ない記憶
──生死をさ迷った……。
澄真の言葉に、蒼人は軽いショックを受ける。
「いったい、何故そんな事に……」
軽く頭を抱える。
澄真は眉を寄せると、蒼人に言葉をかける。
「……。それは、お前絡みで……」
澄真は言い淀む。
「……」
自分が関わっているのだと言われて、蒼人は泣きそうになる。
(……何も覚えていない)
次期当主を死の淵に追いやって、自分はその事を知らされもせず、あまつさえ覚えていないなど、厚かましいにもほどがある。
たとえそれが、五歳になった子どもの仕業だとしても、許されることではない。
しかも大人たちは、その事を隠そうとしたのである。
何故そのような事をする必要があるのか……。
蒼人の頭の中では、そんな考えがぐるぐると渦巻いていた。
真っ青な顔で黙り込む。
「……」
黙り込んでしまった蒼人を見て、澄真は溜め息をついた。
言ってしまった言葉を、後悔しているようにも見える。
「袴着の時……」
ポツリと呟く澄真に、蒼人は目を向ける。
それを見て、澄真は少し笑って、話を続ける。
「お前くらいだったよ。普通に接してくれたのは。あとはみな、腫れ物に触るような態度だった。今の私から見ても、あの頃の自分は浮いてたと思うから仕方ないが、あの時は誰も近づく者などいなくて、お前だけ……」
澄真はそこまで言うと、フイッと蒼人から顔を背け、池を見る。
「……お前だけ、私を見てくれていて、少し。……少しだけ嬉しかったんだ」
ほとんど消え入りそうな呟きだったが、蒼人の耳には届く。
「!?」
思わず澄真を凝視する。
灰青色の髪から覗く色白の耳が、ほんのり赤い。
(え? ……今……今な、なんて……!?)
澄真の言葉が信じられず、目を見張る。
もっとよく話を聞こうと、蒼人は膝を進めた。
蒼人が近づいて来たのに気づき、澄真は唸る。
「……っ、こっちに来るな」
眉をしかめ蒼人を睨んだ。
「え? し……しかし」
蒼人は言い淀む。
けれど、睨まれては仕方がない。
背筋を伸ばし、話を聞くことにする。
蒼人には澄真が、《嬉しかった》と言ったように聞こえた。
一瞬聞き間違えかとも思ったが、そうではないはずだ。確かに《嬉しかった》と、澄真は言った。
(少なくとも、嫌われてはいない……?)
蒼人はそう思うと不意に笑いだしたくなり、口を手で覆う。
必死に耐えるが、ニヤけそうになるのを抑えられない。
澄真にバレないように、静かに下を向く。
「……っ」
澄真は顔をしかめしつつ、そんな蒼人を一瞥し、再び口を開いた。
「だから、お前が珍しくて……気になったんだ。……あの袴着の後、子どもだけで遊べる場があって、……」
言いながら、少し顔が曇る。
「私は……お前を探して追いかけた……」
「……。澄真さま……?」
陰りを見せた澄真の表情に、蒼人は眉を寄せた。
(なにか気になる事があったのだろうか……)
思い返してみても、その時の記憶が蒼人にはない。
確かに、澄真の灰青色の髪や目は、普通の者にとっては異様に映る。
けれどこと蒼人に至っては、それは異様ではない。むしろ、惹かれる対象である。
避けると言うのであれば、それは恥ずかしがってのことだ。
本来、触れたくて堪らない。
澄真の言った言葉を反芻しながら、蒼人の顔は再びニヤける。
(気になる? ……追いかけた……!)
澄真にバレないように、蒼人は目を細める。
まさかの言葉に、蒼人は自分の耳を疑った。
(澄真さまが、私を追いかけるなど……!)
