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SR満州戦記1  作者: 異不丸
第一章 昭和二〇年八月一日
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三 始動


国都新京


 南満州鉄道嘱託の加茂安悟郎と満州航空嘱託の本間重生は、比良利一の急報を受けると、すぐに奉天駅に駆けつけ、出発間際の急行に飛び乗った。満鉄では、幹部職員用に二等席のいくつかを空けていて、この時局でも変わらない。加茂は職権を活用して席を確保したのだ。

 新京駅に着いた加茂と本間の二人は、改札口ではなく駅事務室を抜けて、ヤマトホテルに直行した。支配人が二〇二号室に案内する。部屋の中では、比良が待っていた。


 二人が一服すると、比良が説明を始めた。銃創の消毒は完全に済んで、肺に入った水もごくわずか。安静にしていれば一ヶ月で通常の生活に戻れるが、患者の修復機能は弱く、なにか別の疾患を持っているようだ。特別な薬を必要とする。

「死ぬことはないが、回復には時間がかかると」

「特殊な薬とは、まさか」

「アレではない。さっき、秋草閣下が持って来られた。懇意の軍医から入手されたそうだ」

 哈爾濱特務機関長の陸軍少将秋草俊は、甘粕家の縁戚だった。

「始末は終わったのか」

「ああ。警察に行って調書も済んだ。今晩は利三に現場を見張らせる。念のためだ」


 比良の次男の利三は中学四年だが、徴用されて同級生と一緒に比良の会社の飯場にいる。家業を手伝っているのと同じことだが、新京に長く日本人会の顔役の比良にとやかく言うものはいない。比良組は関東軍の土木工事を請け負っていた。

 国民徴用令や女子挺進勤労令が出された後も、在満の邦人が徴用されることは稀だったが、三月の国民勤労動員令に至ってはそうはいかない。すでに一月からの動員で四十代までの男子は根こそぎ召集されていたから、銃後の生産のためには女子供が働くしかなかった。

 本土では、六月の義勇兵役法により、十四、五の子供まで動員されることもある。実際に、沖縄では戦場に出されて戦死者も出たという。それを思えば、まだ満州は緩やかな方だった。満州は本土の兵站を担う大いなる後衛地であり、何よりも生産と供出が優先された。動いている工場や会社はまるごと国が収用しているのだ。



「竹林大尉か、すいぶんになる」

「あれから会ったことはない」

「俺もだ。甘粕さんはどうなのだ」

「満州に来てからは、ないそうだ」

 大正一二年九月一日の関東大地震で、彼らの人生は変わった。その時、三人と甘粕は、憲兵として東京にいたのだ。比良は東京憲兵隊本部の憲兵伍長で、加茂と本間は憲兵上等兵。甘粕は、麹町憲兵分隊長の憲兵大尉だった。四人はある事件の当事者となり軍法会議にかけられ、ついには軍歴を終えることとなった。当時、東京憲兵隊本部には、竹林歩兵大尉が頻繁に出入りしていた。


「満州に来てから十四年。比良さんは十六年か」

「ああ。よくやったと思うよ」

「大地震からは、もう二十二年になるのか」

「あの数年はつらかった」

「一時間前、大尉は俺のことを比良君と呼んだ」

「「お」」

 軍を追い出された格好の三人は不遇にあったが、満州に移住した甘粕に呼ばれて愁眉を開くことができた。あの不景気の時代に、数年間の下積みで家を構えることができたのは、甘粕大尉のおかげである。機関が創設されたのは昭和六年頃だったが、活発に活動したのは昭和一二年から昨年までの七年間だ。甘粕機関の任務中は、大尉は成員を「くん」づけで呼んだ。


「大尉と大尉は陸士二四の同期、恋人か」

「幼年学校から一緒だからな」

「それで、竹林さんはその参謀を追って来たのか?」

「南湖から竹林さんの鞄を回収した。一昨日から南新京駅の向こう側の商人宿に泊まっている」

「ほかには?」

「名刺は陸軍省報道班軍属だが、さて」

 利三が、さらしは何処から取り出したと言い出して、鞄を見つけた。通帳はなく、配給切符が数枚。旅行証明書には、東京から新京、公務取材とあった。宿には、使い古しの着替えと征露丸と仁丹。ありきたりの満鉄発行の観光地図に書き込みはない。手帳には汽車賃や宿代の出金記録だけ。それは、三人が出張るときに用意するものと同じだ。

 その者がその状況にあったという証跡には十分だ。だが、それ以外の行動はとらなかったという証拠にはならない。数ヶ月前から満州にいたかも知れないし、別の名前で別のホテルに泊まったことを否定するものでもない。要するに、怪しい者ではないという予断を与えるためで、数日間それが通用すれば十分なのだ。三人とも、隠密行の時は、そういうふうに準備してきた。

「今の竹林さんは同業者のようだな」

「「ああ」」



 三人はユーリと入れ替わりに二〇一号室に入った。ユーリ・グロメコは、ソ連から亡命して来た時、軍医だと名乗った。外科の腕前は一級だった。医者と言われるのが好きらしく、名前ではなくブラァチと呼ぶと喜ぶ。甘粕機関の専属医師になって、もう五年を超える。

