あやふやなモノ。
「それはそれとして、お前、本当に何も気づいてないのか……?」
信じられない……といった表情で、澄真は呻く。
「な、何がですか……?」
その言葉に澄真は頭を抱えた。
「おま……。いや、まぁいい。お前が私を超えるのは、当分無理だということがこれで証明された」
言いながら、澄真はニヤニヤと嬉しそうだ。
「なっ! どう言う意味ですかっ、それは!」
思わず蒼人が叫ぶ。
むきになる蒼人を見て、澄真は優しく微笑むと口を開く。
「当分お前は、私の《弟》と言うことだよ。……あの池を見てみろ」
「?」
訝しむように、蒼人は池を見る。
「……」
何の変哲もない、ただの池だ。
鯉好きの曽祖父お手製の、凝った池。湧き水を利用していると蒼人は以前聞いたことがある。
(あれは誰が言っていたのだったか……)
手を口許にあて、蒼人は考えるが、答えは分からない。
蒼人は考えあぐねて眉を寄せ、再び澄真を見た。
「……っ」
嬉しそうな顔の澄真と目が合って、蒼人は激しく動揺する。
澄真は面白がって、考え込む蒼人をずっと観察していたらしい。
ニヤニヤと笑いながら、蒼人を見ていた。
慌てて目を逸らす。
(し、心臓に悪い……)
激しく波打つ胸を抑える。
「さては分からなかったな……。興味がないと周りを見ないのは、お前の悪いところだ」
澄真はくくくと喉を鳴らす。
そんな態度に、蒼人はむっとして澄真を睨む。
「私の事をさも知っているように言うのは、止めて下さい! そもそもあなたと私は、あまり接点などなかったではないですか。何故そんな事が分かるんですか!」
澄真は、子どもの頃のことなどすっかり忘れているうえに、上司になったのは、つい最近のことだ。
前任の指導員が昇級し、代わりに澄真が来たのである。
そんな澄真に、蒼人の事など、分かるハズはない。
昔の嫌な記憶が蘇り、蒼人はむっとする。
そもそも澄真が上司となり、蒼人が張り切らない訳はないのだ。
良いところを出来るだけ見せようと、行動の一つ一つに気を配っていた。
《周りを見ていない》などと、言われる筋合いはない。
(幼い頃の事は、すっかり忘れているくせに……っ)
蒼人は心の中で悪態をつき、ギリと歯ぎしりする。
しかし澄真は、相変わらず可笑しそうに笑い、意外なことを口走った。
「分かるさ。お前の子どもの頃の様子を見ればな」
「……え?」
(子どもの頃に、会った……?)
思わぬ澄真の言葉に、蒼人は目を見張る。
そんなはずはない。
澄真は、子どもの頃の事を覚えていなかった。本人が言ったので、それは事実だ。
(それなのに会った? どこで……?)
訝しむ蒼人に、澄真は呆れて言葉を繋ぐ。
「本当に覚えていないのだな……。会っただろ? うちの屋敷で。お前が五歳、私が九つの時だよ」
蒼人は考える。
(私が五歳。澄真さまが九つ。……本家、で……)
そこまで反芻して、ある事に思いついた。
「あ……!」
(袴着!)
目を見張る。
(そうか、袴着か……!)
人より大きかった蒼人は、袴着を早めに受けた。
体の大きい蒼人が、袴なしでウロウロするのは、見た目にどうなのだ……と、本家が呼び出したのだった。
その時蒼人の年齢は五歳であったが、本来は九歳で祝うものである。
本家で行われる成長の儀は、男女別で行われるが、澄真は本来男である。
女の子だとばかり思っていた蒼人は、すっかり失念していたが、その当時四歳年上の澄真は九つ。
共に儀式を受けたはずなのだ。
「……」
蒼人は黙り込む。
確かに袴着を受けに本家へ行った。
本家の様子なども、うろ覚えではあるが覚えている。
けれど、儀式を受けた場面がすっかり抜け落ちている。
「……?」
眉を寄せ、しばし考える。
(袴着……どうやって受けた? 帰りはどう帰った……?)
記憶がない。
(……子どもの記憶など、曖昧なものだ。しかし……)
こうもきれいさっぱり袴着の儀式と、帰った時のことを覚えていない……ということは、有り得るのだろうか……?
蒼人は首を捻る。
「ぶふふ……っ。ほらな、覚えてなかったろ……? お前はそれだけ、私に興味を持ってなかったんだよ」
蒼人の様子が可笑しくて堪らないと言ったように、澄真は腹をおさえ笑った。
その言葉に、蒼人はむっとする。
(《興味がない》……?)
そんなはずはない。
興味がないどころか、その興味を捨てきれずに想い悩んでいるのだ。
(何故覚えていないのか、こっちが聞きたい……っ)
ギリっと歯ぎしりをする。
「……覚えていないのは、あなたの方でしょう……? この屋敷で過ごした事など、ほとんど覚えていなかったではないですか……っ」
ほとんど吐き捨てるように、言葉を紡ぐ。
その言葉に、澄真は笑うのを止め、少し睨むように目を細めた。
「……ぐっ」
その冷たい視線に、蒼人が怯む。
「……全く覚えていないわけじゃない」
澄真は低く呟いた。
「ここに初めて来た日の事は、覚えている」
目を伏せ呟く。
(……初めて会った日。父上に紹介された、あの日……?)