嬉しくて、どうしようもない。
小躍りしたくなるのを、必死に堪えた。
今の蒼人と、完全に立場が逆転している。
(私を、追いかけた、とかっ……)
何故覚えていないんだ……。と、蒼人は自分のバカさ加減に呆れて、ものも言えない。
悔しがる蒼人を見ながら、澄真は続ける。
「あの時お前は、何を思ったのか、物凄い勢いで屋敷から飛び出したんだ。何人かの子どもで、お前を追いかけたが、追いつかなくて……」
眉を寄せ、澄真が嫌そうな顔をする。
(……物凄い勢いで、飛び出し……た?)
蒼人は訝しむ。
いくら子どもだったからと言って、当時の蒼人が、そんな事をするだろうか……?
蒼人は考え込む。
当時蒼人は、本家に来て何もかもが夢のように洗練されたその佇まいに、圧倒されていた。
けして粗相などしないように、よくよく気をつけていたのだ。
あの時のことを思い出すと、未だに背筋が伸びる。
それなのに《飛び出した》。……蒼人にはそれが納得いかない。
「……」
少しずつ、雲行きがおかしくなってきたのを感じ、蒼人は渋い顔をする。
(もしや、また妖怪の……)
そんな気さえしてくる。
澄真は話を続ける。
唇に指をあて、考え込むような仕草をした。
おそらく、澄真も、当時の蒼人の行動に不審感を抱いていたのだろう。
渋い顔をしている。
「……なにかの、……術? を使ってたようで誰も追いつけず、私が追いかけたんだ。……大人達には、鬼ごっこでもしているように、見えたかも知れんがな」
幼い頃から妖怪の相手をして遊んでいた、澄真の運動能力は高い。
しかしそれをもってしても、四つ下の蒼人に追いつくことが出来なかった。
追いかけるのですら骨が折れたのだ。あれほど速く駆ける事など、普通の子どもに出来るわけはない。
何かの術を掛けていたとしか思えなかった。
「……術……?」
呟きながら嫌な予感が、蒼人を包み込む。
(五歳の私に、そんなこと、出来ただろうか……?)
蒼人は疑問に思うが、澄真は頷く。
「……」
「追いついてみれば、お前はこの屋敷で一番高い榎に登っていて……」
(榎……!?)
蒼人は目を見張る。
榎は大きいものだと十一間(約二十メートル)以上はある木だ。
本家にある木が、どれ程の大きさなのかは覚えてはいないが、あの屋敷の規模だ。育ちやすい榎が低いわけがない。
登ったとなると、それなりの高さにいたと思われた。
蒼人は唸る。
流石にそれはないのではと感じた。
蒼人は、高いところが苦手である。
「澄真さま。私はそのような記憶にございません。……まさか、また妖怪、では……?」
「……」
その言葉に澄真は、不意に悲しげな顔を見せた。
「お前では、なかった……と?」
「……っ」
悲しげなその顔に、蒼人は怯む。
(それが自分でなければ、澄真さまを惹きつけたのも、自分ではなくなる……)
さきほど喜んでいたことは、全て妖怪の……。
そう思いながら、蒼人は頭を振る。
(そうは思いたくない。……思いたくない、が……)
緊張し、厳かな気持ちで赴いた本家で、そのような醜態を晒していたとなると話は別だ。
いや、それよりも……。
「……」
ひとつの考えが浮かび、蒼人は目を細くする。
(いや……これは、しかし……)
けれど蒼人は意を決して、ゆっくり澄真を見る。
「もしかして……澄真さま……? 実は私を騙そ……」
騙そうとしているのでしょう……、と言おうとして慌てて口を閉じた。
「……」
澄真が物凄い冷気を放って、睨んでいたのだ。
「……いいえ。なんでもありません。続けてください……っ」
冷や汗をかきながら、蒼人は呻く。
ふんっと鼻で一笑に付し、澄真は呟く。
「……分かればいい」
「……」
静かに語り始める。
サラサラと風が吹いた。
池の水面を揺らし、散った木の葉が小舟のようにクルクルと回った。