池の仕組みと傷の手当て
あはははは! と澄真の笑い声が響く。
蒼人は、ポタポタと髪から滴る水滴を手で掻き上げる。
(……とんだ仕打ちだ)
ひとまず今日が、あたたかくて良かった。
登りきった太陽は、例年よりも暑い。
寒さで凍えることはない。
(しかしこの姿……)
蒼人は、はぁ……と溜め息をついて、澄真の待つ縁へと歩く。歩きながら、右手に巻かれた、袖括りの紐を解いていく。
恐らく澄真は、濡れないように……と気を使って結んでくれたのに違いない。けれど、水そのものである式鬼神に抱きつかれては、元も子もない。
「はぁ……」
蒼人は再び溜め息をつく。
ばちゃ……と音をたてて、水を含んだ袖が広がった。
ボタボタと着物から水が、滴り落ちる。……《滴る》という程度の水量ではない。
(むしろこれは《溢れる》が、正しいな……)
袖を絞ると、ザバーっと水が溢れた。
それを見て、澄真は嬉しそうだ。
袖で口許を隠し、笑いを堪えている。
「ふふふ。その池には呪が込められていてな。あの式鬼神の住処になっているようだよ」
澄真が説明する。
「面白いことに、縛り付けているわけじゃないみたいなんだ……。居心地がいいように、呪で護っているようだ……」
言いながら、蒼人の傍へと歩いてくる。
「……縛り付けていない?」
バタバタと袖を振るい、蒼人は眉を寄せた。
……絞れるだけの水は、一応絞り取れたようだ。
「……」
式鬼神……とは、いわゆる妖怪のたぐいである。
本来なら式鬼として使役するため、花押を刻み行動を制限したり、地に縛り付ける。
使役するため……とは言っているが、本来の目的は、悪さをさせないためである。
その縛りは、絶大だ。
式鬼はそれなりの苦痛を、ともなうらしい……。
その事を澄真は知っているので、けして自分の式鬼を持とうとはしない。蒼人は、その事を知っている。
そんな澄真が《素晴らしい》と言うのだから、本当に縛ってはいないのだろう。
「……」
けれどそれは、信じがたい。
「それでは……危険なのでは……」
蒼人は唸る。
普通の人は、力を持たない。
力を持つ妖怪には、勝てないのだ。
池の水を、あれだけ操れる式鬼神……。
民家を押し流すことなど、造作もないに違いない。
それがただ、屋敷内に、住処を提供しているだけなど……。
蒼人の心配げな顔を見て、澄真は、小さく笑う。
「……そうかも知れないな」
「ならば……!」
蒼人は声を荒らげる。
大人しくしている今、ここで、祓ってしまうのが得策なのではないだろうか?
蒼人は眉を寄せた。
けれど澄真は、頭を横に振る。
「そうかもしれないが、そうでないかもしれない。……この水式神は、お前の命を救ってくれたんだぞ? 幼い私の術だけで、お前の傷が癒せるとでも思ったか……?」
澄真が冷たい目で、蒼人を見る。
「そ、それは……っ」
ぐっと息を呑む。
「お前だけじゃない。私も救われた」
言って、悲しげに笑った。
「……っ、」
「あの時、水柱をあげてくれたから、私たちはすぐに発見して貰えた。記憶のないお前に自覚はないかもしれないが、私はあの後、生死を彷徨った。見つかるのが遅ければ、死んでいたかもしれない……」
澄真は、静かに池を見る。
(《死んでいたかもしれない》……!?)
蒼人の血の気が引く。
思わぬその言葉に、底知れぬ恐怖が蒼人を包み込んだ。
(下手をしたら、澄真さまを失っていた……?)
ゴクリと唾を呑み込む。
──ゴオォォオォォ……。
突如、突風が吹き荒れた。
春先にはよく吹く風だ。
それは到底そよ風とは言いがたく、時に人を襲う……!
