序
春の夕暮れ時。
飴色に溶けた夕焼けが、優しく柔らかい光を降り注ぎながら、静かに沈んでいく。
甘く美味しそうに熟れた柑子のような、その光に照らされると、ホッと優しい気持ちになれる。
夏に差し掛かった昼間のその日差しは、何もかもをさらけ出してしまうような、そんな力強さがあったが、夕暮れは、ほんのり柔らかで、全ての憂いを優しく包み込む。
ケロケロケロ……と、田畑で蛙が鳴きはじめた。
もうすぐ日が暮れる。
淡く優しく辺りを包むその光に、鉄鼠は目を細めた。
無理を言って、朝から一日忙しく働いてもらった配下の鼠達も、今はぐっすり眠っている頃だろうか? そんな事を考えながら、少しずつ瞬き出した星々を眺めた。
『今日もまた、一日が無事に終わったのぉ……』
ポツリと呟く。
『……』
けれど、その言葉に答えるはずの二人は、しゅんと下を向いて、元気がない。
『おいおい、どうしたと言うのだ? 『月の手毬』のありかが分かったぞ? 後は、取り返す算段でもしようぞ……?』
『……』
『……』
鉄鼠は明るく振舞おうとするが、相変わらず二人は暗い。
『……』
つられて鉄鼠も黙り込む。小さく溜め息をついた。
《無理もない……》
鉄鼠は、思う。
それと言うのも、例の白狐がその後、どうなったのか調べる術がないのである。
鉄鼠も後から、その白狐の話を二人から聞いて、経緯を知った。
『……』
けれど、経緯を知ったところで、どうするというのだ。
相手は、信じられない程に妖力を溜め込んだ白狐なのだ。
自分より強い者を助けるなど、おこがましい限りだ。
かたやその相手は、陰陽師ときている。
到底、太刀打ちできる相手ではない。
普通の妖怪と、普通の陰陽師ならば、話は違うかもしれないが、現場を目の当たりにした鉄鼠には、如何ともし難い。
相手は普通の妖怪でもなければ、陰陽師でもなかった。
『……』
鉄鼠は黙り込む。
確かに三人は、古参の妖怪だ。
長い年月を生きてきた。
けれどそれは、要領が良かっただけだ。
力が強いという訳ではない。
単に運が良かっただけの話である。
『はぁ……』
鉄鼠は溜め息をつく。
実際のところ、白狐のその後をひどく気にする玉兎の為に、三人はあの現場に戻ってみた。
午前中の出来事であったが、正直三人は戻るのが恐ろしく、直ぐに確認に行くことが出来なかった。
白狐の吐き出した瘴気と、陰陽師が放った鬼神の気配で、近づくだけで気持ちが悪くなった。
どうしても行かなければと、頑張ってみたが、生まれ持った防衛本能には抗えない。
ようやく覗き見る程度に、近づけるようになったのは、つい先程の事だ。
『うぷっ……』
鉄鼠は、思わず嘔吐く。
その時のことを思い出しただけで、吐き気がした。
現場は、綺麗に片付けられていた。
『……っ!』
けれど、妖怪である三人には見えた。
白狐が吐き出した大量の瘴気。
飛び散った血液の跡。
陰陽師が出した鬼神の気配。
鬼神が焼き切った、木々の残骸。
そこここから、おびただしく立ち上る霧瘴に、三人はあてられる。
『オェェ……ッ』
我慢できずに、胃袋の中身を全部吐き出した。
全部吐き出したのにもかかわらず、拒絶反応で、胃液どころか胃がひっくり返りそうな程、三人は吐きまくった。
事が起こって、半日近くは経つというのに、この有様。
当分、この界隈に妖怪は近づくことも出来ないに違いない。
三人は真っ青になりながら、その場を離れた。
吐きすぎて、喉の奥がヒリヒリと痛かった。
しばらくの間、三人は何も出来ずに、その場にうずくまっていたが、一番最初に言葉を発したのは、鉄鼠だった。
狐丸や陰陽師に、あまり関わっていない分、ショックも小さくて済んだのだろう。
月の手毬の在り処が分かったことを、二人に報告したのであった。
鉄鼠は、どう月の手毬を奪還するか、訊ねる。
けれど、玉兎と姮娥は、それどころではなかった。
曲がりなりにも、会話を交わした白狐。
白狐から逃げる時に、助けてくれた陰陽師。
二人の気持ちは複雑だった。
そして、それらを拗らせたのは、紛れもなく自分たちなのである。
『……』
鉄鼠の問いかけに、答えることも出来ず、更に時間は過ぎていく。
ようやく気持ちが持ち直し、玉兎が口を開く頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
『き……狐丸さまは、生きておられるのでしょうか……?』
玉兎は、涙目になりながら、二人に訊ねた。
頭の中は、その事でいっぱいである。
所在の見つかった、月の手毬の事を考える余裕は、少しもなかった。
『……』
『……』
けれど、狐丸の安否について、二人は答えることが出来ない。
あの惨状を目の当たりにして、簡単に無事だろうとは言えなかった。
二人は顔を見合わせる。
『……生きておられることを、信じるしかありませんわ……』
姮娥が、ポツリと呟いた。
その呟きに、玉兎は哀れなほど顔を歪ませ、今にも泣きそうになる。
長い耳を伏せながら、顔を手のひらで覆った。
『わ、私が狐丸さまに怯えさえしなければ、こんな事にはならなかったのに……』
ふるふると、長い耳が揺れる。
『な、何を言いますの? ウサギが狐を怖がらなくて、どうやって生きていくと言うのですか!』
姮娥が強い口調で、玉兎を叱責する。
その言葉に、鉄鼠も同意見だと言わんばかりに、大きく頷いた。
『そうだぞ! 我も白狐を見たが、あの鬼火の凄まじさと言ったら……! 我でも追いかけられれば必死に逃げると言うもの……!』
ブルルッと巨体を震わせる。
『正直、私も恐ろしゅうございましたもの……』
落ち込みながら、姮娥は続ける。
『けれど、玉兎を助けようとしてくれていたのも、また事実。恐ろしくはありますが、出来ることなら、またお会いしとうございます』
ゆっくりと、空を見上げる。
『……』
空には、銀色の星たちがチラチラと瞬き出す。
金平糖を撒き散らしたかのような星々を見ながら、三人は想う。
狐丸もこの星を無事に見ているだろうか? それとも、あの星の瞬きの一つになってしまっているのだろうか……。
そんな事を考えながら、三人は空を仰ぐ。
玉兎は空に向かって、手を合わせた。
心の底から祈りを捧げる。
『どうか、どうか空の神様。私の願いを聞いてください……』
ふるふると震えながら、切実に願う。
『私が悪かったのです。この命で賄えるのなら、捧げましょう……』
『玉兎……!』
姮娥の、非難めいた叫びが上がる。
玉兎は静かに、首を振る。
『後悔は致しません。狐丸さまが無事ならば、この命……惜しくはありません! ですから、なにとぞ……なにとぞ願いを叶えて下さいませ……っ』
ポロポロと涙を流した。
『……玉兎』
そんな玉兎を、姮娥と鉄鼠が優しく見つめる。
そっと二人も手を合わせる。
妖怪は、本来なら他を思いやることなどしない。
けれど玉兎は狐丸を想い、姮娥と鉄鼠は玉兎を想う。
──どうか……どうか彼の人が、無事でありますように……。
と。