彼が眼鏡を外したら
「まず外見がいいよね。本当、モデルみたい。カッコ良すぎだって」
週末の居酒屋。
テーブルを挟んで真正面に座る同期の奈々が熱く語るのを、私はただ頷きながら聞いていた。
「でも見た目だけじゃないんだよ! 先週、二次会でカラオケ行ったでしょ。歌も最高だったんだから。ちーちゃんにも聞いてほしかったな」
奈々が話しているのは、先週末に行われた課内慰労会の話だ。
社内でも評判の『仲が良い課』である私たち経理課は、歓送迎会だの暑気払いだの忘年会だのと理由をつけて、一か月に一回のペースでほぼ全員で飲みに行く。
けれど残業続きの一月二月はそうもいかず、繁忙期が終わって落ち着いた三月中頃に、慰労会という名の飲み会が開催されるのが、ここ数年の恒例だった。
「課長以外だと、ちーちゃんと俊介だけだったんだよ、カラオケ来なかったの。俊介はいつものことだけど、ちーちゃんは珍しいよね」
あの日、いい具合に酔っ払ったみんなが二次会へ流れると言い出したけれど、私は父親を迎えに行かなければいけないという理由で断った。
「まあね。ホント、残念なことしたな」
悔しがる素振りをする私に「深くは聞かないでおいてあげるよ」と意味深な笑みを浮かべる奈々を見ながら、六年前、経理課配属になった頃のことを思い出していた。
今や社内でも羨ましがられるほど仲が良いと言われる経理課でも、私が来た頃はそれほど社員同士が親しかった訳ではない。
変わっていった要因は、年に一度の配置換え。六人しかいない経理課は、気が付くと課長以外ほぼ同年代という構成になっていて、それだけでも社員間の距離を縮めるには充分だった。
そして訪れた決定打。フランクで話しやすい今の課長が来てからというもの、一気に団結力が高まり、毎月の飲み会が当たり前になっていったのだ。
こうして仲を深めた経理課のみんなと飲みに行くのは、お酒を飲めない私でも楽しかった。だからあの日も、何もなければ当たり前のように二次会に参加していただろうけど、どうしても優先させなければいけない案件と被ってしまったのだから仕方ない。
一週間前のカラオケを思い出しているのか、奈々の頬は緩みっぱなしだ。これは相当のカッコ良さだったのだろうと、今夜の話題の人、経理課の王子様こと拓也くんの様子を問いただすことに決めた。
「拓也くん、何歌ったの?」
「それがね!」
待ってましたとばかりに瞳をキラキラさせた奈々が答えたのは、今大人気の男性ユニットが歌うラブソングだった。
「もうね! 声が曲に合ってるの! あんな素敵な声で歌うなんて思いもしなかった! さすが王子様って感じ!」
お酒の力もあるのか、奈々のボルテージは上がる一方だ。
「それは一発で落ちるやつじゃん」
これは割と私の本音だった。
二歳年下の拓也くんは、王子様と言われるだけあって外見は完璧、その辺の芸能人より見栄えがすると言っても、決して言い過ぎではない。
それだけでもモテ要素抜群なのに、性格もすこぶる優しい。
高いところの物を取ろうとすれば、さっとやって来てスマートに取ってくれるし、繁忙期には昼休みに課内全員分のスイーツを買ってきてくれることもある。誕生日やバレンタインに贈り物をした少なくない女性社員にも、全員にお返しをしたというほどの紳士ぶりだ。
それなのに実は超がつくほどの天然だなんて、神様の贔屓だとしか思えない。
すでにそんなギャップにやられている女性社員は数知れず。その上甘い歌まで歌うとなると、これは好きにならずにいられない、というやつではないだろうか。
「拓也くんみたいな人と付き合う人は、幸せだろうね」
思わず漏れた私の言葉に、奈々はニヤニヤしながら「彼女にしてもらいなよ」といたずらっぽい口調で言って、それから生ビールを煽った。
どれだけ拓也くんのことで騒いでも、奈々には付き合って一年になる本命がいる。だから簡単にそんなことを言えるのだ。
「私なんかが手を出していい相手じゃないよ」
断わる私に、奈々は攻撃の手を緩めない。
「でも拓也くんからもらったホワイトデーのお返し、ちーちゃんだけ大きな箱だったじゃん。まだいけるんじゃない?」
