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人魚達の住む町は深い海の底にある。
海上から注ぐ光のヴェールで辺り一体は青く輝き、自らの体を発光させるクラゲがふよふよと浮いている。色とりどりの珊瑚や海藻、それらを突く可愛らしい小魚達が、この青の世界に彩りを添えていた。
フェリシアの家は大きな珊瑚にたくさんの穴を開けてくり抜いたものだ。いつも通り抜けている大きく開けられた穴から中へ入ると母親の声がした。
いつもはやかましいくらいの娘の静かな帰宅に対する疑問の声だ。適当に返し、フェリシアは自分の部屋に篭った。
白い壁に囲まれた小さな部屋には灯り代わりのクラゲと流木で作られた簡素な棚が置いてある。その棚にはいくつものフェリシアの宝物が飾られていた。
海上を進む船から落ちてきた赤い透明な石のついた輪っかに、友達がくれたフェリシアの瞳の色と同じ桜色の貝。金色に輝く丸く平たい石のようなものは地上では物と交換するために使うものらしいと教わった。魔王城に遊びに行った時に魔王が手ずから髪につけてくれた飾りもここに大切に飾ってある。
その飾りには淡い色の青い石が留められている。
それを手に取って仰向けば、天井に空いた穴から水面の煌めきが降り注いで目が眩しくなった。
ふぅと息を吹くと、口から小さな泡が飛び出した。しかしそれだけだ。視界を覆うほどの泡なんて出ない。
目を閉じれば、怒る男に声を荒げていたタイシの姿が浮かんだ。
魔王様は死んでしまうと言っていたけど、あの様子なら多分タイシは大丈夫だろう。死んでしまう前に地上に戻したから、大丈夫だ。
──けど、きっとわたしのことをとても怒ってる。
タイシが無事でよかったと思う反面、もうこれで彼と楽しくおしゃべりする事は出来なくなってしまったのだと思うと、どうしようもなく悲しかった。
翌日、水面から数メートル下の海中で、フェリシアは水面を睨みながらクラゲのようにふよふよと浮いていた。
あそこから顔を出せば、魔王城の敷地内にある池に出ることができる。
このところ毎日ここを通ってタイシに会いに行っていたが、今日はどうしても躊躇してしまっていた。
理由は分かっている。
タイシは絶対に怒っているだろうから。
今日こそはあの友達の太い剣で体を貫かれてしまうかもしれない。
だから今日はここにすら来るつもりはなかったのに。
どうしてもひとつだけ気掛かりがあって、気が付いた時には、ここでもたもたと浮いていたのだ。
──タイシは、本当に無事かしら。
もしもあの後具合を悪くしていたりしたら。
それならここにも来られないだろうけど、もしここに来てくれていたら、元気な姿を見ることができると思ったのだ。
しかし頭を出す勇気が出ない。
タイシの元気な姿を見たいと思えばお友達の怖い人も来ているのかなと不安になるし、タイシがいなければ体調を悪くしたのかなと心配になる。かと言っているかいないかの確認をせずに帰ったら、きっとずっと後悔する。
堂々巡りだった。
意を決して、しかし往生際の悪い居た堪れなさに水面から顔の半分だけを出した頃には、いつもタイシと会っている時間からはかなり過ぎてしまっていた。
水面から顔を出した時はいつも、静かな海の中から解放されたような、世界が開けたような不思議な感覚がする。
その開いた耳の穴に、大きな声が届いた。
「────!!」
タイシだ。タイシがしっかりと二本の足で立ってこちらへと何かを叫んでいる。
ほっと胸を撫で下ろした。立ち姿はいつものタイシの姿そのままだし、大きな声で話す姿はとても元気そうだ。
ああ、でも。と、フェリシアはほんの少し落胆した。
タイシのすぐそばには、いつも後方でこちらを見守っていた男達がピタリと付き、剣を向けていた一人などはこちらを威嚇するように怖い顔をしている。
タイシの表情を見るに彼自身は怒っている様子ではないものの、これでは近付いて話すこともできない。
それも仕方ないかとフェリシアは納得した。
もしも友達が死ぬような目に合わされたらフェリシアだって怒る。彼らの怒りは当然のものだ。
タイシの元気な様子を確認できたことだし、もうここに来るのはやめにしよう。
そう自分を納得させて、タイシの大きな声を背に、フェリシアは静かに海へと戻った。いつもなら「またね」と声をかけるのに、それをしないのは初めてだった。
ザブンと、何か大きなものが水に落ちる音がした。
不思議に思って振り返り、口から小さな泡と悲鳴が飛び出す。
水の中にいるのは間違いようもなくタイシだった。淡い青色の瞳はフェリシアを真っ直ぐに捉え、手で水を掻き、こちらへと進んでくる。必死な形相にも関わらず、ゆったりと。
大慌てで泳ぎ寄り、大きな体を水上の、池の淵まで押し返した。
「何してるの!? 水に入るなんて!」
タイシは真っ直ぐにフェリシアに視線を当てて、潜水していた。自らの意思で池の中に入り、泳いでいたのは明らかだった。
「人間は水に入ったら死んじゃうんでしょう!? どうしてそんなっ──」
混乱と焦りで怒鳴り続ける声がピタリと止まった。
タイシの体を押し返した手首の片方が強く握られ、捕らえられているのだ。それはまるで逃げないでと懇願されているような強さだが、決して痛く感じるほどではない。それでも、自由にならない片手はじわじわと熱を持っていく。
「────」
こちらにひたと目を当てたタイシが何かを言った。何と言ったのかは相変わらず分からない。しかし、その声には深い安堵が込められているように聞こえた。
「『ごめんね』」
続いて聞こえたのは魔族語だった。真っ直ぐに見つめてくる瞳をおずおずと見つめ返す。
「『ごめん』」
「どうして、あなたが謝るの……? 悪いのはわたし、なのに……」
繰り返される謝罪の言葉に問い返す。しかしタイシの表情でわかった。今の言葉は伝わっていない。
「『ごめんね。驚かせた』」
大慌てで首を振った。
言葉が通じないならこうするしかない。
いや、ひとつだけ。必ず伝わる言葉がある。
「──ごめんなさい」
タイシが言ってくれたものと同じ言葉を返した。きっとタイシは意味がわかってこの言葉を口にしているのだから、これなら気持ちを伝えることができる。
「ごめんなさい。あなたは人間なのに。魔王様にも言われていたのに。わたし、本当にバカだわ。わたしのせいで、あなたを死なせるところだった」
タイシもまた、首を振った。
フェリシアの言葉がタイシに届いたのはこれが初めてだ。そっと自由な右手でタイシの口元に触れた。
「苦しかったのよね? 今はもう大丈夫? 息は、できているの……?」
右手に大きな手が重なって、口元から目線を上げれば、いつもの優しい笑顔がある。
「『大丈夫。元気だよ』」
「……本当に、元気なのね?」
またタイシは頷いて、『大丈夫だ』と繰り返した。安堵で、強張っていたフェリシアの表情がようやく緩む。それを確認したタイシの視線が、なぜかフェリシアの目から下へと降り、大きく見開かれた。不思議に思ってフェリシアもまた視線の先を辿る。
チカチカとした輝きを映す薄いブルーの瞳の先にあるものは、赤い鱗を持つフェリシアの尾びれだった。
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