忍び込むその前に……。
夜も更けて、空に銀色の星が瞬き出す頃、鉄鼠は仲間を数匹引き連れて、吉昌の屋敷を訪れた。
ケロケロケロ……と田畑では、カエルが鳴いていた。
小さな虫たちの音も聞こえる。
既に田植えは終わっていて、カエルたちも、ここぞとばかりに寛いでいるのだろう。
田んぼのあぜ道を歩きながら、鉄鼠はその鳴き声に癒された。
『……』
不意に鉄鼠の脳裏に、気落ちした姮娥と玉兎の姿が浮かんだ。
自分たちのせいで、白狐が死んだのではないかと、ひどく落ち込んでいる顔だ。
カエルは姮娥の眷属ではあるが、今、田畑で心地よく鳴いているカエルたちは、きっと姮娥の気持ちを知らないのだろう。
主が悲しんでいたとしても、その末端の配下まで、その想いが通じるとは限らない。それは鉄鼠にも言えることだ。
こうも月の手毬と幻月童女の安否を気遣ってはいるのだが、それは鉄鼠だけ。
配下の者たちにとって、それはあくまで、ただの毬とただの女の子なのである。優先するべきものではない。
優先すべき者……それすなわち鉄鼠、なのである。
『さて……どうしたものかのぅ』
鉄鼠は屋敷に着くと、地面にドカッと座り、屋敷を見上げた。
屋敷はかなり広い。このどこかに月の手毬があるのだけは確かだった。
しかし、何処にあるのかまでは、まだ把握出来ていない。
手強さを感じ、鉄鼠は唸る。
月の手毬の在処を絞りはしたものの、場所が悪い。
まさか、陰陽師……しかもその頭である吉昌の屋敷の中にあるとなると、ことは厄介だ。
いかに手際よく奪還するか……それが、今回の難題であった。
『鉄鼠さま。……ここは諦めた方が……』
近くに控えていた梅丸が、声をかける。ほかのネズミたちも同意見だ。
後ろに控え、平伏していた。
しかしその言葉に、鉄鼠はすぐさま牙をむいた!
『何を言うかっ! あれはただの毬ではないっ! あれは幻月童女さまの大切な毬なのだぞ! 月の使者であらせられる童女さまが、大切にしておられる毬を、居場所を把握しておきながら、みすみす諦めよとお前は言うのかっ!?』
鉄鼠は目ん玉が飛び出さんばかりの勢いで、梅丸を叱責する。
口からは飛沫が飛び散り、鬼のような形相だ。
『も、申し訳ありませぬ……!!』
梅丸はぶるぶるふるえながら、その場に平伏する。
けれど梅丸にとって、月の手毬など取るに足らない物……なのである。
『し、しかしながら、この屋敷は些か、あぶのうございます……』
しっぽを丸めながら、それでも梅丸は鉄鼠に言上する。
『ううむ。……それは儂とて、分からぬわけではない……』
腕を組み、鉄鼠は唸った。
さすがは陰陽頭と言ったところだ。
屋敷に張り巡らせた護りの術は、そこらの護りとは訳が違う。
門や塀に施された結界は、公家の家ならばどこでも見られるが、上空や地中までにも結界がおよんでいる……となると、相当な妖怪嫌いなのだろう。
これでは小物の妖怪ですらも、悪さできまい……。
『うーん』
鉄鼠は唸る。
ここまでの鉄壁さであれば、もはや妖怪嫌い……などというレベルではない。相当憎んでいる……と言った方が正しいように思えた。
無理をして忍び込んだとして、見つかれば、ただでは済まされないだろう。
鉄鼠は、唸りながら眉を寄せる。
実はこの鉄鼠、結界を解くのは得意中の得意である。
人が結界術を編み出した頃から、自慢の前歯でカリカリカリカリ齧って、忍び込んでいたのだ。
どんなに結界術を極めようとも、工夫しようとも、基本は同じ。
あの頃のまま。
……と言うより、結界術にどんな手を加えようが、本質を変えることが出来ない。鉄鼠は、そこを突いているのである。
鉄鼠が解除出来ない結界は、もうその時点で結界とは言えない。
術が編み出された、あの頃のことを知るものであれば、崩せるかもしれないが、鉄鼠が知る限り、そんなものは存在しない。
これでも、ネズミたちの棟梁である。
自分の他にも、結界を崩せるものが存在するのだろうか……と気になって、以前調べたことがあった。けれどいなかった。
そこここにいるネズミたちを駆使し、調べあげた情報の確かさだけは、鉄鼠には自信がある。
妖怪に、隠密業があるならば、鉄鼠はぼろ儲けしたに違いない。
が、あいにくとそのようなものはない。
勝手気ままな妖怪が、他者を気にするなど、ほとんどない。
需要はない……と言っても過言ではない。
他者を気にして調べ回っている鉄鼠は、妖怪の中でも変わり者だと言ってもいい。
《しかし、これは如何ともし難い……》
確かに、結界は崩せるだろう。
配下の者たちに手伝わせれば、全て取り除ける自信もある。
しかし、妙な気配がするのである。
《……? なんだ? このにおいは……》
訝しんで鉄鼠は、鼻をひくつかせる。
《病人のにおい……? いや、病気を運ぶ、妖怪のにおいか……》
おそらく吉昌の見ることが出来ない式鬼だろう……と鉄鼠は、渡りをつける。
このにおいの元が、厄介なのだ。
あの月の手毬が保管されていた、祠でも微かに嗅いだ、このにおい。
そのにおいを辿って、ここまで鉄鼠は来ることが出来た。だから、在り処を見つけることが出来たのは、一重にこのにおいのお陰でもある。
《だが、アレが吉昌の式鬼であれば、あっという間に知らせが行くだろう……》
それは鉄鼠たちの、《死》をも意味する。
見えようものなら、用心もできよう。しかし、姿が見えないのだ。
『……』
鉄鼠は歯ぎしりする。
かろうじて、においは分かる。分かるが、屋敷に住んでいるせいか、においが染み付き、動きが読み取りづらい。
しかも、嗅ぎ分けられるのは鉄鼠のみときている。ほかの鼻のいいネズミたちを集め、嗅がせたのが、どのネズミも嗅ぎ分けられなかった。
見えないのだから、用心出来ない。見つかったことすら気づけない。しかも、においに気づけるのが鉄鼠のみ……これでは、到底話にならない。
『これは困った……』
『て、鉄鼠さま……? やはりやめましょう。私どもは、鉄鼠さまが心配なのです。……あなたにもしもの事があれば……』
言いながら、梅丸が青い顔をして、ふるふると震える。
その姿を驚いたように見て、鉄鼠が笑った。
『はは……! お前は小心者なのだな! 万が一がないように、こうして作戦をたてておるのだろう? 心配するな……』
梅丸の頭をグリグリと撫でた。
梅丸の心配が、本当はありがたかった。
妖怪は、所詮妖怪である。
相手を思いやることなど、ほとんどない。
けれど梅丸たち鼠軍団は、半分妖怪半分ネズミであるが故、いつもこうして鉄鼠の事を気遣ってくれるのである。
《だからこそ、こんなにも永く生きることが出来た……》
口に出して言うことなどないが、鉄鼠は心の底から、この小さなネズミたちに感謝し、大好きだった。
《だからこそ、しくじるわけにはいかん……》
何としても無事に、月の手毬を奪還しなければ……!
鉄鼠は屋敷を睨みつける。
何とか方法はないものかと、夜が更けきるまで、悩みに悩んでいた。




