自分であること
穏やかな風が吹いた。
さわさわさわ……と、庭の楓の葉が音を立てる。
楓の木はすでに葉が開き揃い、小さな花を咲かせていた。
淡い新緑のその葉の間から、柔らかな木漏れ日が降り注ぐ。
澄真は柱に寄りかかり、その静かな風に目を閉じた。
寒さの苦手な澄真には、まだ少し寒い陽気ではあるが、幾分あたたかくなり始めたその日差しは、とても穏やかで優しくて、眠ってしまいそうになる。
目を閉じたまま、澄真は呟く。
「あの時……ずいぶん高い所までお前は登っていて、正直焦った……」
「……」
蒼人はもう、何も言えない。
高い所が苦手な自分が、木登りをするなど有り得なかった。
(澄真さまの記憶違いでなければ、……妖怪のしわざ……)
ギリっと唇を噛む。
どうして妖怪どもは、こうまでして澄真との記憶を奪おうとするのか……!
いいように弄ばれ、蒼人の機嫌はすこぶる悪い。
澄真は、そんな蒼人の気持ちも知らず、そっと目を開け、言葉を続ける。
「……お前は、木の中ほどまで登っていて、事もあろうか細い枝葉に向かって進んでいた……」
「……枝葉」
蒼人は、眉をしかめ呟く。
(……絶対に有り得ない)
そう思う。
たとえ、木に登っていたとしても、枝葉に向かえば木はしなり、折れてしまう。そんな事は幼い子どもでも分かる、常識的なことだ。
ましてや高い所が苦手な蒼人である。
木が折れる前に目がくらみ、落ちる確率の方が高い。
「何故、そんな事を……」
思わず呟く。
その問いに、澄真が答えた。
「……私もよくは分からないが、お前の目の前にいた、アレのせいだとは思うんだ……」
言いながら、蒼人を見る。
「アレ……?」
驚くほどの真剣な表情に、蒼人は目を見張った。
「な、アレとは何ですか……?」
固唾を飲み、次の言葉を待つ。
高い所が苦手な自分が、木登りをするくらいだ。
余程の事情があったのに違いない。
その何かが分かりさえすれば、失っている記憶も戻るのではないだろうか……。そんな淡い期待に、蒼人はすがる。
いや、そうであって欲しいと思った。
ことごとく、妖怪に邪魔をされた澄真との幼い記憶。
今度こそ、自分自身のものであって欲しい。
けれど異様な速さで駆けたこと。
それから、登るはずのない木に登ったことが、蒼人の不安を煽る。
蒼人はじっと澄真を見つめ、次の言葉を待った。
澄真の言葉で、自分の記憶が戻ってくれればよし。戻らなければ……。
澄真は蒼人の質問に、ゆっくり頷くと、口を開く。
「そう。いたんだ……」
──タヌキが。
「…………。」
蒼人の目が細くなる。
……記憶は、戻りそうにない。
はぁ、と大きく溜め息をついた。
(何を言うかと思えば……)
「……澄真さま。やっぱり、騙してますね」
がっかりしたように、蒼人は呟く。
(また、タヌキ……か)
今度タヌキに出会ったら、八つ当たりしてしまいそうだ。
蒼人は頭を抱えた。
その言葉に澄真は、キッと蒼人を睨む。
さきほどと同じ、冷気を含んだ冷たい目だ。
「……」
しかしもう、蒼人は怯まない。
逆に目を細め、額に青筋を立て、軽く怒っている。
そして、呆れたように言葉を返した。
「澄真さま……。タヌキは木に登りません!」
キッパリと伝える。
「いいや! お前、知らないんだろう! タヌキも木に登るんだぞ……っ! 私も、あれを見るまでは、登らないものと思っていたが、立派に登っていたからな!」
「……」
ムキになって澄真は、叫ぶ。
「……あなたは、子どもですか」
呆れて、蒼人は呟いた。
ムキになる澄真も、可愛いとも思いながら、……しかし蒼人は深い溜め息をつく。
記憶が戻らないばかりか、またタヌキ絡みなのだ。無理もない。
「澄真さま。騙すなら、そこはタヌキではなく、《子猫》あたりにしておくべきです……」
悔しげに唸る。
とうぶん《タヌキ》と言う言葉は聞きなくない。
「だから、騙していないと言ってるだろ? お前、人の話をしっかり聞いとけ!」
「じゃあ、聞きますけど、何故、そのタヌキは木に登ってたんですか……っ!」
「……っ! そんなこと、私が知るわけないだろう? おおかた、お前が追いかけ回したから、怖くて逃げたんだろう!」
そうだ! そうに違いない! と、澄真は息巻く。
「……」
フルフルと蒼人は震えた。
深い溜め息をつく。
「はぁ……。澄真さま。そもそも、タヌキとは、足が速いのですか……?」
眉を寄せ、澄真を見た。
澄真は、少し考えている様子を見せはしたが、膨れたように口を開く。
「……。どちらかと言うと、……遅そうだな……」
「……」
その言葉に、蒼人は嫌そうな顔をする。
「でしょうね……。それでは、素早く木に登れるのでしょうか……?」
再び考え込む澄真。
「……」
何を考える必要があるのか……。
蒼人は唸る。
キツネならいざ知らず、タヌキは見た目的にも、すばしっこそうな生き物ではない。
さきほど澄真は、蒼人が信じられないほど速く走っていたと言った。
ならば、すばしっこくないタヌキなど、あっという間に捕まえてしまうだろう。
けれど、他の子どもたちを振り切り、十一間ほどもある榎を登っても捕まえていないとなると、そのタヌキは相当速く走って逃げたに違いない。
「……」
蒼人の言わんとする事に気づいたのか、澄真は黙り込む。
「……のは、本当だ」
ポツリと言う。
「え?」
半分怒りながら、蒼人が聞き返す。
その声にムッとしながら、澄真は言葉を返した。
「お前から逃げていたのかは知らないが、目の前にいたのは確かだ!!」
「……」
ハッキリと言い切る澄真に、返す言葉は見つからない。
蒼人自身も嫌なのだ。
何を好き好んで、好きな相手の言葉を疑わなくてはいけないのか……。
何度ついたか分からない溜め息をついて、蒼人は口を開く。
「……分かりました。タヌキについて語っても埒が開きません。話を続けてください……」
蒼人は、サラリと流す。
「おま……っ。……まぁいい」
言って澄真は、先を続ける。
「とにかく、私がそこへ辿り着いた時、お前はそのタヌキを捕まえようとしていて、タヌキの方も明らかに大人しくなっていた」
「……」
澄真が、《タヌキ》を強調する。
その言葉に蒼人の肩が跳ねる。
(この人は、やはり子どもか……っ)
心の中で悪態をつき、目を細める。
「……」
それをチラリと見ながら、澄真はニヤリとする。
「……っ」
それに気づいて、蒼人は唸る。
「いいからっ! 続けてください……っ」
その言葉に、澄真はフワリと優しく微笑んだ。
「蒼人……お前は、本当は、あのタヌキを助けようとしたのかもな……」
「!」
優しく微笑んだ澄真が、幼い頃の小狐と重なり、蒼人は目を見張る。
──あぁ……この灰青色の瞳は、ずっと変わらない。
自分を惹き付けて止まないその視線に、蒼人は目が離せなかった。
(私は……タヌキを助けようとしたのだろうか……? それとも……)
当時のことを記憶している澄真が分からないのだ。事実はおそらく分からないままだろう。
(それが本当に自分だったのなら、思い出したい……)
蒼人は静かにそう思った。