あの日蒼人は、澄真……小狐と、この池の前で再び会った。そして逃げ出したことを思い出す。
「お前は、私から逃げたじゃないか……」
ボソリと呟く。
「……」
その通りだった。
(なぜ、そこは知ってるんだ……)
まさか部分的に覚えているとは、思ってもみなかった。
驚いて言葉が出ない。
確かに逃げたのは事実だ。
けれどそれには、訳がある。
訳はあるが、言う訳にはいかない。
「……っ」
蒼人はグッと言葉を飲んだ。
「私はこのナリだ。だから、目立つはずなんだよ。だけどお前は、本家で会った私のことを覚えてはいなかった。……覚えていなかったから、あの時逃げたんだろ? 見た目に妖とでも思ったか……?」
問い詰めるように蒼人を見る。
「……っ」
蒼人は唇を噛む。
澄真を妖だと思ったことは、一度もない。
けれど、逃げた理由を伝えることは、自分の秘めた想いを伝えることになる。
蒼人は、どうしたらいいか分からなくなり、顔をしかめた。
黙り込んだ蒼人を見て、澄真はそれを肯定ととった。
はぁと軽く溜め息をつき、自嘲気味に笑う。
諦めにも似たその笑顔を見て、蒼人の血の気が引いていく。
「い、いいえ! 澄真さま……っ、それは……それは違います……!」
慌てて澄真の言葉を否定したが、答えるのが少し遅かったようだ。
澄真は軽く頭を振る。
「……いいや。違わない。私はよく、あの様な目を向けられるからな」
言いながら、悲しげな目を蒼人に向けた。
(う……っ)
その表情に、蒼人の心が抉られた。
(違う。違うんだ……っ!)
結果的に、澄真の存在を否定してしまった自分に、戸惑いを隠せない。
抱き寄せたい衝動に駆られたが、そんな事をすれば全てが終わる。
「……っ」
グッと耐えながら、どうすればいいか必死で考えた。
(そ、そうだ。袴着。……袴着で会ったとすれば、男の姿であったはず……!)
本家のしきたりで、儀式は男女別で行われる。
これは徹底したもので、行われる建物も離れている上に、時間すら微妙にズレていて、男女がかち合うことはまずない。
なんのことはない。神官の都合だ。
神官の移動時間を考えれば、ごく当然のことである。
その神官の移動時間のおかげで、男女は絶対に合わないのだから、《出逢った》と言う澄真の言葉が正しいのであれば、澄真は《男》として参加しているはずだ。
(……まぁ、それは当然だろう)
本家の嫡男……しかも次期当主が、女として参加する訳はない。
しかし、蒼人の屋敷で出逢った澄真は、紛れもなく女の子だった。
(その違いを突き付ければ……!)
逃げ道を見つけ、蒼人は顔を上げ、口を開いた。
「そ、そもそも、あの時は女性の姿だったではありませんか……っ! こ、子どもと言えども、女の子と話すのは……、そ、その……」
蒼人は途中で、言い淀む。
この流れでいけば、暗に告白しているのと同じではないか……? そう気づき、ハッとする。
(私は、何を言っているのだ……っ!)
真っ赤になって、下を向く。
しかし蒼人の言葉に、澄真は軽く目を見張り納得する。
「あ、……あぁ、そうであったな。……だが、あれは絢子の案だぞ? 聞いていなかったのか?」
《絢子》の名が出て、蒼人は目を細める。
師としては優れているかもきれないが、人としてはかなり常識はずれだ。蒼人は嫌な予感がする。
「……。まさかの叔母上の仕業ですか……知りませんよ、そんな事」
蒼人は呆れ返る。
その言葉に、今度は澄真が言い淀む。
「……絢子のやつ、言ってなかったのか……っ」
言いながら、今度は澄真が歯ぎしりする。
なかばヤケになって、澄真は溜め息をついた。
「あの袴着の後、私は倒れたんだよ……」
「え……?」
澄真の思わぬその言葉に、蒼人は目を見張る。
(倒れ……た……?)
「……。お前……本当に覚えていないんだな」
ボソリと呟き、話を続ける。
「あの時は、本当に危なくて生死をさ迷った……」
「!?」
(生死をさまよった……!?)
そのような事は、一度も聞いたことがなかった。
本家の情報としても入らなかったし、父からも叔母である絢子からも聞いてはいない。
(次期当主だぞ……っ)
跡目争いで不仲になる家はあるが、本家の子どもは澄真一人。
何としてでも救おうとするのが普通である。
けれど当時、その情報が入らなかったとなると、本家での澄真の扱いもその程度となる。
澄真の言葉に蒼人は、目の前が暗くなるような不安を感じた。
(いったい、どんな生活をしていたんだ……)
唸りながら蒼人は、澄真を仰ぎ見た。