表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
SR満州戦記1  作者: 異不丸
第一章 昭和二〇年八月一日
7/29

五 就眠


国都新京、中央通


 四人が出て行った後も、しばらくの間、甘粕は考え事をしていた。それから、寝室に行く。竹林は甘粕のベッドで寝ていて、ユーリ医師の夫人が脇の椅子からみていた。白いエプロンの正子夫人は看護婦で、今晩は徹夜で輸液の調整をする。酸素瓶も持ち込まれていた。

「呼吸も脈も安定しています」

「そうですか」

「心拍は強くなりました」

「ありがとう」

 甘粕は竹林の寝顔をしばらく見つめた後、寝室を出る。後から夫人が声をかけた。手に紅い液体の入ったグラスを持っていた。

「理事長もこれを飲んでください」

「ジュースですか」

「電解を調整してあります」

「輸液と同じですね。いただきましょう」

「同じ量の水も飲んでください」

「トマト味かな、ヴォトカを入れるとうまそうだ」

「気絶しても知りませんよ」

「わかりました」


 長椅子に寝そべってみたが、甘粕は、なかなか寝付けない。しばらく、竹林と竜島の対決の場面を想像してみる。実際に、二人は対峙したのか。そして、竜島が自身で発砲したのだろうか。竹林は慎重だから、みすみす撃たれるような無防備な状況は避けるだろう。竜島とて機密を抱えているのならば、のこのこと参上しないはずだ。それに、直接に対峙して解決できる事か。本当に帝国の枢要に関するのなら、二人の対決で治まるものでもあるまい。

 まず、二人がなぜ対峙する必要があった。片方が秘密を隠し通していて、まだ全貌が知れていないのか。邪魔者を抹殺するだけなら、人を雇えばいい。何度でもやり直しできるし、確実だ。妨害を排除したいのなら、それぞれ背後の勢力を使うだろう。とすれば、交渉だ。どちらも相手側の総てを否定したい訳ではない。行動の一部を阻止したいか、目的や条件を変えさせたい。

 竹林はたしかに宇垣大将の側にいた。それは、東条内閣倒閣、そして東條首相暗殺の陰謀を察知した頃だった。反東条派閥の重心には常に近衛文麿がいて、後継首班として宇垣一成がいた。情勢が動いたのは、マリアナ沖の海戦だ。連合艦隊の敗北でサイパン陥落は必至となった。それで木戸内府が東條から離れた。


 喉が渇いたので、甘粕は起き上ってグラスの残りを煽り、さらに水を飲んだ。煙草に火を点ける。


 東條首相暗殺計画は、東条内閣の成立以来いくつもあったが、甘粕が最も危険と感じたのは、大本営陸海軍両部長、すなわち東條参謀総長と嶋田軍令部総長の二人がサイパン放棄を上奏したときだ。その時、二つの暗殺計画が進行していた。一つは海軍将校、もう一つは陸軍将校が主導するものだった。二つの計画の関連とその背後を明らかにするために、甘粕は、東京の帝国ホテルで自ら指揮を執っていた。

 二つの暗殺計画の間に関連はなかった。首相の護衛は万全で、憲兵隊と高等警察の捜査も遺漏なく進んでいる。安堵した甘粕はその報告のために東條の私邸に向かった。そして、その途上で、竹林を見かけた。三つめの暗殺計画の存在に思い当たったのはその時である。甘粕は車を降りると、歩いて東條の私邸に入った。

 その日から離日するまで、甘粕は東條の傍にいた。私邸だけでなく官邸にも泊り込み、来客の際には同席するか、隣の部屋にいる。竹林を感じたのは三度、翼賛政治会の阿部総裁が来訪した二回と、後継首班に決まった小磯朝鮮総督が来訪した一回だった。甘粕は、小磯内閣が成立してから十日後に帰満する。結局、暗殺計画は三つとも実行されなかった。


 甘粕は立ち上がって机に行くと、新しいグラスにスコッチを注ぐ。寝酒のつもりだから氷は入れない。


 三つの計画は内閣が交代すると消散したが、二つめを主導した参謀本部編制動員課の少佐は、宮様を巻き込んでいたので逮捕された。三つめに竹林が関与していたのは間違いない。すると、竜島は一つめの線上にいるのか。前面にいたのは海軍大佐や中佐だが、背後は岡田や米内らの、いつもの海軍長老たちだ。

 小磯内閣は、実は陸海軍連立内閣であり、総理は米内とするのが本筋だ。米内が遠慮したので小磯大将が首相となったいきさつがある。しかし、小磯内閣が瓦解しても米内海相は残留したから、当初から海軍内閣で一貫しているともいえる。まさに古狸の深謀遠慮だ。

 つまり、小磯首相の背後にいた宇垣大将は切られたのだな。理由は何だろう。海軍の方針に、小磯ないし宇垣、あるいは陸軍が邪魔だったということか。


 酔いが回ってきたようだ。灰皿を確認すると、甘粕は目を閉じる。


 宇垣派が推す小磯首相の政策は、海軍長老派の反対に遭い、内閣は倒れた。次の鈴木内閣は海軍の方針を引き継いでいる。総理大臣の鈴木貫太郎海軍大将と海軍大臣の米内光政海軍大将は、海軍長老派そのものだ。両者の対立は、それぞれ竹林と竜島を代表として満州でも続いている。そして竹林は、今。

