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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

消えない夏と約束

「ねえ、夏を迎えに行こう!」

熱気が肌にまとわりつくような不快感の中。三階の端に位置する美術室の扉を勢いよく開けるなり、彼女は言い放った。七月も後半に差しかかったというのに、いまだ梅雨の明ける気配はない。放課後、二人きりの美術室の窓ガラスにも雨が叩きつけるようにして降っている。

「夏を、迎えに……?」

言われた言葉を小さく反芻する。呟くようなリヴィの声でも目前の彼女――ローメリーは聞き取れたらしく、うん、と弾んだ声で返事をした。花が咲いたような明るいその笑顔は、薄暗い美術室にはまるで不似合いだ。

「梅雨が明けないと夏が来ないでしょ? だからね、梅雨の後の夏を、私達で迎えに行こうって思ったの!」

夏を迎えに行く、なんて。そんな発想が出来る十六歳が、世界にどれだけいるのだろう。ローメリーは、冗談で言っているわけではない。目を見れば分かる。

「言いたいことは分かりました、けど……何か方法はあるんですか?」

リヴィの発した言葉――おそらくは、距離を置いているように思われるその口調――に少し寂しそうな顔をしたローメリーは、すぐに窓の方へ目をやり、遠くを指さした。

「あの灯台の、一番てっぺん! そこに行けばきっと、夏が見えるの!」

夏が、見える? 梅雨が終わる、すなわち雨が止むということ、なのだろうか。

なんの根拠もない話だ。第一、灯台の最上部付近は立ち入り禁止になっているのではなかったか。

ロ―メリーの目線を追うように外を見る。空一面が暗雲に覆われていて、遠くで落雷の音がしている。こんな天気の中、夏を探すだなんて本当に馬鹿げている。

冷静に考えれば、否定する要素しかない話。――だけど、嘘をつかれているという気はしなかった。こちらも同じく、根拠なんてない。ただの直感、というやつだ。

視線を戻すと、真剣な顔のロ―メリーと目が合った。いたずらっぽい顔をして笑っている。こうなれば、もはや何を言ったところで無駄だろう。自分がロ―メリーに甘いことなんて、リヴィが一番よく分かっている。現に今も、こんな突拍子のない話を聞いた後でさえ、彼女の願いを叶えたい、なんて考えてしまっているのだから。

透明なアメジストの瞳が、問いかけるようにリヴィを見つめる。諦め半分の思いで頷いた。――残りの半分?言うまでもなく、「期待」だ。非現実的なことが起こる少しの予感と、あとは彼女と過ごす時間への。

リヴィが頷くのを見るや否や、ロ―メリーは弾かれたように立ち上がってリヴィの手を掴んだ。そのまま手を引かれ、二人で階段を駆け下りていく。リヴィのものより少し小さな、温かい手。

リヴィのことを、救い出してくれた手だ。



物心ついた頃からずっと、リヴィの世界は灰色だった。理不尽な暴力に晒され、身を縮こめて、息を殺して日々を過ごしていた。

リヴィにとって、生きることは意義のあることでもなんでもなかった。生きることも死ぬことも許されていなかったリヴィに唯一許されていたことは、ただ少しでも早くこの地獄が終わるように祈ることだけ。祈ったところで何も変わらないと気付いてからは、祈ることさえもやめてしまった。


存外早く――早くとは言っても、十数年耐え抜いた後だった。よく死ななかったものだと自分でも思う――解放の時は訪れた。中学三年の冬、リヴィはようやく今まで手にしたことのなかった自由を掴んだ。リヴィ一人の力では決して開くことのなかった窓が開き、決して見ることの出来なかった外の景色が覗いた。