庭の木々を風が激しく揺すった。
ハラハラと木の葉が舞い、小枝が落ちる。
池の水面にいくつもの波紋をつけた。
「う……っ」
蒼人と澄真は、袖で顔を覆い、風を防ぐ。
無闇に息を吸い込めば、咳き込むこと必須である。
砂埃が舞い上がった。
風がやみ、澄真は顔をあげる。
「この季節は風が強くなるからか、病も飛んでくる……。蒼人、池の水で濡れたのだから、早く着替えて来い。風邪を引くぞ……?」
困った様子で、澄真が言う。
(心配してくれているのか……?)
そう思うと、蒼人は嬉しくなるのだが、自分はそんなに弱くない。
蒼人は、笑って口を開いた。
「大丈夫ですよ。この程度では……、は……は、……っくしゅ……っ!」
「!」
思わず出てしまったクシャミに、澄真が目を丸くする。
(……あ、クシャミが出てしまった……)
さきほど舞った砂埃でも、吸い込んでしまったのだろう。鼻の奥がムズムズした。
濡れた着物の袖で、鼻を押さえた。
けれど格好はつかなかったな……と、蒼人が真っ赤になって、恥じ入っているところへ、澄真が飛んで来た。
「え? ……澄真さま……!?」
──ふわっ……。
「だから言っただろ? 早く着替えて来い……」
ひどく心配した様な目だった。
「!」
今度は蒼人が目を丸くする。
実際蒼人は、それほど病弱ではない。むしろ強い方だ。この程度では、風邪を引かない。
けれど、いつも寝込む澄真にとって、それは信じ難い事だったのだろう。クシャミをした蒼人を心配して、自分の着物で包むように抱きついて来たのである。
「す、澄真さま……っ」
「ほら、じっとしてろ!」
言いながら袖で、蒼人の濡れた髪を拭き始めた。
「お、お待ちください……! お召し物が濡れますっ。き、着替えて来ますから、離してください……っ!」
少し勿体ない気もしたが、着物を濡らせば、今度は澄真の方が熱を出してしまう。
丈夫な自分と違い、澄真では、この寒さには耐えれないだろう。
蒼人の言葉に、澄真は少し文句を言いながら、体を離した。
「最初から、そうしてればいいんだ。余計な強がりは言うな!」
「強がりではありませんっ。少しクシャミが出ただけではないですか。あなたと違って、私はそんなに病弱ではありませんよっ!!」
思わずムッとなって言い返す。
それに澄真もムッとしたのだろう、再び口を開いた。
「何を言うんだ! 今の季節は朝晩の気温差が激しいから、体調を崩しやすい。突風が吹くから、妙な病魔も舞い込んでくる。用心し過ぎるくらいで、ちょうどいいんだ! お前は楽観視し過ぎるんだよ」
言いながら、髪を引っ張り自分へと寄せる。
身長差があり、届かないようだ。
「痛い……! 何するんですかっ、痛いじゃないですか! ……分かりました。分かりましたからっ! 澄真さまも室内にお入りくださいっ。……あぁ、もう! こんなに濡らしてっ、……あなたは濡れていなかったんですから、そのまま屋敷に戻れば良かったのに……」
恨めしそうに、濡れた澄真の衣を見た。
「澄真さまも、着替えてくださいね! 私の着物を出すように伝えておきますから」
「その必要はない! このままでいい」
「なに言ってるんですかっ! そちらこそ、強がりはおやめ下さい! あなたが熱を出すと、周りの者が困るんですっ!」
ギャーギャーと階のところで騒いでいると、垂らしていた御簾が、ふわりと揺れた。
「!」
二人はハッとして、そちらを見る。
「な……にを、騒いで、……るの……」
柱に寄りかかり、銀髪の妖狐が顔を出す。
包帯だらけの体からはまだ血が溢れ出しているのだろう。じわりと血が滲んでいた。傷が痛々しい。
