使い古された革の鎧は、師弟の一縷の希望となる。
春の黄昏が役目を終えようとした時、カリフェースの王都にほど近い泉に、三人の人影があった。
「チロル。その革の鎧、いい加減に限界ではないか?」
ヒマルヤはチロルの背中を見ながら、鎧を新調するよう促した
。いくら師匠のタクボに初めて買って貰った鎧とは言え、誰が見ても経年劣化は明らかだった。
チロルは身体の成長に合わせて、このボロボロの革の鎧を、武器屋で幾度も調整して貰った。どこの街の武器屋も、口を揃えて新しい鎧を勧めたが、チロルは頑として鎧を変えなかった。
「まだ使える物を捨てるなんて、勿体無いでしょ。ヒマルヤこそ、その格好。サウザンドさんとそっくりじゃない」
黄色い長衣と長い帽子。胸と背中には龍の刺繍が入れられていた。ヒマルヤの師であるサウザンドは長身だったが、この三年でヒマルヤも成長し、その身長はサウザンドに近づく程だった。
「悪くはないだろう?サウザンドは教えてくれなかったが、この黄色い長衣は、遥か東方の国の皇帝が着る衣服らしいぞ」
ヒマルヤは胸を反らし、誇らしげに語った。チロルとヒマルヤの会話を聞きながら、ラストルは苦笑する。
ラストルはかつて、兄の形見の剣を失った。それはやはり、大きな喪失感を伴った。人間も魔族も、身につける物で大切な誰かを身近に感じていたいのかもしれない。
ふとラストルは、故郷の村を思い出した。同い年なのに、姉貴風を吹かす赤毛の幼友達の事を思い出した。
「······元気かな。リリーカ。元気かな。爺さんに、父さん母さん」
冒険者になると言い残し、飛び出した故郷。一人前になったら一度村に帰ろう。紺色の髪の少年は、そう心に決めた。
「やっぱり来てくれたんだねチロル!ん?その二人は友達かな?
」
その声は、泉の中央から聞こえた。泉の上に、人が立っていた
。風の呪文で身体に風を纏う事も無く、足元の水面は乱れ一つ見せる事は無かった。
その光景に、ヒマルヤとラストルは驚愕した。風の呪文を使う事なく、人が宙に浮くなどあり得ない事だった。
「······リックさん。私は貴方達を止めに来ました。精霊の神様の復活とやらを諦めて下さい」
リックは紫色の髪を揺らし、泉の水面を滑るようにチロル達に移動してきた。黄金の甲冑を入れた大袋を両手で抱えていた。
「まあまあ。難しい話は後でしよう。それよりチロル。君に精霊を扱える適正があるかどうか。僕は何よりそれが知りたいんだ」
リックはチロル達の前に降り立ち、タレ目を細めで笑顔を向ける。
「クダラ!彼女が話したチロルだ。適正があるかどうか見てくれよ!」
リックが顔を上げ叫んだ。リックの視線の先をチロルが見上げると、黄昏の残光に照らされた人影が、空に浮いていた。
クダラと呼ばれたその人影は、殆ど一瞬で地上に降下し、リックの隣に着地した。長い黒髪に獣のマント。胸の首飾りの骨が、異様な艶を放っていた。
「······残念だけどリック。この三人に適正は無いわ」
クダラは形のいい唇を動かし、冷たい口調で呟いた。それを聞いた瞬間、リックは悲しそうな顔をしてうなだれた。
「見ただけで分かるんですか?貴方はもしかして、ガジスト一族の人ですか?」
チロルがクダラに問いかける。黒髪の美女は、氷のような冷たい目でチロルを見返した。
「ガジスト一族の正統後継者には、精霊を扱える力がある者を、見分ける力があるの。貴方達はオルギスの部下かしら?」
「部下ではありません。ですがオルギスさんが支配している身体の持ち主は、私の兄のような人です」
「······なる程。込み入った事情がある様ね。それで?貴方達は私達に敵対するつもりかしら?」
クダラの言葉に、ヒマルヤとラストルが身を構え、それぞれの武器に手をかける。
「ガジスト一族のお姉さん。貴方達とオルギスさんが争うと、私の大事な人が傷つきます。なので、精霊の神様の復活は諦めて下さい」
チロルは言い終えると、腰から勇魔の剣を抜いた。
「そんな小さな理由で剣を振るうの?精霊の神から世界を救うとか、そんな勇ましい言葉を吐かれると思ったわ」
クダラは顎を上に向け、チロルの言葉を冷笑した。
「私は自分が大事だと思う人を守るだけです。世界の平和なんて知りません」