リヴィを解放してくれた大人達から何か温かい言葉をかけてもらったような気もするが、よく覚えていない。何も心に響いてこなかった、それだけが確かだ。

環境が変わったところで、今までリヴィが歩んできた人生が書き換えられるわけでも、異質なものを拒む周りの態度が変わるわけでもない。

たとえ怯える必要がなくなったとしても、リヴィは今まで通り孤独なままのリヴィだった。


それから一年と少しが経ち、リヴィは地元の高校に進学することが出来た。もし母親から解放されていなければ、出来なかったことだろう。周囲の大人達には感謝していたが、だからと言って死んでしまった心が元に戻るわけではなかった。

高校に入ってからのリヴィも、孤独なままだった。流石に小学生や中学生の頃とは違い、面と向かって罵倒されるようなことはなかったが、周囲には溶け込めないまま。リヴィの昔を知っている者からの好奇、侮蔑、嫌悪の視線。小声で投げかけられる棘のある言葉。それもまたリヴィの「日常」だったから、殊更堪えるなんてことはなく、むしろ何も感じられなかった。そんな状況にあって他人と馴染めるわけもなく、リヴィは孤独なままだった。

「学校の生徒は全員何らかの部活動に所属しなければならない」なんていう前時代的な――こんなことを言うと叱られるだろうか――校則がなければ、きっと今も。


リヴィが選択したのは、廃部寸前となっていた美術部だった。昔から絵を描くことは好きだったから。色鉛筆や絵の具なんて上等なものは与えられていなかったから、何かの端紙と鉛筆だけで、見咎められないようタイミングを見計らっては目の前に広がる灰色の風景を描き出していた。絵にすれば、リヴィの目に映る汚れた風景だって少しは綺麗に見えたから。

美術部の部員はリヴィを含めわずか四人で、殆どが幽霊部員だった。そのおかげでリヴィは誰とも会話することなく、一人、三階の端の美術室で好きな景色を描くことが出来た。――彼女と出会うまでは。


いつもと同じ放課後だった。美術室に放置してあった描きかけの絵を完成させようと扉に手をかけたリヴィは、違和に気付いた。誰かが、いた。リヴィしか殆ど訪れることのなかった放課後の美術室に。

戸惑い、引き返そうか迷い、その前に勝手に扉が開いた。中にいた小柄な少女が、リヴィの方を見上げている。リボンと上履きの色を見るに、リヴィと同じ一年生だろう。

「美術部の方、ですか」

何か言わなければと思い、咄嗟に出た言葉はそれだけだった。自分の声なのに、自分の声ではないみたいに硬い。そもそも声を発する機会が殆どないのだから、自分の声を聞いたのすら久しぶりだ。

目前の少女が小さく首を傾げ――小さなリボンに縛られたツインテールが可愛らしく揺れた――納得したようにパン、と両手を合わせた。

「はい!入部しようと思ってて!あなたも一年生だよね?美術部なの?名前は?」

矢継ぎ早に繰り出される質問に怯えつつ、小さく首を縦に振り、何とかリヴィ、とだけ小さく返した。

「リヴィちゃん!可愛い名前だね!ねえねえ、リヴィちゃん!この絵を描いた人って、誰だか知ってる?」

そう言って彼女が掲げたのは、美術室の窓から見える風景を描いた一枚のコピー用紙だった。その絵には、見覚えがあった。先日、息抜きとしてリヴィが描いた落書きだった。ただ一つ記憶と違ったのは、風景に色がついていたということ。リヴィの白黒の世界に、色がついていた。戸惑いつつも、ゆっくりと言葉を返す。人と話すのは慣れない。

「描いたのは、私、ですけど……色は……」

「リヴィちゃんが⁉これ⁉描いたの⁉」

ゆっくりとたどたどしく紡いだ言葉は、瞳をキラキラと輝かせた少女によって遮られた。いつの間にか距離を詰められている。両手を掴まれた。勢いがすごい。正直、少し怖いくらいだ。対人コミュニケーションに慣れていないリヴィにとって、一方的に距離を縮められるのは恐怖でしかない。それでもこの絵を描いた者として説明をしなければ、と口を開いた。

