怪我の原因
新緑をたたえた楓の木を、澄真は見上げた。
(あの時の榎は、こんな高さじゃなかった……)
あの時、かなり走った後だったのにも関わらず、蒼人はすぐに木に登り始めた。
何か目的があるようで、脇目も振らず登るものだから、澄真は出遅れてしまったが、まさかタヌキの為だったとは……。
体が大きいだけではなくて、筋力にも優れているのだろう。無駄な動きは何一つなく、スルスルと登っていったのだ。
澄真は目をつぶって、あの時のことを思い出す。
「お前は脇目も振らずに、ただ前だけを見て登って行った……」
ポツリと澄真は呟いて、そしてその呟きを、蒼人は静かに聞いていた。
◆◇
凍てつく景色が、若干穏やかになった元旦の朝。
僕たちは寝殿の東の対屋で、袴着を行った。
その後、そのまま広廂(対屋の南側にある吹き放った広い空間)で、子どもたちは遊び始めた。
お祝いの食べ物やお菓子に、誰もが喜んだ。
けれど今回早めの袴着に参加した、四つ下の千鬼だけは、遊びの仲間には入ろうとせず、じっと外の庭を眺めていた。
「千鬼……?」
僕は心配になって、様子を見る。
異様な見た目の僕とは違い、千鬼は見事な真っ黒な髪をしていた。
体が大きいと言っても、実際は四つも下。
僕たちより、ずいぶんと小さかった。
来年、再来年あたりにでも袴着をすれば、ちょうどいいと思う。
それは僕だけの意見じゃない。誰もがコソコソと囁きあっているのを聞いたから。
けれど、祝い事では偶数は使わない。
だから来年六歳になる千鬼は、祝いには参加出来ない。
次の年の七歳になれば、ちょうどいい背丈になると思うけれど、父は早めに千鬼を呼んだ。
それが意味すること。
誰もがコソコソ囁く理由。
──当主は千鬼を、跡取りとして養子に迎えるつもりだ。
早めに本家に馴れさせ、いずれ手の内に収めようとでも思っているのだろう。
「……」
正直、跡目など興味はない。
欲しいものに、くれてやればいいと思う。
けれど、聡明だと評判の千鬼には、継ぐ家がある。
《千鬼》と名を貰ったからには、鬼を視るあの家の当主になるのだと、絢子が言っていた。
千鬼も、それを望んでいるのだと……。
袴着の儀式の前に、千鬼が話しかけて来た。
目上の者や、自分よりも身分の高いものには、本来声を掛けないものだけれど、千鬼は知らなかったのかも知れない。
あの、くりくりと大きな黒い目をした千鬼は、可愛らしく微笑んで僕を見てくれた。
僕の灰青色の髪や目にも怯えなかった。
──綺麗な瞳ですね……。
そう言って微笑んでくれた。
そんな事なんて、一度も言われたことがない僕は驚いてしまって、その場から黙って逃げてしまった。
(そのまま話せばよかった……)
その事が、今でも心に引っかかる。
(あの子が父上のお気に入り……)
この屋敷に来るというのなら、僕は喜んで受け入れる。
けれど千鬼は、それを望むだろうか?
大好きな父と母と離れて、ここへ来てくれるだろうか?
千鬼の名を貰い、喜んだあの子は、自分の家が継げなくなったと知った時、いったいどんな顔をするのだろうか……?
確かにこちらは本家だ。
千鬼の家から比べれば、遥かに上の格式を持っている。
けれど子どもに、そんな事は関係ない。
住み慣れた我が家が、いいのに決まっている。
「はぁ」
僕は溜め息をつく。
たとえ千鬼が嫌だと泣いたとしても、本家の命令は絶対だろう。
親から離れ、幼い千鬼はここに来る羽目になる。
「……っ」
僕は何もしてやれない。
何も出来ない。
父上とそれほど親しいわけではない。
諌言など、もってのほかだ。
千鬼の一族はどう思っているのだろう?
千鬼の父母は、僕の母と仲がいい。父上がどうしてもと望むなら、折れるだろうか?
母上はどうするのだろうか……?
そんな事を、僕は朝からずっと考えていた。
たった一言掛けてもらった言葉のおかげで、僕は千鬼から目が離せない。
出来れば……出来ることなら、たとえ跡目を奪われようとも、この家に来て欲しいと、僕は思った。
だから気づいた。
袴着の時から……いや、その前から……? 千鬼はキョロキョロと辺りを見回していた事に。
(……? 何かを探している……?)
さすがは父上のお気に入り……と言ったところで、千鬼の不審な挙動に気づいたのは、僕だけだ。
子どもなら頭を動かして辺りを見回すところを、千鬼は目線だけで素早く状況を見て取った。
小さい体全体で、状況確認をしているようだった。
(たったの五歳で、あれだけの事が出来るのか……)
ますます興味がわいた。
そんな千鬼が、袴着の後動いた!
俊敏なその動きに、僕は目を疑う。
(素早い……っ)
あっという間に庭へ降り立つと、裸足のまま駆けていく。
「こらっ! 千鬼!!」
父親だろうか? 叱責が飛んだ。
気づいて僕は、欄干に手をかけ、ひとっ飛びで庭に飛び降りる。
「わ、若君……っ」
侍従の焦った声が聞こえたが、かまうものかっ!
