど、場所が場所だ。
妖怪にとって、人は玩具ともなるが、毒ともなる。
「……」
姮娥の目は、厳しい。
「入れないことはないはずですよ? 狐丸さまは、お客さまとしてお呼ばれしたのでございましょう? 忍び込むならまだしも、決められた手順を踏みさえすれば、入られるのでしょうね……」
現に、結界の張られた内裏出会っても、呪詛を受け、亡くなる子どもは多い。床下や屋根裏、屋敷に飾られた宝物などに呪詛を練りこんだものを仕込み、政敵や帝の嫡男などが、狙われた話などよく耳にする。
(どうやるのかは分かりませぬが、抜け道はあるのでしょう……。いえ、それよりも……)
姮娥は、その藤見の宴に狐丸が呼ばれているその事が、ひどく気になった。
「けれど狐丸さま? いくら敦康さまをお助けしたと言えども、内裏の……しかも七殿五舎に、呼ばれるなど、驚くほかないのでございますが……?」
言葉に出すと、不安で胸がいっぱいになる。
(黙って見送って、いいものなのでしょうか……)
心がザワつく。
「え? どうして……? しちでん……何??」
狐丸はキョトンとする。
そもそも七殿五舎が何なのかが、分からない。
「《七殿五舎》……帝の妃たちが住まう場所ですわ。普通は入れませぬ。……狐丸さまだけが、お呼ばれしたのですか?」
姮娥は、狐丸に気づかれないように、眉をひそめる。
帝の妃や子弟たちがいる奥へ、許可なき者たちが入れるわけがない。警護は他と比べるべくもなく、厳重だ。
(何かよからぬ事でも、考えているのではないかしら……)
未だかつてない例外的な処遇に、不信感しかない。
姮娥は激しくなる鼓動を、必死におしとどめようと、ギュッと胸元の衣を掴んだ。
と言うのも、狐丸は二尾の妖狐だからだ。
(妖狐……。差し当たり狐丸さまは、九尾ではないから……)
姮娥は、目を細める。
九尾……数としては、限りなく少ない。現在、存在が確認されているのは、黒狐寺に封印されている、黒狐のみだ。
少ないうえに、高度な妖力を宿している。人間にとっては、脅威以外の何者でもない。
それ故、九尾は最優先捕獲対象に位置づけられている。……その事を狐丸は知らない。
狐丸は九尾ではない。二尾の白狐だ。
けれど、多くの妖力をまだまだ秘めている。いずれ、尾は増えるのでは……? と、姮娥のみならず、鉄鼠も玉兎も思っている。
(……この分だと、九尾になるのではないかしら……?)
狐丸が九尾になるには、あと七本の尾が必要になる。
(あと七本……)
九尾になれる可能性があるとは言っても、あと七本も必要だ。当分九尾にはならないだろう。
けれどあと数百年も経てば、古参の妖怪……九尾として、この地を闊歩しているのではないだろうか……? 妖にとって、数百年など、ほんの瞬きの間だ。
(そしてなによりも、この狐丸さまの妖力……)
姮娥は、小さく唸る。
(数百年と言わず、すぐにでもなってしまいそうですわ……)
姮娥は、長年この地に根をおろし、鉄鼠や玉兎と暮らしている。
だから知っている。
人が何を考え、そして九尾がどんなモノであるか……。
深刻な顔をする姮娥に、狐丸は気づかない。
ふるふると頭を振ると、口を開いた。
「ううん。僕のほかに、澄真も行くよ」
狐丸の言葉に、姮娥は目を見開く。
「澄真さまが……っ!?」
あまりの驚きに、姮娥の声は裏返る。
基本、内裏には上級貴族しか入れない。
どう見ても、澄真が足を踏み入れられるような場所ではない。
姮娥は更に、不安になる。
(やはり、狐丸さまは騙されておられるのでは……)
ゴクリと唾を飲み込んだ。
「え? う、うん。この話は、澄真から聞いたから。……あ、あと澄真の上司の……えっと吉……よし……なんだっけ?」
狐丸は驚く姮娥に、少しビクつきながら、先を続ける。
「吉……!? 吉昌!?」
「え? そ、そう。姮娥……知ってるの……?」
「……」
知ってるも何も、吉昌は陰陽頭。月の手毬を自分の式鬼に盗ませた、張本人である。
少し怯えた様子の狐丸を見ながら、それでも姮娥は、言葉を返せなかった。
(まさか、《月の手毬》だけでは飽き足らず、今度は狐丸さまを……!?)
ふるふると怒りが込み上げてくる。
それは、何としてでも阻止しなければならない!
「こ、姮娥? どうしたの? 顔……怖いよ……」
心無しか、狐丸の声が震える。
「狐丸さま……」
名を呼ぶが、なんと説明すればいいか、分からない。
考えあぐねた末に、ひとまず、吉昌の説明をする事にした。
ひどく妖怪嫌いなこと。目に見えない式鬼をつれていること。それから陰陽頭であること。
──そして、陰陽師は妖怪の敵であることを……。
「……陰陽頭?」
狐丸は首を傾げる。
「……澄真さまの、《上司》ですわ。……基本、澄真さまは、この《上司》である吉昌には、反抗出来ませぬ……」
「……そう」
何を思ったのか、狐丸の顔が曇る。
それを見て姮娥は憐れに思い、慌てて言葉を続けた。
「け、けれど、澄真さまは、あの澄明さまのご嫡男であられる様子。さすがの吉昌と言えども、そう簡単には、手出し出来ないはずでございます」
「澄明……?」
狐丸が尋ねるように呟いた。
その言葉に姮娥は、こくりと頷く。
「澄真さまのお父上であられる澄明さまは、現帝の信頼を、一身に集めていると聞き及んでございます。……身分は中級貴族止まりではありますが、実力は上級貴族と同じでございますゆえ……」
心配はないのだと、暗に匂わせた。
(本当に心配なのは、狐丸さま……)
姮娥の顔は険しい。
どう考えても、人間たちの行動があやしいのだ。
(何か……何か企んでいるはずですわ……っ!)
姮娥の勘が、痛いほどに警鐘を鳴らしていた。