「は、はい……ですけど、私、色は塗ってなくて……」

はわあ、と感動したように大きく息を吐き、少女は絵に落としていた視線を上げリヴィに向き直った。

「あのね、色は私が塗ったんだ!美術の時間に捨てられてるのを見つけて、すごいって思って、感動して!今まであんまりお絵描きってしたことなかったんだけど、どうしてもこの絵に色を付けたいって思ったの!」

衝撃だった。リヴィの絵に感動すると言ってくれたことが。白と黒と灰色に彩られていたリヴィの世界が、初めてそれ以外の色に染まったことが。何より、彼女がリヴィを拒絶しなかったことが。胸の中に温かいものが広がっていく。初めての感覚だった。

そんなリヴィの様子を見て、少女は嬉しそうに笑った。

「あのね、私、決めたよ!美術部に入る!もっとリヴィちゃんと一緒に話してみたいって思ったの!あ、名前言ってなかったね!私はロ―メリー!」

よろしくね、リヴィちゃん!そう告げる屈託のない彼女の笑顔は、あまりにも綺麗で。不要な存在だったリヴィに、笑いかけてくれた。リヴィのことを肯定してくれた、真っ直ぐに向き合ってくれた初めての人だった。リヴィの過去を知らないだけだろうとはいえ、救われた思いがした。

きっとしばらくすれば、クラスの友人たちからリヴィの話を聞き、関わりを絶つよう諭されるだろう。期待すれば苦しい思いをするのだと知っている。だから、期待してはだめなのだ。そんな思いを抱えたまま、リヴィはロ―メリー、と知ったばかりの少女の名前を小さく呟いた。



ある日の放課後。夕陽の射す美術室でリヴィは、ロ―メリーに話すことを決めた。自分の過去のことを。

ロ―メリーは私と関わるべきではない。心の奥底でそんな思いを抱えたまま日々が過ぎ、一か月が経った。ロ―メリーは変わらず放課後になると美術室を訪れ、自分の絵を描いたりリヴィの絵に色を付けたりして過ごしていた。リヴィから距離を置こうとする気配はなく、リヴィの過去を知っているのかすら分からない。本当はすべて隠しておきたかったけれど、これ以上親しくなりすぎれば、離れられたときに苦しくなる。

迷いも葛藤もあった。だけど、それらすべてを振り切って、リヴィは口を開いた。声が震えている。

「ロ―メリー、は……昔のことを……」

私の過去を知っているんですか。そう、聞こうとした。なのに、声が出てくれない。喉の奥が詰まり、胸が苦しくなる。泣くつもりなんてなかったのに、透明な雫が頬を伝って落ちた。

考えたくなかった。ロ―メリーに話を聞いてもらった末、嫌われるのが。距離を置かれるのが。弱いリヴィはきっと耐えられない。ずっと一人だったはずなのに、今はなぜだか怖くてたまらない。

不思議そうな顔をしていたロ―メリーだったが、涙を零したリヴィを見て、表情を歪めた。

「大丈夫だよ」

涙交じりの声で優しく告げられた言葉に、凍り付いていた心の奥が溶けていく。知られていたのだろうか。すべてを知った上で、今まで通り変わらずリヴィに優しさをくれていたのだろうか。

「知ってた、の……?」

ようやく絞り出せたのはそれだけだった。目的語をわざと省いた言葉。だけど、きっと伝わっている。ロ―メリーは遠慮気味に小さく頷いた。いつもなら、同情されていたのか、と思っただろう。いつもなら。だが、今回は違った。一ヶ月もの間彼女と一緒に過ごして、分かっていたのだ。ロ―メリーの純粋さ、真っ直ぐさに。正しくないことを正しくないといえる意志の強さに。そして何より、他人のために涙を流せるその優しさに。

ロ―メリーが口を開きかけ、すぐに何も言わずに閉じた。リヴィにかける言葉を探しているのかと思った。だけど、違った。彼女は何か大切なことをリヴィに伝えようとし、言い淀んでいる。