僕も裸足のまま、千鬼の後を追った。
背後で、わっと声が上がる。
面白がった子どもたちが、我先にと追いかけてくる気配がした。
けれど、追いつくことは出来ないだろう。
千鬼はすこぶる足が速かった。
「くそ……っ」
思わず唸った。
長いこと屋敷に閉じ込められてはいたが、野山のような構造になっているこの庭を嫌というほど駆け回っていたのだ。足には自信があった。
けれど千鬼の速さは、それに近い。
いや……近いと言うよりほぼ同等。
(あれで四つ下、……とか……っ!)
僕は歯を食いしばる。
どう考えても身体能力的におかしい。
何かの術を掛けているとしか、思えなかった。
必死に追いついてみれば、千鬼は庭に生えている一番大きな榎に手をかけ、登ろうとしていた。
「かは……っ。はぁ、はぁ……う、うそ、だろ……っ」
(どんな体力、してるんだ……!)
荒い息を繰り返しながら、僕は千鬼を見る。
木に登り慣れているのだろうか? 千鬼はスルスルと木に登って行く。
「も……っ、追いつけな……」
流れ出る額の汗を腕で拭い、僕は千鬼を見上げる。
千鬼はあっという間に、榎の中ほど……ちょうど屋敷のてっぺんくらいの場所に登りつめた。
「ばっ……! あいつ、何やって……」
見れば一本の太い枝にしがみつき、そろりそろりと枝葉の方へ向かって移動している。
細い枝に千鬼の手がかかる……!
──ぐらっ……。
千鬼の体が、酷く揺れる。
「! 千鬼……!」
思わず僕は叫んで、ハッとした。
千鬼の目指す先に、小さな子狸がいたのだ。
(助けるために、来たのか……?)
細い枝に掴まっていたタヌキが、僕の声でビクンっと跳ねた。
「うわっ! バカ! 跳ねるな……っ」
千鬼の焦ったような声が響く。
木の上で叫びながら、必死になって枝を掴んだ。
何故千鬼が、その子狸の事に気づいたのかは分からない。
そもそも袴着が行われた屋敷よりも、ここはずいぶんと離れている。
本来見えるはずのないものを、千鬼は見つけ、ここまで駆けてきたというのだろうか?
何故、そんな事が出来たのだろう?
自慢ではないが、僕にも見鬼の才がある。
それは、千鬼に劣ることはない。
劣るどころか、優れているはずだ。
(千鬼に視えるモノであれば、僕にも視える)
妖怪絡みなら、力は僕が上。
けれどそうではない。
袴着のあった屋敷で、ここでの様子は視ることが出来なかった。
それならば、何故千鬼はこの子狸の存在が分かったのだろう……?
しかし、そんな事を思い悩んでいる暇などなかった。
僕の声に驚いた子狸は、事もあろうか枝でビョーンと跳ね、千鬼の顔にビタンッと張り付いた。
「うわっ! ぶっ……前、前が見え……え? う、うわぁぁあぁぁ……」
「! 千鬼……!!」
千鬼は枝の上で、バランスを崩した……!
落ちるっ!
僕は咄嗟に体を動かした。
受け止められるなんて、そんなおこがましいことは思っていない。
けれど千鬼の落ちようとするその下に、大きな岩があった。
そのまま落ちれば、死は免れない。
僕の目が綺麗だと言ってくれた。
笑いかけてもくれた。
一緒にいたいと思ったのに、無視してしまった。
その上、脅かして木から落ち、挙句の果てに《死》……!?
考えたくもない小さな未来に、僕は震えた。
どうしても、救わなくてはいけない。
「風式っ! 力を……!」
僕は叫んで、地を蹴る。
「!」
フワッと体が軽くなり、千鬼の落ちようとする岩へ登る。
「風式! もう一度……!!」
更に念を込める。
「……ぐぅ」
風式を操る力など、普段そんなに使わない。
使わないから、どっと力を奪われるその感覚に、僕は軽い目眩を感じる。
(けれど、倒れるわけにはいかない……!)
僕はグッと歯を食いしばる。
落ちてくる千鬼と子狸を、《風》で絡み取る……!
風が千鬼を完全に絡めとったのを確認し、僕は辺りを見回す。
近くに池があった。
池と言うよりも湖と言った方が早い。
もう悩んでいる暇は、なかった。
池には薄らと氷が張っていて、いかにも冷たそうだ。
「……っ!」
僕は覚悟を決めると、その池に飛び込んだ。
落ちるその刹那。
風式を操る僕の腕の中に、千鬼が勢いよく飛び込んでくる。
(せん、き……っ!)
必死になって、その小さな体を掻き抱き、衝撃に備えた。
───ガッ。
「!?」
池に落ちる寸前、千鬼の横腹が、岩に触れる!
「うぐっ……」
「千鬼……!」
痛みに呻きながら、千鬼は気を失ったらしい。僕へと伸ばしていた手が、ダラリと垂れさがる。
(……千鬼)
──ざぶーん……!!
(ひ……っ)
水の衝撃に、僕は目をつぶった。
せめて、祝いが夏であったら良かったのに……!
そんな事を思いながら、僕は千鬼と共に、池へ落ちた。