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SR満州戦記1  作者: 異不丸
第五章 八月五日
26/29

四 発砲


国都新京、中央通


 関東軍総司令部第二課は情報課とも呼ばれる。午前十時ごろ第四軍司令部から急報が入った。海拉爾北方の黒山頭対岸にソ連軍が集結して、渡河の動きがあるという。さらに正午過ぎには第一方面軍からも急報があった。ソ連軍狙撃兵部隊およそ百名が虎林南方の于匣屯付近で越境し、そのまま満州領内を進んでいると。

 作戦課である第一課は緊張した。大本営の命を受けて全軍に静謐保持を厳命してはいるが、満ソ国境が緊迫の絶頂にあることは噂を待つまでもない。ソ連軍の戦術展開は完結しており、いつ侵攻が開始されてもおかしくなかった。それが今なら奇襲となってしまう。ソ連軍の真意を判断せねばならない。


 作戦課長の松村知勝少将は総参謀副長も兼任していて、総参謀長の秦彦三郎中将に次ぐロシア畑の先任であった。その机の前で、作戦主任の竜島隆三中佐が仁王立ちになって持論を主張している。松村課長の反論にも屈せず、しまいには睨み返して来た。

「不遜だ、竜島参謀下がれ」

「草地班長、今日のソ連軍の異常行動は、昨夜からの邦人避退が影響したからです。即時に中止させるべきです」

「すでに遅い。邦人だけではなく満人も加わっている。満州国政府が一旦決定した以上は、総司令官でも介入できない。それぐらいは分かっているだろう」

「戦争になりますぞ」

「何を言うか、遅かれ早かれ侵攻してくるのは明らかだ」

「その通り、国境の切迫はつぶさに報告してきた。開戦はまだ先のように情報を操作したのは、参謀本部の第二課だろう」

「同じ第二課の朝枝中佐は早くから邦人避退を主張していたぞ。反対したのは竜島中佐、貴様や第一二課の種村大佐だ」

「課長、このような議論をしている場合ではありません。于匣屯と黒山頭が本格侵攻であるかどうかを見極めなければ」


「草地大佐、情報課から誰か呼んでくれ」

「作戦課室に課員以外の者を入れるのですか」

「竜島中佐、いい加減にしろ。ここは参謀本部第二課ではない」

 情報課から情報班長の野原中佐が入って来た。

「課長は機上です。まもなく三河上空に達します」

 新京から三河までは八〇〇キロあり、最高速度六三〇キロ毎時を誇る新司偵でも一時間半はかかる。秦総参謀長の指示もあって、情報課長の浅田中佐は第一報で飛び立っていた。

「そっちは待とう。于匣屯の方はまだ小規模だが、後続する気配はあるのか」

「最新報です。敵小隊は銃撃しながら視察班へ向かって来ると」

 まさか、と声が漏れる。威嚇や挑発の発砲と、我を指向しての銃撃では全く異なる。

「言葉に気をつけるべきです。まだ敵ではない」

「黙れ!竜島」

「場所を変えよう、副長室に行く。草地大佐、山口中佐、野原中佐、来てくれ」

「はっ」

 松村課長を先頭に、草地大佐らは出て行った。廊下が静かになると、竜島は課長の机の電話をとる。

「作戦主任の竜島だ。大本営に直通電話を頼む」





国都新京、洪熙街


 満映撮影所の第三スタヂオには関東軍総司令部の主要な部室が再現されていた。甘粕は協和会服のまま、総司令官室の席にいる。横には軍服をつけた飯島が立っていた。陸軍中将の階級章に参謀飾緒もつけていて、どうやら総参謀長を気取っているらしい。机の前には、中佐参謀に扮した加茂や本間がいた。

「どこだった」

 後ろ手の飯島が加茂に尋ねた。

「参謀本部第一二課でした。陸軍大臣を動かすようにと」

「ほう、戦争指導課だったのか。なるほど。見えて来たな、甘粕」

「参本の第二課や第五課を探っても繋がらない訳だ。彼奴らは軍政の線で事を進めていたのか。海軍大将の首相や海相が陸軍を御するには最善かもしれないな。なにより目立たない」


 開戦時に参謀次長直轄だった第二〇班、戦争指導班は、軍令に専念する参謀本部の中にあって唯一、軍政事項を所管している。四月の機構改革で陸軍省軍務課と合併して参謀本部第一二課となった。鈴木内閣の成立直後である。