男女比が五対五の経理課では、女性社員が各自でバレンタインチョコを用意して全男性社員ひとりひとりに贈るのが習わしだ。もちろん義理チョコだけど、私が密かに想いを寄せるあの人にだけこっそり本命チョコを渡していたことを、奈々は知らない。
「まさか! みんなマカロンだったでしょ? 私も同じ」
「そうかなあ」と不服そうに頬を膨らませながらも、奈々の話題は自分の惚気話へと移っていった。
微笑ましい恋人同士の話を聞くのは、幸せのおすそ分けをもらったみたいで好きだ。ただほんの少しだけ切ない思いが過るのは、どうか許してほしい。
あの人の眼鏡を外して、その綺麗な顔を撫でられたらいいのに。
もちろん、そんな日が来ないことなんて百も承知だ。だって、あの人は絶対に私の気持ちに気付かない。万が一気付いたとしても、気付かないふりをするだろう。そして、今の関係が壊れることが怖い私も、想いを伝える気なんて微塵もないのだから。
それでも、あの人の特別を夢見てしまうことは止められそうになかった。
***********
『例年、四月に入ってから歓送迎会を行っていましたが、今年度は本社への転勤ということで、三月中に送別会を行いたいと思います。参加不参加を幹事まで報告願います』
課内回覧に書かれた内容に、息が苦しくなった。
彼が転勤する。
四月からの勤務先が本社ということは、間違いなく栄転だ。喜んであげなくちゃいけない。
頭では分かっているのに、笑顔で送り出せる自信がなかった。
だって、まさかここからいなくなるなんて。たとえどちらかが経理課を離れても、同じ建物にいれば会う機会なんていくらでもある。そう思っていたのに。
「千尋先輩、ちょっといいですか?」
回覧を見つめたまま固まっていた私に、拓也くんの声が降り注いだ。反射的にビクリと震えてしまう。
無言のまま立ち上がり、拓也くんのあとをついて歩く。
向かった先は、誰もいない会議室。
しばらくの間、ただ背中を向け続けるだけの拓也くんに、声をかけられずにいた。
このまま、何も言わないでほしい。
そんな自分勝手なことを願いながら、拓也くんの背中を見つめる。
けれど私の身勝手極まりない思いなんて、叶うはずもない。
拓也くんは大きく息を吐き、振り返った。
「千尋先輩。僕が今から何を話すか、当然気付いていますよね?」
覚悟を決めるように唇を噛み締めた拓也くんを見て、やっぱりとんでもなくカッコいいと思う。
「千尋先輩のことが、今でも好きです。このタイミングで言う意味、分かってもらえると思います。一番じゃなくてもかまわない。お試しでもいい。僕と付き合ってもらえませんか?」
泣きたくなった。
王子様にここまで言わせるなんて、他の女性社員が知ったら嫌味のひとつではすまないだろうな。それでも安いくらいだ。
でき得る最大限の心を込めて、深々と頭を下げた。
「ありがとう、拓也くん。その優しさに甘えられたらどんなに幸せだろうって思う。実際、何度も考えた。だけど、ごめん。どうしても、あの人を忘れられない。だから、拓也くんの気持ちには応えられない」
顔を上げた私に、拓也くんは溶けてしまいそうなくらい優しく笑った。
「あーあ、やっぱりダメか。ぽっかり空いた心の穴に滑り込もうと思ったんですけど、ちょっと早かったかな。千尋先輩、二度も僕を振るなんて、後悔しないでくださいよ。転勤する前に、ちゃんと俊介先輩と話をしてくださいね」
年下のくせに、何もかもお見通しの王子様。
一度目に告白されたのは一年前のホワイトデーだった。真っ直ぐに想いを伝えてくれる拓也くんに、心が揺れなかったと言えば嘘になる。けれど今日と同じく、その場で断った。
「他に好きな人がいるから」
正直に理由を告げた私に、拓也くんは今日と同じように笑った。
「知ってますよ」と。
プライベートでも仲良くしている奈々だけには、拓也くんから告白されたことを話したことがある。それ以降、彼女は事あるごとに拓也くんを勧めてくるようになった。
「同期の中でも人付き合いの悪い俊介より、拓也くんの方がちーちゃんを大事にしてくれるよ」
