開戦
于匣屯
あれから銃撃はなかった。夜が明けるとソ軍部隊は撤収していった。一時は玉砕を覚悟した新橋監視哨の兵隊たちは安堵した。森尾少尉は中隊本部に報告すると、帰り支度を始める。しかし、少尉が出立する前に、再び状況は急変した。対岸のソ連領内で信号弾が上がり、砲列の発砲炎が続く。着弾した砲弾は濛々と白煙を上げた。視察班は煙幕の隙間を透かし見ようとする。
「大隊以上の部隊が集結、渡河して来る!」
「わからん、撤収したのではなかったのか」
「発砲炎!銃火多数」
飛翔音が交差し、監視哨は土煙に覆われた。さらに、甲高い金属音が落ちてきて、爆発が起こった。
「迫撃砲です。狙われています」
「違う、彼奴らは監視哨を発見できなかった」
「あの電信を信じるのですか」
大森曹長と森尾少尉の会話は何度も途切れた。
「報告!南方に多数の閃光。ソ軍の野砲と思われる」
「対岸の北で連続した砲火。一斉射撃と認む」
新橋監視哨の右手では煙幕の中での上陸が続いており、ソ連兵が銃撃しながら西へ進撃していく。于匣屯を外れた北や南では重砲の一斉射撃が始まった。
「少尉、本格的な侵攻作戦に見えますが」
「事前砲撃か。定石どおりだな、曹長」
「すでに一個大隊に侵入されています」
「侮ったな、しっかり偵察されていたか」
中隊本部への報告は途中までしか出来なかった。どうやら砲撃で電話線が切断されたらしい。
「発砲許可をもらう前に切れたよ、曹長」
「かまわんでしょう。この兵力差では、反撃よりも監視です」
「そうだな、動哨を出そう。上陸したソ軍の行き先だ」
「はっ」
侵入したソ連軍は大きく迂回して大橋陣地の背後に回る態勢だった。予想された動きである。さらに上陸してくる部隊は、さらに先へと進撃するだろう。そして、背後への浸透が成った時に砲撃は止み、国境線からの一斉侵攻が始まる。
不通になった本部への電話の代わりに、新橋監視哨は九二式電話機でソ連部隊の動向を送り続けた。受信応答はないが、通じているのは間違いない。一個連隊のソ連部隊を二十人で攻撃しても意味はない。視察班の存在意義は情報の送信にあって、それが情勢判断や迎撃計画に役立てば戦果となる。
バ ー ン !
とてつもない爆発音と衝撃、爆風が入って来た。監視哨は土台から震え、全員が投げ出される。丸太の梁と土砂が落ちて来た。濛々たる土煙の中、起き上がった曹長は戦闘帽を手に掴むと、砲隊鏡に取り付いた。
「ソ連軍部隊に着弾!味方の砲撃です」
飛び出した軍刀を鞘に納めた少尉も双眼鏡を覗く。
「大橋陣地の山砲はここまで届かない。重砲だ」
曹長は得意そうに、少尉を振り返る。
「虎頭の列車加農ですよ。五十キロは届く」
リン リン リン
九二式電話機が鳴った。電信だった。虎頭も綏芬河も東寧も、東正面の全線に渡ってソ軍の全力砲撃を受けているという。
少尉は真顔で呟く。
「戦争が始まった」
「すでに戦場です、少尉どの」
奉天上空
早朝に新京飛行場を発った満州航空の三菱MC二〇は、連京線に沿って南下した。四平を過ぎて奉天上空に来ると、機はさらに西へ変針し、奉山線に沿うように飛ぶ。定期運航の満支線は新京から奉天、大連、天津というものだったが、今日の飛行は貸切であり、奉天から錦州、天津と最短距離をとる直行空路であった。
甘粕は、総務庁次長の王賢偉と国務総理の実子で秘書の張紹紀の二人に、これまでの和平工作について説明していた。新京を離陸してからずっと続けているが、なかなか前に進まない。王も張もかなり知悉しているのだが、断片は掴んでいても、全体像が見えないようだ。その理由の一つは、ソ連仲介による連合国との講和が飛躍的過ぎるらしかった。
「日支戦争は戦争相手の蒋介石と講和するのが筋です。同様に、日米戦争は米国と交渉すべきだ。ソ連と取引する理由は何もない」
「何度も言うが、陸軍は一貫して蒋介石との交渉を模索し続けて来た。対支和平で陸軍がまとまったのは一度だけではないし、破談した後も水面下で接触は保っている」
「なにが海軍をしてソ連仲介の講和とさせたのですか、甘粕さん」