「前班長の松谷大佐は今、陸相秘書官で軍務局御用掛。首相秘書官でもあります」

「後任の種村課長は一日に朝鮮の第一七方面軍司令部に転出しました。しかし、辞令はずいぶん前に出ていたようです」

「つまり、竜島を見送るまで居座っていたわけだな」

 甘粕は即決する。

「本間君、東京の福井君に指令だ」

「二人の大佐と周辺を洗わせます。昨年からですか」

「いや。種村大佐は戦争指導班には長かったな」

 本間が帳面を捲って件の項目を見つける。

「はい、昭和一四年の第二課第一班の頃からです。六年近い」

 飯島が声をあげて振り返る。

「こいつは終戦工作どころか、もっと遡るかもしれないぞ」

 甘粕の眉間の皺は深くなった。



 中庭に面した幹部用食堂では、半田と宮沢が遅い昼食をとっていた。東大法学部を卒業した後、満州国官僚養成学校である大同学院に入った宮沢は、教官だった半田の教え子にあたる。

「宮沢君、おいしそうだね」

 今日の昼食はライスカレーだったが、宮沢のものにはとんかつがのっていた。

「四年前の総研の時、浅草で食べたんです。皿ではなく丼でしたが」

「ふうん。言わなければ出さないとは、けしからん」

 そう言って、半田は皿を持って配膳場に向かう。戻って来た半田のカレーにはとんかつだけでなく、コロッケやステーキの切り身ものっていた。

「満艦飾ですね、先生」

「テキにカツだ」

 ステーキは俳優の昼食用で、コロッケは幹部の夕食用のおかずらしい。今、撮影所はすべてのスタヂオでカメラが回っており、詰めている人数は千人を超えていた。食事は撮影の合間に交替でとるから、時間を外すと献立は混ざってくる。


「さすがは満映だ。みんな、いいものを食っている」

「さっき、第四スタヂオを覗いて見ましたが大変なものです。これぐらい食べないともちませんよ」

 宮沢は幹部用の麦飯と一般社員用の蕎麦飯を混ぜながら答えた。中庭では、大勢が休憩している。思い思いに煙草を吸ったり、寝転がったり、座り込んだりしていた。半田も中庭を見る。

「なるほど、すごい汗だな。それに男も女も汚れきったずたぼろの衣装だ。監督はよほどの写実主義者らしい。ネオレアリズモと言ったか」

「やはり文学者ですね、先生は」

「ふん、パヴェーゼもヴィットリーニも所詮はアカだ。甘粕が手に入れた日記の持ち主、ルート・アンドレアスもな」

「今はどこも、帝国陸海軍でさえ、大なり小なりアカですよ。でないと戦争は乗り切れない」

「うむ、マルクス主義者は排除すべきだが」

 駄弁りながら食後の一服を済ますと、宮沢は言う。

「もどりましょうか、国民勤労部次長」

「そうだな。君とこういう話をしていると酒が飲みたくなる、総務庁参事官」




挿絵(By みてみん)



東安省虎林県、于匣屯


 満州東部の国境線の中央にある興凱湖は大きい湖で、琵琶湖の六倍の面積があるが、満州領は湖面北部の四分の一である。興凱湖から北東に流れ出るのが松阿察河で、その後、本流の烏蘇里江に合流して北へ流れる。松阿察河と烏蘇里江は満ソ国境線を成していた。于匣屯は松阿察河が烏蘇里江に合流する辺りにある。一帯は湿地帯であった。

 新橋監視哨には二十名の向地視察班が詰めていた。監視哨は視界を確保するために国境線の川から数キロの距離を置いていた。視察班は高倍率の砲隊鏡を持ち、松阿察河の対岸を監視するのが日課である。異状があれば南の大橋陣地にある中隊本部に連絡し、場合によっては河岸まで動哨を出すこともあった。


 今朝、真正面にソ連将校の一団が出現した。満州領内を観察しているようだが、二十名と数が多い。一個大隊の士官総数であり、将校なら連隊本部なみである。肩章の中には赤線が入っているので尉官か佐官のようだが、前線に出る将官が階級章を偽ることはよくある。しかし、動哨を出す間もなく一団は消えた。

 一時間後、今度は一キロ右手に十数名の兵隊が現れた。そして、視察班が本部に連絡している間に渡河を始めた。中隊本部は不法越境であることを認めたが、動哨を出すことは禁じた。越境したソ連軍部隊が二個小隊の規模だったからである。


