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魔王城を囲む深い森の中には池がある。
湖というほど広くはないが、決して狭くもないその池には高い樹々の隙間から木漏れ日がさし、魔王の住む城の敷地内にありながらその周囲には可愛らしい小花が咲き乱れて甘く爽やかな香りが漂っている。
上流からは滝が静かに流れ落ちているが、川へと続いているわけではない。
池の中は魔王の魔法によって、人魚の住む海の底と繋がっているのだ。
百年前。異なる姿形、文化を持つ全ての魔族の集落を巡り、武力ではなく話し合いを持って魔族を纏め国家を作り上げた魔王は、次いで人間とも親しく交流を持つことを望んでいるらしい。
その努力の甲斐あって現在、ある一つの国から使節団が魔王城を訪れ、滞在しているのだという。
「本当に本当に、魔王様のお城に人間がいるの?」
フェリシアは数度目となる問いを友人に返した。抑えきれない好奇心に、ふりふりと揺れる尾びれが水上から降る日の光を反射してキラキラと輝く。
しかし「さっきからそう言ってるでしょ」と返す友人の口調は呆れを含み、にべもない。
それは無理もない。里長の屋敷で働いている友人からしばらく魔王城に人間が滞在することになったらしいと聞いたフェリシアは、何度も友人に同じ質問を繰り返していたのだから。
しかしそれもまた、無理のない話だった。
人魚とは違う種族も好奇心旺盛なフェリシアにとっては大いに興味をそそられる相手だが、人間はこれまで見たことがなかったのだ。
「そんなに近くに来ているなら、一度くらい姿を見られるかしら」
「ほんと、フェリシアって変わってる。私は遠慮しとくよ。尾びれが無い生き物ってちょっと気持ち悪くない?」
「そんなことない。魔王様だって尾びれも鱗もないじゃない。足が二本あるけど、でもとても格好良いもの」
友人は戯けて舌を出し、フェリシアは憤慨して言い返す。「魔王様は別よ」というのが友人の主張なのだった。
友人に断られた翌日、フェリシアは一人で水上を目指した。
勝手知ったる魔王城に人間を見に乗り込んでやろうと思ったのだ。
これを話した時、人間の話をしてくれたのとは別の、少しお姉さんの友人は「希少動物の展示じゃないのよ」と諭してきたが、好奇心には勝てない。
ちょっと見にいくだけだし、魔王様に挨拶もしたいし、と心の中には沢山の言い訳がいくつも浮かんでくる。
大丈夫。魔王様は優しいし、ちょっと見たらすぐに海に戻ればいいだけだ。
そう思えば尾びれにも力が入る。ぐんぐんと海中を進み、あっという間に水面が目の前に迫った。
想定外だったのは、ひょっこりと水面から目だけを覗かせたら池のほとりに複数の人影があったことだ。
明るい肌の色に二本の足。なのに頭には角がなければ背中には翼もしっぽもない。間違いない。人間だ!
まさかこんなにすぐ見られるなんて。魔王城に行く手間が省けたなぁとフェリシアが呑気に考えていた時、こちらに気付いたらしい一人と視線が真っ直ぐに合わさった。
海の浅いところと同じ淡い青色の目を見張ったその人はすぐに嬉しそうな微笑みを浮かべて池の淵に膝をつき、こちらを真っ直ぐに見つめたまま口を開いた。
「────」
大変だ。何と言っているのか、わからない。
魔王が魔族を纏めて一つの国を建てるまでは、種族が違えば話す言葉も違ったらしい。
今では海の底の学校で習うのは魔王が統一した魔族語といわれる言葉であり、人魚族の固有の言葉ももちろん習ってはいるが若い世代では友人と話すのも魔族語を使うのが当たり前となっている。
そのおかげか、この百年で魔族間でのコミュニケーションに困ることはなくなったが、交流を持ち始めたばかりの人間との間で通じる言葉をフェリシアが知るはずもない。
そのことを知らないらしい人間の──恐らくは男性だ。人間の男性は優しい声で何かを話し続けている。
しかしフェリシアが返事をしないせいか、笑顔を消してどこか心配そうに眉を下げた。人間を怖がっているとでも思ったのかもしれないと思うと、ちょっと申し訳ない。
すいすいと池の淵へと泳ぎ寄り、首を傾げて尋ねた。
「えっと……ごめんなさい。人間の言葉は分からないの。なんて言っているのかしら」
人間は目を数度瞬き、ようやく言葉が通じていないのだと悟ったようだった。
慌てた様子で再び笑みを浮かべた彼は胸に手を当てて、また何かを話した。
「……タイシ?」
その中の一つの単語を繰り返すと人間は嬉しそうに頷く。
「そう。タイシというのがあなたのお名前なのね!」
記念すべき、初の人間との交流だった。嬉しくなって捲し立てた。
「みんなに教えてあげなくちゃ! 人間のタイシが来ているのよって。またね、タイシ! また明日ここに来て! あなたともっとお話ししたいわ!」
呆気にとられた表情の人間に気付かず、また言葉が通じないことも忘れたフェリシアは手を大きく振りながら身を翻し、池の深くへと潜る。
海の底に戻ってすぐ人間と話をしたのよと友人達に自慢したが、まさか本当に見に行くなんてと呆れられただけだった。少し不満に思ったが、しかしすぐにそんな気持ちは消えてしまった。
この日から、タイシは毎日池のほとりに来てくれるようになったからだ。
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