「わたしにもわからないのです。陸軍は日支戦争の当事者ですから前線の国府軍とは往行がある。しかし」
「日米戦争の当事者である海軍は、米軍や米国との交錯を避けて来たと言うのですね」
三人の話は、堂々巡りをしていた。
「米国からの懲罰を怖れていると言われたが」
「すなわち、真珠湾攻撃が米国直接交渉を拒否した理由で、重慶爆撃が国民政府との直接交渉を忌避する理由だと」
甘粕はまた、何度目かの言葉を繰り返しながら思う。これは、蒋介石との交渉のために、支那流の交渉術を習う機会でもあった。倦んではいけない。
「先の大戦で敗北したドイツは軍備を禁止された。英国に次いで世界二位だった海軍は仏伊以下に落ち、元に戻らなかった。今次大戦で無条件降伏したドイツは国までも失った。国民の恨みはどこへ向かうか。ニュルンベルクでの裁判では事後法で行なわれ、開戦経緯も追求されるらしい。海軍の恐怖はあながち的外れともいえない」
「ソ連の仲介と言うのは、それもあるのですか」
海軍の動機については、竹林から詳しく聞いたが、甘粕自身がまだ納得していない。特に、ソ連に対する仲介報酬が信じられなかった。しかし、行政家で政治家である王次長ならば別の理解があるかもしれない。甘粕はそのまま話した。二人は唖然とする。
「われわれ大陸の人間にとって海軍は不可解です。あれだけの金と人と資源があれば、お国はもっと発展できた。日本の国家革新の方向は基盤からして間違っていたのです」
「同意しましょう。陸海軍は国防の深部に対してこそ、真摯に争うべきだったと」
頭を振った王は、ゆっくりと話し出す。
「たしかに国体護持は日本にとって最大事です。しかし、蒋総統との交渉では、その話は出ません。総統の領土内から撤退するだけです。その後に賠償の話が出るでしょうが、こちらにも交渉の札はある」
甘粕は深く頷いた。
満映撮影所
午前九時前、伊藤秘書は頭を下げて、車寄せに入って来た理事長車を迎える。後のドアを開いて、ハッとした。しかし、協和会服を着て眼鏡をかけた短髪の男は、ゆっくりと車から出る。
「早いね、伊藤さん。午後からでよかったのに」
「おはようございます、理事長。月曜日は早起きしてしまいます」
「そうだね。今週もよろしく頼むよ」
鞄を受け取ると、伊藤秘書は理事長の後に続く。
窓に向かい、煙草に火を点けようとすると、どたどたと廊下から足音がくる。ドアを開けたのは、労工協会の飯島理事だった。
「あ、あ、あ、甘粕。来たのか」
「どうした、飯島」
「げふん、ソ連軍の侵攻がはじまった。東正面では砲撃が、もう一時間も続いている。北は三江省の北岸で、北西は額爾克納河一帯で、渡河を開始した」
「わかった。正彦に連絡するのは天津に着く十分前でいい。あいつは仕事を持ち過ぎだ」
「俺たちは?」
「山ほどあるぞ」
理事長室を出た二人は、第三スタヂオに向かう。
哈爾濱特務機関本部
関東軍総司令部への入電は、哈特でも捉えられた。広島への新型爆弾投下で大本営は混乱している。関東軍総司令部からのソ連軍侵攻の急報は宙に浮いてしまった。目の前の変事が優先されるのは仕方がない。
「総参謀長も驚愕しただろう。ソ軍侵攻が後回しされるとは」
「よほどの威力ですね、新型爆弾は」
「総務班長、外務省は?」
「さきほど、モスクワに電報を打ちました」
「そうか。さて状況五だ」
「はい」
ファンファーレに続いて主題がはじまる。状況五を告げたのはマーラーの交響曲第五番だった。重く不吉な旋律と作曲家の指示書きから葬送行進曲と呼ばれる。最終楽章に向けて徐々に明るい雰囲気を増していくこの曲には、戦争を思わせる動機や展開があちこちにあった。しかし、最後まで聴かないとわからないのだ。秋草少将は一人頷く。
咥えた煙草に火を点けると、秋草は尋ねた。
「班長は極光を見たことがあるか」
「あります、シベリアで」
「ほう。どうだった?」
「天国へ誘う灯ですね、やさしくきれいな投影でした」
「そうか。煉獄への誘いならどうだろう」
「きっと、目が眩む閃光ですよ」
SR満州戦記1 完




