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SR満州戦記1  作者: 異不丸
第一章 昭和二〇年八月一日
3/29

一 再会


国都新京


 満州映画協会理事長の甘粕正彦は、撮影所の理事長室にいた。いつもの通り、九時前に出勤したのだが、今朝は仕事が手につかない。胸騒ぎがして、意識を集中できないのだ。書類の上に置いた左手の指先に、どくどくという脈動を感じる。目を瞑ると血管と血流が見えるようであり、耳の奥の血脈の音も聞こえそうだった。

 甘粕は座ったまま、軽く首を振った。おかしい、何だろう。もう五十五になるから、身体の異状があってもおかしくはない。しかし、それとは違うようだ。自分ではなく他の誰かの異状を伝えているのかも知れない。虫の知らせというやつか。甘粕は朝からの行動を振り返ってみた。

 ヤマトホテルで目を覚まし、朝食をとった。いつもの時間割りで異常はない。部屋に戻り、着替えて。いや、今日は違った。新聞を読んでいる途中でのどが渇いた。何の記事だったか。はっと思い出した。その時、胸に痛みを覚えたのだ。鋭く熱い痛みだった。

 しばらくの間、甘粕は胸に手を当てていた。なぜ忘れていたのだろう。それは新聞の記事のせいかもしれない。執務机をはなれ、窓に向かう。後ろ手を組んで窓際に立ったが、外の風景は目に映らなかった。


挿絵(By みてみん)



 満映の撮影所は洪熙街にある。新京駅の南西、安民広場のさらに西の新興地だ。市の郊外であり、むしろ南新京駅に近い。甘粕が理事長に就任して来た頃は、周りはまだ閑散としたものだった。あれから六年が経ち、今は街路が整い、ビルや家屋も増えた。国都建設の重心は、南東部の南嶺から南西部へ移っていた。

 繁栄する満州国と新京市、だが後ろ盾である日本は敗戦に向かいつつある。大日本帝国が滅びれば、時を同じくして満洲帝国も滅亡するしかない。沖縄が落ちた今、早ければこの秋、米軍は本土へ上陸するだろう。戦力は来春まで十分持つ。だが、国民が冬を越せるかどうか。ここは大丈夫だが、本土はどうだ。収穫も供出も目標以上だというのに、海運が安心できない。

 いまのところ満州と朝鮮はまあ平穏ではあるが、本土が上陸占領されたとなれば無事では済むまい。ソ連の動向も不穏である。先月の大本営の世界情勢判断ではソ連の侵攻は来年以降だと言う。が、満ソ国境からの情報は楽観を許さない。関東軍は今月末か来月の来襲もあり得るとしていた。

 時局収集を図る日本政府は、しかし、先週の連合国ポツダム宣言を拒否した。講和による終戦はあきらめたのだろうか。交渉中だから否定したのか、条件を全否定なのか、新聞各社だけでなく、政府内閣も混乱しているようだ。それがソ連に与える影響は大きいと、甘粕の勘は囁く。


 いずれにしても、満州だけ生き残るすべはあるまい。先月、関東州の自宅に帰省して家族には会った。別れを告げたつもりだ。甘粕の家は大連市星ヶ浦にあり、三階建ての洋館である。妻と次女と長男が留守をしていた。和子は芙蓉高等女学校の四年生、忠男は大連中学校二年生で、もう子供ではない。忠男には刀を渡した。

 ならば、満映の始末だ。国策会社だから、そのまま満州国に返すだけだ。社員たちには退職金の名目で当座の金を渡すとして、現金が要る。満人は何とかするだろう、支那人に戻るだけだ。日本人は、満州に骨を埋める訳にはいかない。守ってやるしかない。あるいは送り届ける。どこか無事な送り先があるだろうか。

 そう、満映社員たちの行く末だ。戦後も会社が営業できればいい。だが、俺が考えるべきは最悪の場合だ。国府軍ではなく中共軍、さらにはソ連軍に占領された場合だ。ここ新京は支那よりもソ連に近い。甘粕の考えは、今日もまた、ここ数ヶ月繰り返している思慮に帰結した。



 その時、ドアがノックされ、秘書が入って来た。

「理事長、至急の要件で比良社長がお見えです」

 甘粕は眼を瞬いた。

「通しなさい」

 入って来た比良組の社長、比良利一は、背広を羽織っていたが、下はニッカポッカで、編上げ靴の泥は落としきれてない。工事現場からそのまま駆け込んで来たらしい。ドアが閉められると、立ったまま一気に話す。

「竹林さんが撃たれて重態です。ブラァチを呼びました」

 甘粕は目を見開いた。口の中で名前を二度呟くと、言った。

「晃彦なのか」

「はい。胸です」

 答えた比良は、右手でピストルをつくり、左胸を指す。

 執務机を振り返りながら甘粕が言う。

「意識はあるのか」

「あります」


 甘粕の決断は早い。先に立って部屋を出る。あわてて比良が後を追う。廊下で会った秘書に、出かけるから部屋に鍵をかけておくようにと申し付ける。玄関を出て比良のトラックに乗り込むと、言った。