「「私は」」

二人の声が重なった。戸惑ったようにロ―メリーが首を傾げ、リヴィも口を噤む。沈黙が流れた。

視線だけで先を促すとロ―メリーは一瞬小さくうつむき、すぐにリヴィの方を見据えて話し始めた。意志の強い目だ。

「……私ね、夢を見るの。ずっとずっと昔の夢。前世、なのかもしれない」

急な告白だった。前世、なんていう予想もしていなかった言葉。そう告げる彼女の表情は今まで見たことがないくらいに真剣で、告げられている言葉に不似合いに感じる。嘘をついているわけではない、ということは彼女の気迫から窺えた。

「リヴィちゃんが言いかけてた“昔”って言うのも、そういうこと、なのかなって。だって、リヴィちゃんは……」

「待って」

脳が理解を拒んでいる。思考が追い付いていない。昔? リヴィにとっての昔はせいぜい十数年前の話。前世、なんて大層な、非科学的な、有り得ないものでは――


『約束、だよっ……』

不意に脳裏に声が響いた。聞き覚えのある、幼い声。頭がズキン、と痛む。

「約、束……」

意図せず声が漏れたのを皮切りに、どこかの風景が浮かんでは消えていく。荒れ果てた世界。鳴り響く銃声。恐怖。リヴィに命令する白銀の少女。紅く染まった視界。呼吸困難。初めて見た光。揺れるツインテール。手を差し伸べてくれた。護らなきゃと思った。地獄から救い出して貰った。彼女がいたから、生きていようと思えた。傾いていく身体。急速にすべてが凍てついていく。頬を濡らす誰かの涙。最後に映ったもの。澄み切った紫の瞳。

何の記憶なのか。分からない。分からない。分からない――!

そんな思考とも言えない思考を最後に身体がゆっくりと傾いていき、リヴィは意識を失った。


目を覚ますと、真っ白な天井が目に入った。倒れた美術室の煤けた天井ではない。周りを見渡す。そこかしこに浮かぶ清潔な白。どうやら保健室、らしい。ロ―メリーが運んでくれたのだろうか。

倒れる前のことは、よく覚えていない。何か大切なことを思い出した気もするし、そんなものはなかったような気もする。思い出せないところを見るに、嫌なことだったのだろう。ならば、無理して思い出す必要なんてない。何をすれば良いか分からずただ虚空を眺めていると、ロ―メリーがこちらに向かって駆け寄ってくるのが見えた。涙の跡が残っている。急に倒れたりして、驚かせてしまっただろう。謝らなければならない。

「リヴィちゃん……!」

勢いよく抱きつかれた。どうすれば良いのか分からず内心では慌てていたが、それを務めて表に出さないように彼女を受け止め、ごめんなさい、と口にした。

「ううん、私こそごめんね。」

そう言葉が返ってくる。何が起きたのか覚えていないのだから、彼女の謝罪の理由は分からなかったけれど、ロ―メリーはそれを説明しようとはしない。まるで何もなかったかのように、いつも通りリヴィに接してくる。彼女の様子から何があったのか推測するのは困難に近いと思われた。


その日からもロ―メリーは至っていつも通りだった。何があったのかは分からないままだ。敢えて知ろうとは思わないが。

以前まで心の奥から消えなかった重苦しくて忌まわしい記憶の塊が軽くなっていたように感じたから、きっと良いことなのだろう。なら、気にしなくても良い。

ロ―メリーは、今日もリヴィの傍にいてくれる。リヴィにとって大切なのはそれだけだ。



ロ―メリーに手を引かれ階段を駆け下りた後。土砂降りの雨の中、二人、手をつないで駆け出した。灯台へ向かって、傘も差さずに。

自分でも馬鹿だと思う。雨の止む気配はなく、むしろ強くなり始めている。風も吹いてきた。外に飛び出して数秒後にはもう、夏服のスカートの色が濃い色へと変わり始め、靴の中にも水が入ってくる。リヴィの長い黒髪は濡れ、走るたびに足元から滴が跳ねる。ろくでもない状態のはずなのに、不思議と嫌な気分ではなかった。