チロルの返答を受け、クダラは獣のマントの中から、両手に抱えられた古びた壺を出した。
「まだ子供の連中から大した力は奪えないと思うけど、オルギスの手の物なら容赦はしないわ」
クダラの冷たい表情に、怒りの色が加わった。その瞬間、壺の中から黒い髪の毛のような物が這い出てきた。
三股に別れた髪の毛は、恐ろしい程の速度でチロル、ヒマルヤ、ラストルに襲いかかった。
「チロル!ラストル!私の後ろに回れ!」
ヒマルヤが即座に物理障壁の呪文を張った。だが、三股の髪は障壁をすり抜けて行く。
「!?どう言う事だ!」
ヒマルヤの叫び声と同時に、チロルとラストルが髪の毛を切断する。髪の先端を切られた三股の髪の毛は、怯むように後退した
。
「この黒髪は、精霊の神ラバートラの髪の毛よ。ラバートラに魔法など効かないわ」
後退した黒髪は、クダラの身体を取り囲むように不気味に動いていた。
「ラバートラさんは、もう復活しているんですか?」
チロルは剣を構えたまま、大きな瞳を疑問気にクダラに向ける
。
「······私達正統後継者が、傷付く事なく甦らせられるのは、この髪の毛だけよ。この黒髪は、ラバートラ自らが力を蓄える為の胃袋のような物よ」
「······力を蓄える?その髪の毛は、人の力を奪う能力があるんですか?」
「聡明なお嬢さんね。その通りよ。奪った力でこの壷が満たされた時、ラバートラは復活するの」
クダラの不吉な言葉に、ヒマルヤが猛然と歩み出た。
「怪しげな道具を使う者よ!今までに何人の者達をその黒髪の毒牙にかけた!」
「さあ?何人かしら。この三年間。有名と聞けば人間、魔族問わず力を奪ってきたわ。でも、青と魔の賢人達はその力が桁違いだったわね。お陰で壺もほぼ満たされたわ」
クダラの言葉の中に、チロルが無視出来ない固有名詞があった。
「ガジスト一族さん!その賢人達の中に、三十代半ばの冴えない加齢臭を放つ男性は居ませんでしたか!?」
チロルが瞳を見開き、クダラに叫んだ。
「······さあどうかしら?それだけの情報じゃ、まるで分からないわお嬢さん」
「小銭稼ぎと貯蓄が、三度のご飯より好きな人間です!女性には全くもてず、隠棲を誰より望んでいる無気力な性格で、あと私が装備してるようなボロボロの革の鎧を身に着けていた筈です!!
」
チロルの絶叫に、ラストルは内心驚いていた。チロルのここ迄の感情の揺れは、いつ以来だっただろうか。
そしてラストルは、心の奥底に鈍い痛みを覚えた。いつからだろうか。チロルがタクボの事で感情を荒げる時、この痛みを感じるようになったのは。
「······そう言えばいたかしら?お嬢さんと同じ、廃棄した方が良さそうな革の鎧を着た男が」
リックは信じられない気持ちでクダラを眺める。あの鉄仮面のように無表情のクダラが、僅かとは言え、困惑したような表情をしていた。
「いずれにしても、あまり期待しない方が、いいわよお嬢さん。戦闘の最中の事だし、何より青と魔の賢人達は一部の脱出者以外、全滅しのだから」
「全滅!?青と魔の賢人達が全滅したと言ったか!?」
ヒマルヤが思わず声を荒げた。世界の歴史を裏から操っていたあの組織が滅んだなど、にわかに信じられる事では無かった。
「······なら、その逃げた人達の中に師匠は必ずいる筈です。師匠の逃げ足は、誰よりも早いんですから」
次々と耳に入る情報に、チロルは必死に動揺を抑えつけた。だが、タクボの有力な目撃情報に、チロルは冷静さを欠いていた。
「チロル!上だ!黒髪が来る!!」
ラストルが叫びチロルに危機を知らせる。チロルの反応は一瞬遅れ、黒髪はチロルの首を拘束しようとした。
だが、黒髪がチロルの首に触れる瞬間、黒髪は切断され散った
。夕闇に包まれようとした泉のほとりで、黄金の剣が煌めいた。
「······オルギス!」
クダラの表情が、凄絶な憎しみの色に一変する。憎しみの視線を注がれた相手は、不敵に笑みを浮かべた。
「千年ぶりと言っておこうか?ガジスト一族の正統後継者よ」
オルギス皇帝とガジスト一族。千年の時を経て、一方は肉体を変え、一方は子孫が継承した憎しみの記憶を携え、両者は対峙した。




