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SR満州戦記1  作者: 異不丸
第五章 八月五日
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五 覚醒


国都新京、洪熙街


 第三スタヂオの総司令官室で、加茂参謀が甘粕総司令官と飯島総参謀長に報告していた。

「黒山頭と于匣屯の二つのソ軍越境事件に対する当面の方針を秦総参謀長が決裁しました。状況判断は、両事件ともにソ軍の本格侵攻とする事由は見当たらない、これまでの越境騒乱事件と同様に扱うというものです」

 甘粕と飯島は憮然とした。あのフイルムは評価されないのか。

「作戦課長の松村が無視するとは思えんが、やはり秦かな」

 飯島が引き伸ばされた写真を見ながら愚痴った。額爾克納河を渡ろうとするソ連軍が写っている。数箇所の光点は対空砲火だ。

「各軍への指示が三つあります。注意の喚起、前線兵団長と部隊長の出張禁止、それと静謐保持です」

「出張禁止は踏み込んだな」


 しかし、甘粕は不満そうに問う。

「それだけか」

「竜島が食い下がった居留民避退の件については、阿南陸相から言質を取ったようです。明日の閣議に諮ると」

「関東軍と対立する可能性が出て来たか」

「どうだ、半田」

 飯島が第二スタヂオから来ている半田次長に尋ねる。

「明日の午後なら、国境線から二百キロは下がっている。ただ、間島省は無理だ。京図線がいっぱいでな。朝鮮に向けるか?」

「京図線は軍も使うからな。よし、朝鮮に下げよう。咸興の櫛淵と琿春の中村に電話する」

 そう言って、飯島は机の電話を取る。櫛淵中将は北東朝鮮を担任する第三四軍司令官、中村中将は間島省駐屯の第一一二師団長で、両人ともに陸士二四期だった。


 半田も甘粕も、たいしたものだと感心しながら見つめる。飯島は、たった二日で満州各地の関東軍兵団幹部との人脈を構築していた。陸士同期生を主軸としたものだったが、甘粕のものとは違って穴がない。足りないところは、憲兵や特務を使って相手の弱みまで調べつくしたのだ。人間の機微に対して硬軟、緩急を使い分ける手練手管は、正しく飯島の真骨頂であった。

 満州国軍政部最高顧問の秋山義隆中将も陸士二四期で、国軍への手当てはとっくについていた。総司令部で後方兵站を担当する第三課、軍政特務を担当する第四課には甘粕機関の要員が配置してあり、関東軍憲兵隊と同じく親戚みたいなものである。作戦担当の第一課や情報の第二課も動きがあれば警報が入るようになっていた。





浜江省哈爾浜、新市街区車站街


 哈爾浜特務機関本部の機関長執務室では、秋草少将が総務班長と各作戦の進捗を確認していた。壁の地図は中亜から北太平洋までと広い。

「羅北の森林警備隊からです。鶴崗炭鉱の中共分子三十名を拘束しました」

「ご苦労さん。北は掃除できたな」

「避難する民間人まで阻止するとは混乱狙いですかね」

「ソ連領内に連行できるのは戦争捕虜だけで、民間人は無理だ」

「つまり中共が満州で使役すると」

「共産主義では、労働は崇高な権利だ」

 一昨日捕縛したソ連工作員の任務は判明し、これを潰した。前線後方での大規模な蜂起によって交通路を遮断し、関東軍の移動と居留邦人の避難を阻止するのが主たる目的だった。

「これで第一三四師団の後方は安定しました。戦闘に専念できます」


 黒竜江沿いの北満州に侵攻するソ連軍は、二個軍を持つ第2極東方面軍である。黒河正面に第2赤旗軍が渡河して来るのは判明していた。もう一個の第15軍の配置と任務が確認できていなかったが、一昨日、同江を中心とする三江省北岸に上陸して、佳木斯へ進撃するものと確定するに至った。

「黒河正面は助軍で、松花江から遡上するのが主軍ですか」

「満州全体でも、東正面が助攻で西正面が主攻だ。兵力が潤沢だから正攻法がとれるのだな」

 第一三四師団が展開する佳木斯周辺が安定する意義は大きい。第15軍は、第2赤旗軍と同じく狙撃師団三個と戦車旅団三個から成る。佳木斯を抜いて哈爾浜を窺えば、第四軍は浮き足立たざるを得ない。逆に一三四師が佳木斯前面で奮戦できれば、第四軍は背後を気にすることなく、海拉爾正面と黒河正面に集中できる。