雨の街を走り抜け、目的地である灯台のふもとに辿り着く。白い灯台に雨が吹き付けている。すぐそこに見える海はうねって荒れ狂っている。水の色は青というよりは黒に近く、今にも飲み込まれてしまいそうだ。高校からはそう遠くないはずなのに、まるで知らない土地に来てしまったかのよう。こんな荒天の日に外に出ることなんて今まで一度もなかったから、当たり前といえば当たり前なのだけれど。

申し訳程度に周りに張り巡らされた錆びたフェンスをロ―メリーは軽々と乗り越え――制服に錆びがつくことなんて気にしていないようだった――リヴィを手招きした。雨は刻一刻と激しさを増しており、視界も悪くなっている。ここまでくればもう、引き返すわけにはいかない。ロ―メリーと二人で、夏を迎えに行くのだ。

覚悟を決めてフェンスを乗り越え、そのまま古びた灯台の階段に足をかける。吹き曝しの螺旋階段には雨が降りこんでいて、雨音が反響して寂しげな音を立てている。いつもより足音が響いて聞こえる。二人だけが世界から切り離されたようだ。雨のせいか、目に入る風景はいつもよりぼやけ、耳に入る音はいつもよりクリアに聞こえる。

二人とも何も言わずに、ただ黙々と歩みを止めることなく階段を上り続けた。この辺りの地域で最も高い、と言われている灯台だ。階段だけを使って上るのは容易なことではない。けれど、リヴィの中に苦痛はなかった。

「あのね」

不意に、ロ―メリーが口を開いた。ゆっくりと言葉を紡ぎつつも、足を止めることはない。

「私の友達に、未来が見える子がいたの。」

なんと相槌を打てば良いのか分からず、曖昧に頷いた。確かこの前も、どこかで似たような話を――

「私はその子みたいに強くなかったから、そんなすごいことは出来なかったんだけどね。守ってもらってばっかりだったなあ……」

何の話をしているのだろうか。ロ―メリー自身の話のはずなのに、どこか遠くの話をしているようだ。そう、まるで別の世界のような――

ズキン、と頭が痛んだ。以前感じた感覚。慌てて浮かんだ思いを思考の外に追いやる。これ以上考えてはいけない。

に行く方法。ロ―メリーはもしかして、その方法を教えてくれた友達を求めているのだろうか。彼女の話は過去形だった。

何も言い出せないまま、無言のまま時間が流れた。うるさいくらいだった雨音は少しずつ小さくなっていて、静けさが場を支配する。硬いローファーが階段をたたく規則的な音だけが、あたりに響く。――と、急に景色が開けた。すなわち、最上部へ到達した。

荒れていた海は先ほどより静まり返り、あれだけ吹き付けていた風も止んでいる。降りしきっていた雨もぽつ、ぽつと小雨になり、少しずつ止んでいく。

「雨……本当に、止んで……」

小さく息を呑んだ。魔法みたいだ、と思った。空を覆い隠していた雨雲の合間から青空が覗いている。煌めく光が射しこんで、世界を照らしている。

リヴィの見ている世界に初めて色がついた。そんな気がした。

「綺麗……」

ロ―メリーが小さく呟いた。夏、迎えに行けたね。そう嬉しそうに。

まるで、今年の初夏の切れ端を二人占めしているみたい、なんて柄でもないことを考えてしまう。先ほどまで頭を占めていた不安、焦燥、戸惑い――そういったネガティブな感情すべてが、洗われるようにして消えていくのを感じた。


