烏帽子
──ピチャ……。
木の葉についた雨粒が、ポタリと池に落ちた。
昨日の夜から降り始めた雨は、明け方には小降りになり、今はもう晴れ間さえ見えている。
雨で洗われ、清々しくそよぐ空気に、狐丸はウズウズとしっぽを揺らした。
そもそも、生まれてこのかた、ほとんど森の中ですごしている狐丸である。
ずっと屋敷に籠りっぱなしのこの生活に、飽きないわけがない。
退屈だと言わんばかりに、ゴロゴロと縁を転げ回った。
昨日までは澄真の屋敷。今日は蒼人の屋敷……と、場所は変わってはいるものの、面白いものは何一つとしてない。
整えられた庭園と、池を見て、何が面白いんだ! と頬を膨らませた。
結局なところ、ひどい雨に見舞われて、蒼人の屋敷に泊まることになった。
ひどかった怪我は、一晩かけて舐め回すと、すっかり良くなったのだが、さすがに怪我をした後に水浴びはするな! と固く言われ、狐丸は泣く泣く諦めた。
お陰で、イライラは募るばかりだ。
──お前の治癒能力……ホントだったのか……。
蒼人が呆れた声をあげたので、狐丸は笑った。
妖怪だから普通だよ……、と言ったが、二人は首を振った。《治癒能力》は特別なのだと言う。
昔、蒼人の怪我を、澄真が治したこともあったが、それも奇跡に近いのだと、教えてくれた。
(怪我を治す力は、初めから持っていたから、みんな持ってるんだと思ってた……)
狐丸は縁を転がりながら、そんなことを思う。
以前澄真から投げつけられた捕縛紐の時は、呪符のお陰で弾かれ、舐めることは出来なかったが、舐められるのならこっちのものだ。
舐める気力さえあれば、どんな傷も治せる自信が、狐丸にはある。
(もう傷も治ったし、いい加減、遊びに行きたいなぁ……)
狐丸はそんな事を思いながら、空をぼんやりと眺めて、小さく溜め息をついた。
正直、玉兎の事が心配だった。
(澄真の行動には、ムッとしたけど、思えば玉兎は関係なかったんだし……)
狐丸は反省している。
(きっと僕、すごい剣幕で追いかけていたと思うし……)
おそらく、それで澄真も逃げ出したに違いない。
(僕……あの時は、どうかしてたんだ……)
ゆっくり目を閉じて、昨日のことを思い出す。
ひどく腹が立って仕方がなかった。
妖怪を退治するという陰陽師のはずなのに、澄真は玉兎を守った。
「……僕のことは、攻撃した癖に……」
狐丸は自分の左腕を見る。
「……」
未だに巻きついている、捕縛紐が憎らしかった。
目がうるみ始め、視界がブレる。
(……僕に、背を向けて……逃げた……)
そう思うと、胸がギュッと締めつけられる感じがして、ひどく悲しかった。
「……」
両腕で、顔を隠す。
(もう、いいんだ……)
「もう、いいんだ」
心の中で呟くだけでは飽き足らず、口に出してみる。
口に出すと、少し気が晴れた。ごろっとうつ伏せになる。
それでも、真っ白なフワフワの耳は、力なく垂れた。
「……別に、いいんだ……!」
もう一度、呟く。
振り切るように、ガバッと顔を上げ、気持ちを切り替えた。
(落ち込んでてもしょうがない!)
そう思い直すと、パタパタとしっぽを振りながら、近くにいるはずの澄真に、声をかけた。
「ねぇ……、澄真。僕、出掛けてもいいかな?」
(ここにいても、悲しくなるだけだ)
ちょっと甘えた声を出して、媚びをうってみる。
澄真は、意外に甘いところがある。
上目遣いでものを頼むと、大抵の事は聞き入れてくれることに、狐丸は最近気づいた。
(出掛けるくらいは、許してくれるかも。気晴らしに出かけよう。……ついでに玉兎を探して……)
そう思って振り向く。
しかし……。
「……お前。大怪我した自覚が、一切ないだろ……」
呆れた声がすぐに帰ってきた。
答えたのは、澄真ではない。
蒼人だ。
狐丸はムッとする。
「お前には聞いていない! 僕は澄真に聞いてるんだ! ねぇ、いいだろ? 怪我も治したし、雨も上がったからさっ」
振り向いて、澄真を見る。
澄真は、笑って答える。
「そうだな。……私も、今日は用事があるし……」
澄真は、普段着の水干ではなく、狩衣を着込み、何やら身支度をしていた。
本来なら侍女が手伝う支度なのだが、澄真が断ったのだろう。
蒼人が手伝っている。
「……え? 澄真? どこかに行くの……?」
狐丸は驚いて、目を丸くする。
敦康の藤の宴までは、出仕はなかったはずだ。
あからさまに眉を寄せる狐丸を見て、澄真が笑った。
「仕方ないんだよ。……お前たちが暴れてくれたお陰で、私の仕事が増えた。少し、仕事をして来る」
言って、目を細めた。
蒼人から帯を受け取り、器用に結ぶ。
口調は困った様子だが、顔は怒っていない。
むしろ、嬉しそうだ。
「も、申し訳ありません……」
真っ赤になりながら、蒼人が謝罪する。
その言葉に、灰青の瞳が驚いたように見開かれる。
「何を言うんだ! お前がいてくれて、助かったと言うのに……」
澄真は、優しく微笑んだ。
「……っ」