奈々の言うことは本当だろう。拓也くんと付き合える人は、幸せだと思う。だからこそ、拓也くんを心の底から想っている人が隣に立ってほしい。なんて、それこそ私の勝手な言い分だけれど。
少しここに残るという拓也くんを置いて先に仕事に戻ると、営業の阿部さんと話し込んでいる俊介が見えた。
強面で、押しの強い阿部さん。経理課はみんな、少しだけ苦手意識を抱いている。いつもなら状況を見て課長が間に入ってくれるのだけれど、今日は頼みの綱の課長も出張で不在だった。
それでも、俊介なら心配ない。
そんなふうに思えるのは、いつでも声を荒らげず微笑みを絶やさない俊介を、ずっと見てきたからだ。
人付き合いが悪いって奈々は言うけれど、どんな相手も決して不快にさせない俊介は、ただ人との距離を一定に保っているだけで、実は誰に対してもとことん丁寧だ。
そういうところなんだよね、と心の中で毒づいてしまう。
忘れてしまいたいのに、嫌いにさせてくれない。あいつを見るたびに好きだと認識させられて、何度悔しいと思ってきたことか。
ふっと短い息を吐いて、胸の痛みを追いやってから席についた。送別会の案内に出席と記入して、隣のデスクへ回す。
今夜、俊介をごはんに誘ってみよう。
思いやりで背中を押してくれた拓也くんの気持ちに報いるためにも、最後くらい綺麗に散ってやろうじゃないか。
*********
定時が過ぎ、ぽつりぽつりと帰り支度を始める人が出始めた頃合いを見計らって、そっと俊介のデスク脇に立った。
気配に気付いた俊介が「どうした?」とパソコンから顔を上げる。
「あのさ、今日この後って予定入ってる?」
「いや、特にないけど」
素っ気なく返事をする俊介に、余所行きの笑顔を見せる必要がない間柄だと思われているのが嬉しいだなんて、どうかしていると自分でも思う。
「じゃあ、夕ごはん食べに行かない?」
努めて明るく、平静を装って。
「別にいいけど、もしかして奢り?」
ニヤリと笑うその顔にさえ、ドキンと心臓が飛び跳ねる。
「栄転祝いってことで」
なんて言っていても、きっと奢らせる気なんてないんだろうな。
「それじゃ、あと三十分待って。これだけ終わらせるから」
俊介の言葉に頷いて立ち去ろうと踵を返した時、帰り支度をしていた奈々と目が合った。「頑張れ!」とジェスチャーと口パクで応援してくれる奈々に、ガッツポーズを返してから、手早くデスクを片付けた。
だって、胸がドキドキうるさくて、とても仕事になりそうもない。
先に部屋を出た私は、俊介の仕事が終わるのをロビー脇にある自販機の前で待った。
喉がカラカラに渇いている。けれどこの後食事に行くことを考えれば、ここで何かを飲むのも気が引けた。それに、缶コーヒーを買ったところで、喉を通ってはくれないような気がする。
渇いた喉は放っておくことにして、代わりに何度か大きく息を吐いた。
よし。この時間を使って、俊介との会話をシミュレーションしてみよう。
告白するなら、帰り際がいい。「ずっと好きでした」と一言で簡潔に。きっと精神的なプライベートスペースに侵入されることを嫌う俊介は、少し顔をしかめて、「ごめん」って言うに決まっている。だから、分かりきった返事なんていらない。すぐに立ち去る。ただ、そっと静かに想いを伝えられればいい。
「待たせてごめん」
「うわ!」
傾向と対策で頭がいっぱいになっていたせいで、俊介がこちらに向かってきていることに気付けなかった。
「そんなに驚くことか?」
珍しいおもちゃを見つけた子どもみたいに楽しそうに笑う俊介を見て、心臓の鼓動がより一層速くなる。
「ちょっと考え事してて……」という言い訳をする私の顔は、きっと赤くなっているに違いない。
「ま、いいけど。行こう」
先を行く俊介を、慌てて追いかける。隣に並んだ私を確認すると「勝手に店決めちゃったけど、いい?」と尋ねてきた。
「ありがとう」
誘ったのはこっちなのに、とまた悔しい思いに駆られた。だけどこの感覚に何度でも溺れたいと望んでしまっていることに、もう自分でも気付いている。