ゆっくりと空に、虹が架かっていく。夏の始まりを予見しているように。隣のロ―メリーを見ると、彼女の頬には光る涙が伝っていた。泣き笑いの表情で、ロ―メリーはただ虹を見つめていた。どこか遠い世界へ祈るように。

虹。涙。記憶に引っかかるものがあった。今の私の記憶ではない。もっと、前の――

泣きそうな顔をしていたのだろう。ロ―メリーがこちらを見上げ、大丈夫、と呟いた。以前励まされたような、力強い「大丈夫」ではない。まるで自分に言い聞かせるように、小さく呟かれた言葉。それなのに、なぜだか安心出来た。確かにリヴィはその言葉に救われた。

雲間から覗く眩しいくらいに青い空と光る虹、そして澄んだ彼女の雫が、瞼に焼き付いて離れなかった。



あれからもう一年になるのか。空っぽの部屋にかかった質素なカレンダーを眺め、リヴィは溜息を吐いた。今年は去年とは違い空梅雨だった。ラジオのニュースでもしきりに水不足が叫ばれている。雨の日は好きだった。彼女と過ごした日々を思い出せるから。

ロ―メリーはあの日以来、消息を絶っていた。転校したのか、今どこにいるのか、何も分かっていない。ロ―メリーが消えてから初めて、彼女が一人暮らしをしていたと知った。思えばリヴィは、ロ―メリーのことを何も知らなかったのだ。いなくなってすぐの頃は、やみくもにただ彼女を探した。手掛かりは何もなく、周囲の大人も何も知らないと言い張った。絶望した。過去の孤独な自分に戻ってしまった。リヴィのせいなのだろうか。考えても仕方のないことばかり考え、命を絶つことすら考えた。それでも死ねなかったのは、彼女のぬくもりがまだ胸に残っていたから。

いつか会える。そう信じて、待ち続けた。そして、逃げるのをやめた。

リヴィが唯一ロ―メリーと共有していたこと。彼女とリヴィの持つ、奇妙な記憶について。もし記憶が戻ってくれば、再び彼女と巡り会えるのではないか、そう考えた。だが、思い出そうにも思い出す方法なんてない。ロ―メリーと最後にあった日以来、あの記憶はわずかな断片すらも掴ませてくれなかった。どうしようもなく諦めかけ、リヴィの過ごす日々が緩やかに色を失っていった。

最後にロ―メリーと会ってから一年が経ったある日。急に「それ」は訪れた。一人きりの美術室で時間を過ごし、いつもと同じか少し遅い時間に帰宅する途中。空梅雨の季節の中では珍しく雨が降ったその日。

――虹が、空に架かっていた。

眩暈のような感覚。フラッシュバック。数多の知らない風景が浮かんでは消えていく。激しくなる頭痛を堪え、必死に薄い記憶の糸を手繰る。予感があった。以前のように今も逃げてしまえば、きっと二度と思い出すことが出来ない。

身体がふらつき、近くにあったブロック塀に倒れかかった。ここではない景色が脳裏に浮かぶ。思い出せ、思い出せ、そう祈り続け――否。気付こうとしたのだ。リヴィも同様の記憶を有していることに。逃げていたのだ。嫌な記憶から。二度と思い出したくない記憶から。幼少期の経験のせいなのかは知らないが、リヴィは嫌な記憶をずっと封印して逃げてきたのだ。ロ―メリーの前で倒れた日のことだってそうだ。弱いから、怖いから、逃げたのだ。もう逃げないと決めた。彼女と再び出会う方法は――出会える保証なんてないけれど――彼女との接点は、これしかなかったから。


ぷつ、と糸が千切れるような音。狭かった視界が急に開けていく――そう、ちょうど灯台の天辺に辿り着いたときのような――感覚。リヴィの中に流れ込んでくる。閉ざされていた何かが堰を切ったようにあふれ出す。無意識に封印していた感情、記憶。それらのものが一気に押し寄せる。