実際あの時、蒼人がいなかったなら、澄真は怒り狂った狐丸と、そのまま対峙しなくてはならなかったに違いない。
蒼人の屋敷に匿ってもらい、結界で狐丸の力を削ぐことが出来たからこそ、狐丸を捕獲できたのだ。
あのまま力を削がずに対峙していれば、澄真ですら、無事でいられたかは分からない。
(いや、無事どころではない……都を巻き込んだ、争いになったかもしれない……)
澄真はそう思う。
そう思うと、肝が冷えた。
(そうなれば、もう狐丸は庇えない……)
心なし青くなり、首を振る。
(しかし、そうはならなかった。最小限の被害ですんだ)
狐丸が大怪我をした事は、悔やみきれないが、どうにか事は穏便に進んだのである。後の後始末で仕事をするなど、易いものだ。
澄真は小さく溜め息を吐く。
(蒼人には迷惑をかけてしまった)
けれど、屋敷にいてくれて助かった。
感謝しても、しきれない。
「こちらこそ、礼を言わねばならない。ありがとう。とても助かったよ、蒼人……」
にこり……と笑いかけられて、蒼人の心臓は、張り裂けそうだ。
「い、いいえ……」
蒼人は必死になって、言葉を返す。
照れ隠しに、近くに置いてあった高烏帽子を手に取り、澄真の頭に乗せた。
「す、澄真さま。もう少し……こちらに頭をお寄せください。結びつけますので……」
「ん。こうか……?」
こてっと頭を蒼人に寄せる。
「……っ、」
腕の中にすっぽりと収まった澄真の頭を見て、軽く動揺する。
そんな蒼人の動揺には気づかずに、澄真は、うーんと唸る。
「そうだなぁ。お前に何か、お礼をしないと……」
「え!? お礼? お礼をされる事などなにも……っ!」
慌てて烏帽子を澄真の髪に結びつけると、体を引いた。
(このまま傍にいると、離れがたくなる……っ)
少し青ざめて、蒼人は距離を取った。
「……なにも、そんなに嫌がらなくてもいいだろ……?」
澄真はムッとするが、そんなわけにはいかない。
「いえ、嫌がっているわけでは……」
必死に言い訳をする。
「あ、そうだ。この前、大国からの使者が来ていてな、緑檀の木をもらったのだ。それで、数珠を作ってやろう」
「いいえ、そんな……っ」
ぶるぶると頭を振った。
緑檀とは別名《生命の木》と言われる。
その樹脂を薬にすると万病に効くらしい。なかなか手に入るものではない。
貴重な木で数珠など以てのほか……とばかりに蒼人は辞退したのだが、澄真はそれが気に入らない。
再びムッとして口を開いた。
「お前は私を避けたり、やると言うものをいらないといったり……。そんなに私が嫌なのか……?」
悲しげに顔を歪める。
「え? いえ、そんな……っ」
慌てて否定するが、澄真の表情は暗い。
すると横から狐丸が、ニヤリと顔を出す。
「ふふ。澄真はダメだなぁ。むしろ、その反対だよ! ねぇ? 蒼人?」
ニコニコと笑いかける。
その笑顔が、蒼人には鬼の微笑みに見えた。
「えー……、いや、その……」
「好きだと、素直になれないものなんだよ? 澄真もそうだろ?」
不意に狐丸が話に加わった。
「……私がいつ、素直じゃなかったんだ?」
ギロッと狐丸を睨む。
「例えば、……あ、ほら! 澄真は湯浴みが好きだろ? だけど、僕が川で水浴びに誘ったら、断ったじゃないか!」
パタパタと耳をはためかせ、嬉しそうに答えた。
澄真は、はぁ……と溜め息をつく。
「お前……、あれは春先の事だったろ? 私を殺す気か……?」
「え? じゃあ、今なら一緒に入る?」
可愛らしく首を傾げる。
「いけません……!」
澄真が答える前に、蒼人が口を挟む。
「澄真さまは、体が弱いのです。夏場であっても、川に入ることは、断じて出来ません!」
キッパリと言う蒼人に、二人は目を丸くする。
「ちぇっ! 気持ちいいのに……」
膨れる狐丸を見て、笑いを堪える澄真。
「ふふ。まぁ、蒼人には数珠を送るから、ちゃんともらってくれよ? あぁ、それと狐丸……」
蒼人が断りの言葉を口にするより早く、澄真は狐丸を見る。
「ん?」
「出かけてもいいが、暗くなる前には屋敷に戻るように」
言われて狐丸は嬉しそうに、しっぽを振った。
「うん!」
「それから、今日は自宅へ戻るから、ここではなく向こうの屋敷の方へ戻るんだぞ!」
「!」
蒼人の顔が曇る。
「分かった!」
──ポン……!
言うが否や、ぴょんっと外へ飛び出すと、そのまま白狐になって駆けて行ってしまった。
余程、退屈していたのだろう。澄真は、くすりと笑う。
「良かった。元気になって……」
澄真は呟く。
「……」
顔をしかめる蒼人に気がついて、澄真は困った顔で笑った。
「嫌かもしれないが、たまには、お礼のひとつでもさせろよ……」
ポンポンと肩を叩いた。
「じゃ、先に出るからな」
そう言って澄真は出ていってしまった。
誰もいなくなった蒼人は、顔を曇らせる。
(……そうじゃない)
そうじゃないんだ……と小さく呟いて、蒼人は大きく溜め息をついた。