 哈爾浜は奉天に次ぐ満州第二の大都市で、およそ七十万の人口があり、五万を超える日本人がいた。物資の生産集積地であり、大規模な軍を養える。大規模な空襲さえなければ、避退してくる邦人をかなり収容できた。新京からの連絡では、邦人と満人を合わせて二十五万人ほど計画しているという。哈爾浜の早期陥落は、満州防衛にも避退計画にも大きく影響する。

「収容は新京以南ではなかったのですか」

「図演の結果だ。四平の能力が足りない。満人が増えたからな」

「関特演の時に、満鉄は三十万の兵力を一日で輸送しました」

「兵隊ではない、収容施設が要る。これがないと駅も鉄路も溢れてしまう」

「労働力としては貴重ですね」

「働かざる者食うべからず、だな」



 大兵力を展開できたソ連軍は、無警告開戦奇襲、全国境線同時突破、さらに主攻に対する助攻など、およそ考えられる作戦を総動員しようとしていた。北西の海拉爾正面や北の黒河正面は、助攻たる東正面作戦へのさらなる助攻だったが、それでも主作戦と支作戦からなっている。

 哈爾浜特務機関は情報機関であるが、配下に実戦部隊も持っていた。日満露混成の特別部隊一千名である。兵数だけなら大隊規模だが、遊撃戦に特化した特殊部隊としてみれば一個連隊の戦力が期待できる。情報機関としての能力と合わせれば、哈特は師団司令部として機能できるだろう。ソ連軍の目論見を一つ一つ各個に不能にしていく。それが秋草の考えだった。


 奇襲を防ぐには警告だけでは不足である。実弾が配られていない兵隊は、咄嗟応戦ができずに逃げ惑うだけだ。砲兵が反撃するには、砲側に砲弾が積まれていなければならない。また、兵営で寝起きしていては最初の一発で全滅だ。平時の兵営や司令部はソ連軍砲兵に照準されているだろう。国境の兵員は全員が陣地に入り、糧秣・弾薬は搬入されてなければならない。

 国境勤務は戦地勤務であるから、実弾配布の敷居は低い。しかし、砲側に砲弾を積むのは戦闘態勢であるから、かなりの覚悟を要した。さらに、兵営を捨てて陣地入りするには、不退転の決心が欠かせない。それをやらせるのだから、警告のやり方にも工夫が必要だった。作戦主任参謀が現地入りして直接に説くことには、それだけの影響力がある。


 全線同時突破に対しては、秋草はそれほど心配していなかった。まず全線同時というのが戦略的に効果があるものなのか。関東軍では、各方面は独立して戦うのを前提としていた。相互に支援し合うほど近接しておらず、航空兵力も限られている。兵力不足では配置された位置での各個持久しかできない。混乱するのは新京の総司令部ぐらいだろう。

 同時といっても同日の内ぐらいの意味で、同時刻はありえない。各戦線の条件が違うからだ。狭い川を渡るだけの東正面に限っては、同時同分に砲兵の支援砲撃から全線にわたる一斉突破が定石だ。西正面では越境にあたっての障害がないから、国境に達した部隊ごとに進撃が行なわれるだろう。北は黒竜江を渡河するのに河川の要件が必要で、かなり遅れる。北西も渡河後の再集結と再編成が必要だ。


 ただし、戦術的には、西正面で同時突破がなされるかは重要な意味を持つ。防衛線に厚みをもたせるほどの兵力はなく、後方で機動する予備戦力もない。防御の拠点となる要塞や塹壕網はなく、陣地は兵隊が掘った個人壕だ。第三方面軍では第四四軍の布陣を大きく変更したが、所詮は歩兵師団三個と戦車旅団一個の戦力しかない。八百キロにわたる西正面前線に配するには、あまりにも乏しかった。

 これに対して、ソ連ザバイカル方面軍は二個軍をあててくる。戦車師団二個と狙撃師団五個に、四個旅団と予備を持つ。第四四軍の倍以上の戦力であるが、やはり八百キロの前線全体に展開するには不足だ。おそらく三つか四つの攻撃軸で突進して来るだろう。この攻撃を各兵団の正面に誘致できれば、後衛の第三〇軍の展開と、連京線沿線都市の防衛築城に有利に働く。