多少無理をしているのが見て取れた。
「……! 狐丸! 寝ていなくていいのか!?」
澄真の表情が、パッと青ざめる。
慌てて、狐丸の傍へと駆け寄った。
狐丸は傷が痛むようで、柱に身を寄せながら、かろうじて立っているようだった。
澄真が近づいたのを見てとると、その場にぺたりと座り込んだ。疲れたように、白い耳を伏せた。
「狐丸……っ!」
澄真が悲痛な声をあげる。
「……っ、」
今まで見たことのない澄真の表情に、蒼人は眉をしかめた。
ズキリと胸が傷んだ。
二人が一緒にいる姿に、嫌悪感しかない。
ギリと歯ぎしりをすると、蒼人も慌てて、二人の傍へと駆け寄った。
簡単に、二人きりにさせる気はない。
澄真は心配げに、狐丸の頬を撫でている。
狐丸は撫でられて嬉しいのか、ホッとしたのか、耳をパタパタとさせ、目を伏せた。
そのおでこに、澄真は唇を寄せる。
その姿に、蒼人はギョッとなった。
「うわぁ……っ! 何してるんですかっ、あなたは!」
蒼人は叫んで、狐丸から多少乱暴に澄真を引き剥がした。
目の前でイチャつかれてはかなわない。
「な、何って……熱を診るんだよ」
言って蒼人の手を払い除けると、再び口を寄せようとする。
「いやいやいや。熱は手で測るものです。口ではありません」
蒼人は、必死になって澄真の襟を引っ張った。
引っ張られて、澄真はもがく。
「離せ、苦しいだろ!?」
それに……と言いつつ、澄真は蒼人に向きなおる。
向きなおりながら、自分の手を蒼人の額におしつけた。
ヒヤリと、氷のように冷たい手の感覚が、蒼人を襲う。
「ひっ。何するんですか。冷たいじゃないですか……っ!」
蒼人は唸た。澄真の手は、初夏に近いという季節なのにもかかわらず、相変わらず氷のように冷たい。
それに言葉に対して、澄真は異を唱えた。
「そうだろ? 冷たいだろ? 私はコレのおかげで、手では熱が測れない。唯一測れるのがコレだ!!」
どうだ! 参ったかっ! と言わんばかりに自分の唇を指さす。
「いや……いやいやいや、……自慢できませんからね。……ん?」
「あ……!」
蒼人と狐丸が声をあげる。何かを見つけたようだ。
澄真の指さしたその唇に、傷があったのだ。
雷神と対峙した時に、食いしばりでもしたのだろう。結構な傷痕となっていた。
その傷に蒼人と狐丸が気づき、声を上げたのだった。
澄真は、自分の唇に触れる。
「あ……」
今初めて、怪我に気づいたらしかった。触れると少ししみるようで、顔をしかめた。
「澄真……!」
狐丸が澄真を呼ぶ。
「ん? ……んん!?」
振り返るとそのまま首に手を回され、ペロリと唇を舐めとり、くちづけた。
「うわぁぁあ……! 何してるんだ! この妖狐は……っ」
今度は、狐丸の襟首を掴む。
「やめろ蒼人! 狐丸は怪我人だぞ!」
言いながらも、澄真の頬は赤い。
「妖狐は人ではありません! 多少の事では死にませんよ!!」
イラッとしながら、澄真を非難する。
狐丸を澄真の近くに置いていては、何をしでかすか分からない。早く布団へ寝せてしまえ! とばかりに蒼人は狐丸を抱き上げた。
抱き上げた狐丸は、見た目よりもひどく軽く、蒼人は目を見張る。
「軽……っ」
抗うことなく、大人しく蒼人に抱かれている狐丸を見て、今度は澄真が顔をしかめる。
「あ……。ごめんなさい。僕、治癒使えるから。……でも舐めないと治せなくて……」
その言葉に、蒼人と澄真が目を細めた。
──「「だったら、自分の傷をまず治せ!!!!」」
息はピッタリだった。




