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「大使殿」


 この数日ですっかり聴き慣れた声に呼ばれて、キースは振り返った。


 こちらに近寄ってくる声の主の細い二本足は地面についていない。

 人間にはない半透明の羽虫のような翅が四枚、銀粉を振り撒きながら羽ばたいて、身長百センチほどの細身の体を浮かせている。波打つ銀の髪が縁取る顔は丸く、白目の少ない丸い大きな黒目はまるで幼い子供のようだが、小さな唇から紡がれる声は成熟した大人の女性のものだ。


「本日もお散歩に出掛けられるのですか? 魔王城の庭はお気に召していただけましたでしょうか」


 落ち着いた声音には、自らの王の居城を気に入ってもらえたなら嬉しいという歓迎の気持ちだけがある。

 キースも微笑み、言葉を返した。


「ええ。このような自然の中に身を置くことはあまりありませんでしたから。散歩に出るだけでもとても心地が良くて気に入っております」


「それは良うございました。先日は二日続けて川に落ちられたと聞きましたから心配しておりましたが、大使殿にも意外と御転婆なところがお有りなのでしょうか」


 揶揄うように言われて「面目次第もございません」と笑って返す。御転婆とは男性には使わない言葉なのだとは訂正しなかった。


 魔王の直接の秘書であるというこの女性は妖精族のサラ。キースが魔王城に滞在する間の世話係に魔王がつけてくれた人だった。

 この日のために人間の言葉を学んでくれたらしい彼女は時々言葉を間違えるが、訂正するのは申し訳なく思えてそのままになっている。


「国では川遊びをしたことがなかったもので、つい身を乗り出しすぎてしまいました。魔王様の城を汚してしまい、申し訳なく思っております」


「そのことでしたらお気になさらないでくださいな。ここでは魔法ですぐに綺麗にしてしまえますから」


 サラが指を鳴らすと、その指先から光の筋が伸びて廊下の隅へと走った。開けた窓から入り込んだらしい枯れた葉や花弁を光が押し上げて、まるで掃き掃除をした後のようにあっという間に綺麗になる。


 サラが再び指を鳴らした瞬間、空中から巻かれた大判の布が現れた。


「お座りになって休憩なさるならこちらをお使いください。お飲み物や軽食も言ってくだされば用意できますから、お気軽にお申し付けください」


 差し出された布を、キースの後ろから進み出てきたライルが両手で受け取った。キースと同じくいつも顔に笑みを貼り付けているこの男は、如才なくサラに礼を伝えて、また一歩後ろに戻る。

 常に仏頂面のゴードンは無言で頭を下げただけだった。



 サラが飛び去り、一行は玄関へ向けて再び歩き始めたが、ゴードンは低い声でキースに話しかけた。


「本当によろしいのですか。あの娘の件を報告なさらなくても」


「良い。魔王様のお耳に入れて、彼女が叱られてしまっては可哀想だ」


「しかし人間を水に沈めるなど、あまりにも危険な振る舞いではございませんか。せめてサラ殿のお耳にはいれておいたほうが良いのではありませんか」


 二人のやりとりを聞いていたライルが苦笑混じりに言った。


「ゴードン殿の仰る通りですよ。それにあの子の場合は少しくらい叱られた方が良いようにも思えますがね」


 彼女こそまさに御転婆娘というにふさわしい、と揶揄うライルに、キースは大袈裟なほどうんざりとしたため息を吐いた。ここ数日、この小煩い二人とは何度もこのやりとりを繰り返しているのだ。


「だから駄目だと、何度も同じことを言わせるな。彼女に悪気があったわけでもない、すでに謝罪は済んでいるというのに、今更報告して何になる。もしも叱られて彼女があの池に顔を見せてくれなくなったら、どうするつもりだ」


「そうなれば私としては好都合というものでしかないのですが」


 あっけらかんと言われてキースはライルを鋭く睨むが、長い付き合いのせいで一切効きやしない。


「分かった。それなら言い方を変えよう。これは『命令』だ。彼女のことは、魔族の方々には決して告げ口をするな」


 指を突きつけてはっきりとそう言えば、二人は目を見合わせて揃ってため息を吐く。なんともわざとらしい態度だが、二人は諦めたように声をそろえた。


「仰せの通りに。殿下」


 グランドーラ国第三王子キースはその返答に満足げに笑った。


「ははっ。こうなってみると、王子になったのも悪いことばかりではないな。十年前ならばお前達は僕の言うことなど、こうも素直に聞いてはくれなかっただろう」


「お戯れはよしてください。あの頃も我々は貴方様をお諌めしていたに過ぎません」


 ゴードンの改まった苦情も無視して、鼻歌でも歌いだしそうなほど楽しげにキースは玄関へと歩を進める。そんな主に、ライルが問いかけた。


「殿下。あの人魚の少女とお会いになることに関しては私に異存ありませんが、ひとつだけ、お聞きしても宜しいですか」


「なんだ?」


「まさか貴方様は──あの人魚に水の中へ引き摺り込まれて死ねたらいいなぁ、などとはお考えではありませんね?」


 足を止めて振り返ったキースは目を丸くして言った。


「それは、考えていなかったな」


 再び足取り軽く慣れた様子で馬車へと向かうその後ろ姿を、ライルとゴードンは痛ましげに見つめ、息を吐く。


 自らの主は嘘をつくのが巧くなりすぎていて、最早長く仕えている自分達ですら今の台詞が本音かどうかは分からなかったのだ。




 舗装された道を走る馬車にしか乗ったことがなかったからか、魔王城にきて初めて悪路を走る馬車というものを経験した。ほんの小さな小石を踏んだだけでも馬車は大きく揺れてしまって、内臓が体の中で踊る。

 それでも高い木々が自然のアーチとなっている土の道を走り続け、木漏れ日を反射してキラキラと輝く水面が見えてくれば否が応でも胸が高鳴った。


 さして広くもない池の周りには芝生とは違う湿気た苔が所々に生え、なんともいえない涼しげな自然の香りが漂っている。不快な香りではない。深い緑と相まって、大きく吸い込めばとても心地の良い香りが鼻を抜けた。


 池へと一歩踏み出すと水面がほんの少し揺れる。水中に金色の波が見えたと思えば、それはぐぐっと盛り上がった。


 水を割って出てきたのは少女だ。

 金の髪が抜けるように白い肌に貼り付き、同じ色の長い睫毛から雫が滴り落ちて、滑らかな頬を伝って池へと戻っていく。ゆっくりと開かれた丸い大きな桜色の瞳がこちらを映して輝きを増し、整った唇から飛び出した声には嬉しいという感情だけが込められていた。


「タイシ!」


「こんにちは、人魚姫。今日もご機嫌だね」


 こちらの話す声にも込められているのは喜びだけだ。

 この素直で裏表のない人魚の少女と過ごすことが、現在キースが最も心穏やかに過ごせる時間なのだった。

ありがとうございました。

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