 何をしてほしいのだろう。晃彦、何がほしい、晃彦。甘粕は二度、名前を呼んでみたが、返事はない。甘粕は、眠りに落ちた。



挿絵(By みてみん)




 本間は二〇二号室で作業を続けていた。機関の成員で今も動ける者たちを列挙する。東条内閣が解散した後、活動はほとんど停止していた。すぐには動けないだろう。この一年の間に帰国した者もいたし、引退した者もいる。本間は頭を捻りながら続ける。

 秋草情報部長が属する情報課はともかく、作戦課や参謀らに繋がる者は外したほうがいい。すると、日本人は満州国官吏か満鉄職員がほとんどとなる。あとは、商店や料理屋の主人らだが、この時局では、むしろ閉めさせたほうがいいかもしれない。

 本間が、新京、奉天、哈爾濱、大連の大都市を終えて、国境省に移ろうという時、加茂と比良が戻って来た。二人とも協和会服で、秋草少将はいない。時計を見ると、日付が変わろうとしていた。


「秋草閣下はどうされた」

「軍人会館に送ってきた。さすがにこの時間だ。閣下は目立つ」

「そうだな。それで着替えたのか」

「ああ」


 出張してきた高級軍人を泊める日満軍人会館は、関東軍総司令部のすぐ南にあった。西には、忠霊塔を取り巻くように、総司令官、総参謀長、幹部要員の官舎がある。そこからヤマトホテル東側の日本橋通、吉野町との間は、料亭やカフェでの接待や慰労に行き来する軍人たちで賑わうが、この時局でこの時間だ。

 加茂はポケットから、九四式拳銃を取り出すと、本間に渡す。中に仕込まれたカメラで撮影した書類があるらしい。


「はじめてみる。どういう場面で使うのだ」

「閣下のものだ。なんでも、捕虜になった時に使うらしい」

「敵に捕まったとき?」

「ああ。高級将校は拳銃の携帯が許される。弾は抜かれるがな」

「生還するのが中野流か」


 三人はそれぞれの作業に入った。本間は要員一覧の作成を中止して、バスルームで現像をはじめる。撮影した文書は、加茂と比良が記憶した情報と対照されるからだ。早朝までに、秋草や甘粕が分析できるように揃えておかねばならない。時間はあまりない。それは、記憶を再現しようとする加茂や比良も同じだった。



 一般に、記憶は時間の経過と共に薄れる。それは脳細胞の老化や死滅、新生と置換によるものとされていた。しかし、長い年月が経っても忘れない体験があり、鮮やかに蘇る情景もある。

 陸軍科学研究所によると、知識や経験はそのままひとつずつ記憶されるのではなく、種類や系列によって、脳内の別々の場所に置かれるらしい。そして必要に応じて結び付けられる。それが記憶と再生の原理だという。

 文書は、日付、番号、名称、形式、内容に分解され、抽象化された上で記憶される。経験や体験も、時系列の順番ではなく、個体にとっての重要度や関心度によって分類され、異なる場所に振り分けられる。

 情報を抽象化し、分類する能力は個人によって異なるが、脳の機能が完成する十代までの学習の影響が大きい。二十を過ぎると脳の老化が始まるが、技能習得により抑制できる。抽象化と結びつけは能力上昇も期待できる。それが、陸軍科学研究所式の記憶術だ。

 記憶術にはいろいろあって、人によって向き不向きがある。数字に強い者、文字に強い者。文章をそのまま覚える者や、内容を理解しないと覚えきれない者もいる。絵や風景を覚えるのが得意な者もいた。それらは情報を抽象化する能力に因るらしい。記憶の質と量の両方を追究すると、いくつかの方法を組み合わせることになる。



 加茂は数字と記号に強かった。兵役の前は経理や銀行勤めだった。憲兵時代も、番号や名前、単語を覚えるのが得意で、違えたことはない。満鉄に入ってからは、サービスダイヤグラム、つまり運行図表の作成に携わっていた。

 秋草に指定された書類を次々と記憶してきたが、今、それを再生しようとしていた。マグネトフォンに向かって、ぶつぶつと覚えたままに吐き出す。加茂の脳内では、「日、白、百、早」が「ヒ、ノ、一ノ、十」と記憶されて、同書式の文書は行ごとに仕分けられているらしい。

 一枚目第一行の次は二枚目第一行、三枚目第一行と続く。最終枚までいったら、次は第二行である。同じ数字や語は省略される。書類が大量の場合は、帳面に書くより録音する方が能率がいい。加茂は喋り続ける。


 比良も陸軍科学研究所式の記憶術は一通りできるが、今夜は絵として記憶していた。竜島の鞄の書類や手帳は書式も大きさも罫線も共通点がなかったからだ。子供の頃、図工が好きで絵はいつも優等だった。満州に来てからは、土木建設現場の監督見習いから始めて、図面も描ける。

 机の上に紙を拡げ、炭で全体をなぞり、クレパスで色や形を描き込む。比良の頭の中で、数字や文字は色や形として抽象化されているらしい。図面とも抽象画ともいえぬものが出来上がると、比良は鉛筆で文字を書き込む。ぼやけた「木」が「米」となり、緑の「■」が「國」に変わる。



 本間が室内に戻ると、二人は黙って机に向かっていた。ヘッドホンをつけた加茂は目を閉じていて、比良は数枚の絵を別の紙に写し取っている。最後の段階に入ったらしい。二人とも内容はまだ知らない。書類を「見た」が「読んで」はいないからだ。それは、防諜の面で有利だった。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