「行こう」

「はい」

 比良はトラックを発進させ、通りに出ると話し始めた。

「湖西会館の先の、うちの道具小屋に寝かせて、家内が見ています」

「小屋の近くに倒れていました。三〇分ほど前です」

「家内が見つけました。駅に向かっていたようで」

 比良は強引に大路を横切り、黄龍公園に乗り入れた。縁石を踏んでトラックががたがたと揺れる。

「撃たれたのは今朝。しばらくじっとしていた」

「胸に一発喰らった。自分でさらしを巻いた」

「銃弾は貫通。すぐに巻いたから失血は少ない筈だ」

 甘粕は黙って聞いているが、顔は真っ赤だ。

「…そう言ってます」

「あっはっは」

 突然、甘粕が笑い出した。

「えっ」

「晃彦の心臓は右にある。あいつめ」

「ええっ」


 湖西会館は満州映画協会の迎賓館で至近にある。試写会に招いた賓客をもてなすから、景色のいい南湖湖畔にあった。繁華街の喧騒を嫌う客のために宿泊もできる。南湖の西岸一帯は黄龍公園に整備されていた。撮影所からは裏手、つまり東側にあたる。南新京駅からだと、洪熙街、黄龍公園、南湖、建国忠霊廟の順で、建国広場の先が南嶺だ。

 南嶺は文教地区として開発されていて、建国大学、大同学院、新京医科大学などの高等教育機関と高級住宅街がある。もともと日露戦争の戦跡地だから、古くから軍の諸機関や宿舎も多くあった。竹林の往事を想うと、甘粕は軍が絡んでいるような予感がした。陸軍士官学校二四期の同期生だ。



 比良は、小屋の囲いの手前でトラックを止め、喇叭を鳴らした。微妙な調子を聞き分け、小屋から女性が飛び出してくる。もんぺはともかく、地下足袋を履いたお内儀を見るのは初めてだなと、すでに降り立った甘粕は思う。

 深くお辞儀をした比良の家内は、がちゃがちゃと囲いの南京錠を開けようとする。が、うまくいかない。甘粕を見上げて、またお辞儀をする。

 待ちきれない比良が怒鳴る。

「ブラァチはまだか」

「利三はまだ戻りません」

「ええい。竹林さんはどうだ」

「発汗がはじまりました」

「なんだって」

「汗。あ、あ、開いた」


 囲いの中を甘粕はずんずんと進み、小屋の中に入った。戸のすぐ内側にはアンペラが垂らしてあった。かまわず片手で開く。中は明るく、そう暑くもなかった。あり合わせの木箱とアンペラで作られた寝台の上に男がいる。壁板にはあちこちに大穴が穿たれ、日が入り風が抜けていた。比良の女房が鶴嘴で打ち抜いたらしい。

 仰向けになった男は、国民服を開かれ、胸から腹までいろんな布で覆われていた。比良社長の半纏、女房の前掛け、それに手拭い。血がどす黒く滲んでいる。もちろん、自分で巻いたというさらしは見えないから、新たな出血があったかはわからない。顔面に玉の汗をかき、半眼で、口で息をしている。竹林晃彦だった。


 甘粕は屈み込んだ。

「来たよ、晃彦」

「正彦、遅いよ」

 返事する竹林の眼は、しかし、ゆっくりとしか動かない。

「しくじったね、晃彦。苦しいかい」

「うん。元気をくれよ、正彦」

 そう言うと、竹林はひゅーと息をついた。

「わかった」

 甘粕は口をつけると溜まった塊を吸い出してやった。ハンカチに出す、紅い。膿はないようだ。

「どうだい」

「楽になった」

「誰にやられた」

「総軍参謀の竜島。でも、仇はあとでいい」

「何をして欲しい」

「だ、いりくめ、いがだ、された」

 バン、バンバン、バーン。ブロロロロォォー。


 突然、外からエンジンの音や車の音がした。

「うん。それから」

「ぎ、そ、うだ」

「ソコマデダ!テヲアゲロー」

 大声と大男と酒の臭いが一度に入って来た。ブラァチが着いたのだ。

「安心して、晃彦」

「えー」

 何か言おうとした竹林の口を、甘粕は接吻で塞いだ。

「マァサヒコォ、オレノジカンダ。コレカラオタノシミダ」

 ブラァチが甘粕を睨みつける。白衣のあちこちに茶色の染みがあった。

「頼む」

 甘粕は身を引いた。先生に続いて白いエプロンの正子夫人が宣言する。

「宅はさきほどまで米国映画を鑑賞してましたのよ。誓って二杯だけですことよ」

 そして、出刃包丁で竹林の着衣を切り刻み始めた。

 比良社長の次男で先生を迎えて来た利三が、バケツで水を運んで来る。先生愛用のくろがね四起から鍋やら釜やらが下ろされる。比良と女房は火を準備する。先生はなぜ自分が呼ばれたか理解している。ここではじめるつもりだ。甘粕は安心した途端に煙草が欲しくなった。

 竹林は観念したのか、さっきから身じろぎもしない。




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