覚悟
──ざぶーん……!
凍りつくような冷たさが、後から感覚として僕に襲いかかる。
「ひぁ……っ!」
思わず少量の水を飲んでしまった。
凍るような冷たさが、喉を通る。
「ふぐっ……」
苦……し……っ。
冷たさはすぐに、突き刺すような痛みへと変化した。
「ぐ……っ!」
けれどこれが最善の策だ。
は……早く、早く上がらないと……。
ガクガクするほどの激しい寒さが体を襲う。
このままここにいたら、確実に二人ともお陀仏だ……!
さきほど、千鬼が岩にあたった衝撃も感じた。
ケガ、……ケガしてるかも……っ。
ガクガクとした震えが、寒さからなのか、恐ろしさからなのか判別がつかない。
とにかく一刻も早く上がらなければ、二人とも凍えてしまうのは明白だ。
──ばちゃっ、ばちゃ……っ。
「お、重……っ」
衣が水を含んで、ものすごく重い。
「うっ……ぐう……っ」
僕はありったけの力を振り絞って、必死の思いで池から這い上がる。
「はぁ、はぁ。あっ……!」
千鬼を引き上げ、目を見張った。
腹から大量の血が出ていた。
──やっぱり……!
「千鬼! 千鬼!!」
ガチガチと歯を鳴らしながら、僕は千鬼の名を呼んだ。
けれど返事はない。
「……っ!」
必死に呼び掛けながら、着物を脱がせる。
怪我……怪我の様子を見なくちゃ……っ!
「ひ……っ!」
僕は思わず目をそらした。
手にべっとりと千鬼の血がついている。
クラクラと目眩がした。
岩があたったのは、左の脇腹だった。
着物があったから、傷自体はそう汚れてはいない。
……でも、ひどく抉れていた。
真っ赤な血液と、やけにピンク色の傷口。
それから……。
白いモノが、覗いて見えた。
「……! う、うぐっ……」
思わず吐き気をもよおす。
目の前がチカチカ光り出し、真っ暗になる。
さーっと音を立てて、体の中の血液が下に落ちるような感覚に、僕は目をつぶり、必死に耐えた。
だ、ダメだ……。ここで倒れるわけにはいかない……っ!
ガタガタと、肩を震わせながら自分に言い聞かせる。
「す、水式神……おねが……力を、貸して……っ」
溢れそうになる涙を、必死に堪えながら呼び掛けた。
歯が噛み合わない。ガチガチと顎がなった。
千鬼の出血を止めるべく、僕は願う。
──お願い。血を……血を止めて……っ。
夢中で傷口を手で覆う。
痛くないように気をつけたけれど、手が震えて千鬼の血液が、指の間から溢れ出た。
溢れ出る血が、止まらない……っ。
出血の量も多かった。
「あ……。あぁ……っ! お、……お願い……っ! お願い! 水式……、水式神……っ!」
──血を止めろ……っ!
池の水が、呼び掛けに反応し、水柱を上げた……!
──ぶわ……っ!
「!」
何が起こったのかと、僕は目を見張る。
屋敷で一番大きな榎よりも、もっと高い水柱。
そんなもの、僕は生まれてこの方見たことがない。
あぁ! 怒らせたっ、……僕が頼まなかったから。
僕が命令したから……。
水式神に対して、ぞんざいな言葉を使ったことを、僕は後悔する。
でも、……でも! 必死だったから……っ!
グッと目を閉じた。
水式神を怒らせたのだと、涙が溢れた。
けれど、そうではなかった──。
「あ、……あたたかい……?」
降り注ぐ水柱の飛沫はあたたかくて、そうではない……と、水式神が言っているようだった。
あたたかい飛沫に、寒さが和らいだ。
ガクガクと震えていた手が、ほんの少しだけ、おさまっていく。
「……優……しい……雨」
僕の目から、また涙が溢れた。
自然界にいる精霊の呼び方は、絢子が教えてくれた。
けれど、正式に教わったわけではない。
だから、僕が使える呪術は限られている上に、ひどく弱い。
千鬼を助けるために、岩の上に上がる手助けをしてもらったり、何かを自分に引きつけたり……そんな事しか出来はしない。
だから当然、千鬼を助けるなんて、不可能なことだった。
人のケガを塞いだり、血の流れを止めるなんてことは、出来るはずはなかったんだ。
けれどそれなのに、僕の声に答えたモノがあった。
悔し紛れに叫んだ命令。
高く上がるあたたかい水柱。
降り注ぐ優しい雨の中で、僕は水式神の応の声を聞いた。
──承知致しました……。
命令に応じる言葉が、脳内に響く。
やけに丁寧な言葉づかいだった。
「!?」
僕は、驚くと共に意識が遠のきそうになり、グッと耐える。
まだ、まだ倒れるわけには……っ。
今まで式神に呼び掛けたことは、多々ある。
けれど答えてくれたのは、初めてのことだった。
何が起こるのか、この目で見ておきたい……っ!
千鬼。千鬼を、……助けて……!
僕は、目を閉じながら願った。
どうか……っ、千鬼、千鬼だけでも……。
遠くで、侍従の声が聞こえた。
「……かぁ。……若は、おられますかぁ……!」
「!」
僕は身を起こそうとしたけれど、もう動くことも叶わない。
「こ……ここ、だ……」
消え行く意識の中で、必死に呼び掛けた。
けれど、あぁ……良かった。
僕は、ホッと溜め息をつく。
おそらく水柱を見て、こちらに気づいたのだ。
高さこそ低くなったが、まだ水柱は立っている。
いずれ誰かが見つけてくれる。
すぐに見つけて貰える……。
そしたら、千鬼は助かるだろう。
傷口はずいぶん塞ぐことが出来た。
あの水式神のおかげだ。
ありが……と……。
小さく水式神へ、感謝の念を伝える。
──吾が守護する者を助けてくれた。こちらこそ礼を言う……。
話すはずのない式神の声が響く。
……しゅ、ご……?
《守護する者》とはなんだろう?
式神はただの《力》に過ぎない。
それが護る者……?
千鬼の事だろうか……?
そんな事を、ぼんやりと思いながら、僕は目を閉じた。
もう……。
何も出来そうになかった……。