 肘掛け椅子に深く座った甘粕は、かなり疲れた様子だった。

「困ったことになった。竹林は数日間は目覚めない。こちらで先に動くしかない」

 三人は黙って頷く。

「あの頃、彼は教育総監部本部長の下で動いていた。今もそうだとすれば、帝国の枢要に関係する筈だ」

 三人は深く頷いた。やはりあの事件には竹林大尉が関与していたのだと。今にして思えば、竹林は甘粕に会いに憲兵隊司令部に来ていた訳ではない。事件は、当初から陸軍省か内務省の上層部、つまり政府が関与したのではないかと目されていた。

 当時の本部長は宇垣一成。直後に陸軍次官となって事件の収拾にあたった。陸軍大臣、朝鮮総督となった陸軍大将。大反対を押し切って軍縮を断行した傑物だ。首相候補と目されたことも数回ある。七年前に外務大臣を最後に引退した。だが、昨年の東條内閣の後継首班の時にも有力視されて、まだまだ健在らしい。政治の中枢に関与していておかしくない。


『総軍参謀の竜島。仇はあとでいい。大陸命が出された。擬装だ』

 甘粕が言う。

「それだけ言って手術に入った。それから昏睡したままだ。うわ言はない。比良君は何か聞いているか」

『奥さん、ありがとう。君は比良利一か。胸に一発喰らった。撃たれたのは今朝。自分でさらしを巻いた。すぐに巻いたから失血は少ないはずだ。甘粕が来るのか。頼む』

 比良が答えた。秋草が引き継ぐ。

「竜島とは、先月異動してきた作戦参謀の竜島隆三中佐。それまでは参謀本部の作戦課にいた。去年の暮れから二月までモスクワに出張している。大本営陸軍部命令は今年だけでも三十は出ているから、擬装と言われても、今すぐどれとは言えない。関東軍に関するものだろうが」

 竜島参謀は、緒戦の南方作戦から一貫して大本営陸軍部作戦課にあった。大東亜戦争のすべての作戦に関与している。少佐として作戦の実務も事務も把握している筈だ。また、中央の政略にも触れているだろう。


「帰国直後に中佐に昇進したということは、モスクワ出張は重要任務だったのですね」

「昇進の時期だったのかも知れん」

「ソ連が四月に出した中立条約の不延長通告に関係していますか」

「たかが少佐にそんな権限はない。せいぜい、対ソ交渉の条件と暗号書を持参したくらいだろう」

「今も続いていますね」

「もちろん、そうだ」

 鈴木内閣は戦争継続を標榜していたが、水面下では終戦工作もしているのは間違いない。だが、ポツダム宣言を拒否した今、どういう妙案があるのかは想像もつかない。ソ連は日ソ中立条約の不延長を通告して、連合国として参戦の構えだ。そこで、ソ連を参戦させずに中立に留める交渉が行なわれているらしい。

「それに関東軍の作戦が絡むと」

「さて」

 どういう政略なのか、全員が考え込むが、見当もつかない。


「宇垣大将や中央のことはここではわからん。竹林さんと竜島とは対向関係にある。竜島の周辺を探れば何かわかる。作戦課の情報は、私もほしい」

 関東軍司令部も参謀本部と同じで、情報は一方通行だ。関東軍情報部長の陸軍少将であっても、作戦課から情報が上がって来ることはない。作戦企図や目的は推察するしかなかった。戦略や目的を前提にすることができれば、情報収集の効率は飛躍的に上がるのだが、その実現性は全くなかった。

「情報はあそこにある。ちょっと覗いてやろう」

 全員が笑う。秋草が指差した南には、関東軍総司令部があった。

「これから押し入る。比良さん、手引きと見張りが要る」

「はい」

「信用できる憲兵か特務、それに司令部の軍属がほしい」

「用意します」

 四月に関東軍の憲兵と特務は解体され、第一、第二特別警備隊に再編成されて方面軍に配属された。哈爾濱特務機関長として持っていた新京の要員も影響を受けたのだろう。

「加茂君は作戦書や兵站計画が読める。秋草さんと一緒に行ってくれ」

「はい」

「本間君は隣にいてくれ。使える者の一覧がほしい」

「はい」


 四人が出ていこうとすると、甘粕も立ち上がった。本間が尋ねる。

「出かけるのですか」

「ああ、同期の秦が八千代で飲んでいるはずだ。総司令部の様子を聞いてみる」

 秋草が血相を変えて詰め寄った。

「甘粕さん、明日は通常通り出勤されるのでしょう」

「そのつもりだが」

「今日はもう休まれたがいい。五合も血を抜いたのです」

 三人はぎょっとした。

「日本人の血は多くても三升半、一割も減ればおかしくなる。酒席に出て口をつけないわけにはいかない」

「そうだな」

「総参謀長の秦中将は竜島の上官でもある。私は四月の満内防空警備会議で秦中将に会ったが、感じることがありました」

「どういうことだ」

「大方の反対を押し切って、憲兵と特務を解体するのを決定したのは総参謀長。訓練された諜報要員を散兵に使う愚はおわかりでしょう。中共やソ連の間者の浸透を食い止められない」

 しばらく、部屋の中を重い沈黙が支配した。

「君の言うとおりだな。熱くなっていたようだ」

 全員が深い息を吐いた。





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