――気付けばリヴィは、声を上げて泣いていた。


この世界とは違う、戦場のような世界に召喚されたリヴィたち。使役されるためだけに、リヴィは存在していた。強すぎた魔力を制御しきれず、疎まれ虐げられていたせいで、いつしか自分の意志というものは消えていた。命令されなければ何も出来ない機械人形のような存在に成り下がっていた。そんなリヴィに笑いかけてくれた、優しさをくれた唯一の存在がロ―メリーだった。

最初は敵同士だった。出会ったら殺すよう命令されていた。だけど、出来なかった。虹系統の魔法を使うロ―メリーは、魔法を使わずともリヴィの心を照らしてくれた。初めての感情だった。「護りたい」だなんて思ってしまった。生まれた感情の名前は分からなかったけれど、それでもリヴィにとって一番大切なものだった。

「元の世界に戻れたら、友達になろう」と約束をした。リヴィにとって、それが初めての「約束」だった。契約や命令とは違う、何の拘束力もないもの。だけど――だからこそ、とても愛しいと思えた。

だけど、その約束が果たされることはなかった。リヴィを使役していた少女――氷系統の魔法を使っていた気がする。名前は思い出せない――からローメリーを庇い、リヴィは命を落とした。そこからの記憶が途切れているので、あくまで推定でしかないが。最後の記憶は、リヴィを濡らすロ―メリーの涙と辺りを包み込む冷ややかな空気。それと、力の抜けつつある差し出した小指。それだけで充分だった。

リヴィは、ロ―メリーと「約束」をした。それを果たしたい。果たさなければいけない。どうしたら果たせるのか。答えは簡単だった。彼女自身が、教えてくれていた。夏を迎えに行く方法を。何の感情も持てないほど凍てついたリヴィの心を、氷に縛られたリヴィの世界を、ロ―メリーは優しく溶かしてくれた。リヴィのことを、救い出してくれた。

ロ―メリーの存在が、リヴィにとっての「夏」だった。

ならば、迎えに行く方法は一つしかない。大きく雨の空気を吸い込み、傘を捨てて走り出した。目指すのは灯台。最後に彼女とあった場所。最後の記憶と同じ涙を見た場所。

殆ど人気のない街並みを駆け抜け、一分の躊躇いもなく錆びきったフェンスを乗り越え、階段を駆け上がった。一分一秒が惜しかった。一年前ほど土砂降りの雨ではないはずなのに、雨音がより反響して聞こえる。一人で上っているからだろうか。涙が零れた。拭う時間も惜しく、必死に息を切らして走る。

酸素不足の頭に浮かんでは消えていく、別の世界の出来事。苦しいことの方が多かった。幼少期の記憶なんて、それに比べれば痛くも痒くもないくらいには。リヴィがいなくなった後、ロ―メリーはどうしたのだろう。この世界で再会したということは、元の世界では幸せであれなかったということなのだろうか。リヴィに護られた後の彼女がどのような結末をたどったのかリヴィは知る由もないし、知ろうとも思わない。ロ―メリーと再び出会った。やり直すチャンスを与えられた。前の世界で何度祈ったか分からない救いを得られた。大事なのはそれだけだ。

階段を上るにつれ、記憶はより鮮明によみがえってくる。頭痛もひどくなる。そんなことには構っていられない。リヴィは今度こそ、自分の手で、掴み取らなければ。一気に残りの段を駆け上がった。景色が開ける。あの日と同じように。


そこには、一人の少女が佇んでいた。雨は止み、柔らかい金色の光が雲間から射しこんでいる。

「ロ―メリー」

いつも通り呼びかけようとして、発した声には涙が交じった。彼女がゆっくりとこちらを振り返る。泣き笑いの真っ直ぐな瞳が、どうしてここに来たのかと問いかけている。はやる気持ちを抑え、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

ロ―メリーが消えてから一年間を、思い出した記憶を、交わした大切な約束を。それらすべてを包むこむような思いを込めて。


「夏を、迎えに来ました」

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