二人きりで歩く道のりを、仕事という色気のない話で埋め尽くしたのは、きっと緊張と照れくささを隠すため。それでもつい緩んでしまう頬をどうにか隠したくて、何度も左手を口元に持っていかなければいけなかった。
**********
「それじゃ、栄転おめでとう。乾杯!」
グラスビールとコーラを合わせると、カチンと軽やかな音が鳴った。
「ありがとう」
「…………」
さっきまで他愛もない会話をしていたのに、向かい合うと変に無言になってしまう。考えてみれば、二人だけで食事なんて初めてのことだ。だけど、何か話さなくちゃ。
「えっと……、同期が出世するのは嬉しいけど、でも遠い存在になった感じがして寂しいね」
俊介は肩をすくめた。
「出世するなんて決まってないよ。それに、寂しくなんかないだろ。ちーちゃんには、拓也がいるし」
予想外の言葉に、グラスを口に運ぼうとした手が固まった。指先から熱が引いていくような感覚。なんだろう。悲しい? 憤り? よく分からないけど、心の中で何かが暴れようとしている。
「そこでなんで拓也くんの名前が出てくるのよ?」
震えそうな声を、引き攣った笑顔を作って必死に隠した。
「え? 拓也に告白されたんじゃないのか? ちーちゃんに告白していいか、って拓也に聞かれたから、てっきりもう……。ってか、なんで俺に断るのか分かんないよな」
俊介は笑った。
拓也くん、バカだなぁ。わざと俊介にそんなこと言うなんて。なのにこいつ、全然何も察してなくて、ホントだめなやつだ。そして私も、拓也くんの期待に応えられそうになくて、ごめんね。
もう、冷静ではいられなかった。これまで胸に秘めていた想いが、一気に溢れ出す。
「そうだよ。拓也くんに告白された。だけど断ったよ。だって私……俊介が好きなんだもん!」
眼鏡の奥の俊介の目が、大きな丸になった。
あーあ、こんな伝え方するはずじゃなかったのにな。自販機の前で繰り広げたシミュレーションが、泡になって消えていく。
「いや、だって、拓也なら絶対大事にしてくれるって。俺より、ちーちゃんには相応しい……」
この期に及んでまだそんなことを言う俊介に、暴れそうな何かを繋いでいた綱が、プチンと切れる音が聞こえた気がした。
「そんなの、何度も思ったよ! なんで俊介なんだろう、って。他の人を好きになれたらいいのに、って。バレンタインのお返しもくれないし、誕生日プレゼントをあげても反応ないし、拓也くんの気持ちにも気付かないし、ホントに俊介なんて最低だよ!」
バレンタイン、みんなに配った義理チョコにプラスして高級チョコを渡した。
慰労会の日、一次会で帰ろうとする俊介を慌てて追いかけて、誕生日プレゼントを渡した。
少しだけ期待していたお返しは、案の定なかった。
「でも、どんなに他の人を見ようとしても、視界にあんたが入ってくるだけで、心の全部をあんたに持っていかれるんだもん。ズルいよ、俊介は」
仕事でミスをして落ち込んでいた日、何も言わずに缶コーヒーをデスクに置いてくれた優しさ。
同期だからって理由だけで、奈々と同じように私をちーちゃんと呼ぶ、変なところで発揮する人懐こさ。
二人きりの残業で一度だけ見た、眼鏡を外して仮眠を取っている予想外に整った顔立ち。
私だけが知っている俊介を、今さらなかったことにはできない。
「今日で終わりにしようと思って来たけど、決めた。私、絶対あんたを諦めてなんかやらない。餞別も渡さない。その代わり、しつこいくらい追いかけてやるんだから!」
もう見返りなんか期待しない。納得するまで好きでいる。それくらいしなきゃ、人と距離を詰めようとしない俊介に、私の気持ちは伝わらない。
俊介はゴクリとビールを飲み干したかと思うと、おもむろに眼鏡を外してテーブルに置いた。
「はは、面白いじゃん。期待してますよ、ちーちゃん」
「……!」
初めて見る挑戦的な俊介に、息が止まりそうになる。
「だから、そういうところなんだって」
熱のこもったため息をつきながら呆れ声で伝えると、俊介は首を傾げた。
その仕草にさえ、心臓が鷲掴みにされたみたいに甘い痛みが走る。
まったく、これは重症だ。私の恋の病は、ますます重くなっていく予感。