「やはり西正面だな」

「海拉爾出張所が再編成を完結しました。まもなく出立します」

「松花江騎兵部隊の渡河は明日か」

「うまく同期できますかね」

「同期できなくても作戦は成立する。それより無警告攻撃だ。連合国が割れるかも知れん」

「割れる確率は四十五パーセントです」

「人の心に猜疑を生むには十分だ。一度生まれた疑心は消えることはない」

「そうでした。数値だけでは見誤りますね」

「ポツダム宣言に署名できなかったのは痛いな」

「大本営の決断にも影響するでしょう」

「総務班長、漠河の松花江騎兵部隊だが」

「はい」

「極光が見えるかな」

「え」





国都新京、中央通


 ヤマトホテルの二〇一号室の寝室からエプロン姿の正子夫人が出て来た。その表情に、居室で待機していた夫のグロメコ医師と比良は思わず立ち上がる。夫人は夫に頷きながら言った。

「血圧に変化。脈拍が増えて、体温も上昇中。覚醒の兆候と思われます」

「よし、診よう。トシイチ、マサヒコに連絡してくれ」

「わかった、ブラァチ。頼むぞ」

「任せろ」

 そう言って、先生は寝室に入って行った。





浜江省哈爾浜、郊外


 哈爾浜に駐屯する独立混成第一三一旅団長の宇部少将は、ボリショイ通り東端のロシア料理店で夕食をとっていた。テーブルの前には司令部附きの中尉がいる。旅団司令部には参謀はいない。旅団副官が参謀長役だ。

「竜島は帰ったか」

「はっ、旅団長どのは不在と告げると、そのまま次に向かわれました」

「ふん、どの竜島なのか」

「え」

「座れ。旅団副官の代わりに一杯どうだ」

「いえ、遠慮させていただきます。旅団副官どのより伝言があります。また、暗号電報が入りました」

「ほうほう。例によって第一〇国境守備隊宛てか、今度は何だ」

「それが解読しても記号と数字だけで、位置符号だとすれば河を渡った北になるそうです」

「哈爾浜防衛陣地か。そっちは本物らしいな、よし。司令部に戻るぞ」

「え」





牡丹江省、東寧県石門子


 歩兵第二八三連隊第七中隊特設増強対戦車小隊の兵営撤収は、直前に中止となった。総司令部の作戦主任参謀どのが一帯を視察しているらしい。

「何が問題なのだ。しっかり臨戦態勢を見てもらえばいい」

「その臨戦態勢がいけないらしい。静謐保持を見せないと」

「なんだと、まさか参謀はソ連軍か」


 一時間後、小隊は兵営を出て白刀山子に向かう。

「兵営を出たはいいが、開戦時の重砲射撃に耐えられる陣地があるのか」

「陣地はあるぞ。人間が耐えられないだけだ」

 坂道を登りながら、兵隊たちは東を見る。

「おい、見ろ。国境線の方が暗いぞ」

「ほんとうだ」

 このところ連日連夜、信号弾や照明弾が打ち上げられていたが、今夜は見えなかった。





国都新京、洪熙街


 満映撮影所の玄関で、甘粕は理事長車に乗り込んだ。

「日曜なのにご苦労だったね、伊藤さん。明日は昼からでいいよ」

「はい」

車のドアを閉めようとした秘書は、背後の怒声で動きを止める。

「待て、俺も行く」

 駆けて来たのは、満州労工協会の飯島理事だった。車が走り出すと、飯島は甘粕に告げる。

「澄田に連絡しておいた。あいつも似たようなことを考えていたらしい」

「誰と似たようなことだ。俺か、竜島か」

「あっはっは。冴えているぞ、甘粕」


 澄田来四郎は陸士二四期の首席で、陸大三三期でも首席を通した。軍歴から外れた甘粕がフランスで不遇だった時、仏陸軍大学に留学中だった澄田にはたいへんな世話になった。対米交渉決裂の一因ともなった仏印進駐では、参謀本部から現地に出張滞在した。昨年末から北支那の山西省太原にいる。澄田中将は第一軍司令官だ。


 甘粕は、王次長らと一緒に、まず天津に飛ぶことになっていた。

「華北電影公司に着いたら電話してくれ。もともと会う約束だったらしい」

 甘粕は目を閉じて、想う。

「晃彦、これでよかったか」






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