 さらに、ソ連軍部隊は鶴翼に広がりながら真っ直ぐにこちらに向かって来る。中央には将校団と重機関銃が見えた。視察班長の大森曹長は本部に急報するが、返事が戻ってくるまで十数分かかった。

「大森曹長、すでに森尾少尉が急行している。少尉が着くまで待て。発砲するな。動哨も出すな」

「了解。ですが、ソ軍部隊の左翼と右翼の先頭は軽機を所持し、中央の重機の周りでは壕を掘り始めました。尋常ではありません。これは戦闘配置です」

「強行偵察だ。挑発に乗ってはならん。相手にするな。発砲は禁ずる。復唱!」

「復唱。新橋監視哨は森尾少尉どのが到着するまで監視に専念。発砲も応戦も行ないません」

「よし。背後も周辺も広く監視して、後続部隊や増援部隊に注意すること。以上おわり」

「復唱。新橋監視哨は前方のソ軍部隊の後方ならびに両翼も監視します」


 しかし、森尾少尉が着く前に、ソ軍部隊は銃撃を開始した。監視哨前面が着弾の土煙に包まれる。数発は中まで入ってきて壁に刺さる。狙って撃たれているに違いない。一分ほどで銃撃は止んだ。

 駆け込んで来た森尾少尉は、本部に着陣を報告した後、大森曹長に向かって言った。

「発砲しなかったな、上出来だ」

「少尉、完全に包囲されました。うちには軽機もありません。突撃されればお陀仏です」

「ソ軍は野地坊主の利用法を知らんようだ。伝っていけば脱出は出来る、前には行けんが。すなわち片面包囲だ」

「野地坊主を見分けるには錬度が必要です。どうも居座るようですな。機銃座が完成した後、将校団が見えなくなりました」

「なるほど、進撃路でも調査しているか。おそらく、ソ軍は新橋監視哨の存在は知っているが、位置を視認してはいない」


 所定の偵察が終わるまで邪魔をさせないように威嚇射撃を行なったのだと、少尉は言う。曹長は先の銃撃を思い返して頷いた。すると、二十人しかいないと分かれば全力で潰しに来るだろう。こちらも近づくなと警告する必要があるのではないか。

 曹長の具申に少尉は首を傾げたが、否定はしなかった。

「うまくやらないと、監視哨の位置も兵力もばれてしまう。たかが強行偵察の発見だけで全滅するのか。もっと大軍、戦車部隊や狙撃兵師団の侵攻を報告して死ぬのが役目だろう」

「それには生き残らなければなりません。好き勝手に歩き回られては、いずれ視認されます」

「そうかもしれない。しかし、発砲も応戦も禁じられている」


 新橋監視哨は、虎頭の第四国境守備隊が設置したものである。先月創設の第一三五師団は、解体された四国守や二国守などを基幹にしていた。その際、新橋監視哨は歩兵第三六八連隊の指揮下に移管されたのである。今いる視察班はほとんどが四国守の隊員だった。その大森曹長からは、森尾少尉には国境守備の覚悟が不足しているように見える。

「国境が侵されているのですぞ」

 しばらくの間、大森曹長と森尾少尉は睨み合った。その時。


 リン リン リン


 くぐもった呼び出し音がした。二人は音のする方を見て、また顔を合わせる。新しく敷設された中隊本部からの電話ではない。独特の呼び出し音は、四国守の頃からの九二式電話機のものだった。しばらく使っていない。


 リリリン リン リン


 大森曹長は電話機の上に置かれた装具を退かし、皮革の蓋を開く。途端に呼び出し音は大きくなった。曹長は堪らず、電話機の蓋を開けて送受話器を少尉に渡し、自分は副送話器を耳に当てる。

「もしもし?」

「ツーツー、ツー」

「おい、誰か」

「ツツ、ツー」

「少尉、電信です」

「お、モールスか」

 新型の携帯電話機と違って、九二式電話機には電鍵釦が付いていた。





龍江省、斉斉哈爾


 斉斉哈爾陸軍飛行場には、独立飛行第八一中隊所属の百式司令部偵察機三型が駐機していた。機長で操縦士の和田大尉は機体下面を入念に観察する。急速進出が要求されたので落下増槽はつけなかったが、新京までは余裕がある。緊急着陸したのは給油のためではない。上空で遭遇した情況を総司令部に送信するためだ。

 三河上空から偵察飛行を開始した新司偵は、国境に達する前に対空砲の迎撃を受けた。川岸にチカチカと砲火が見える。後部の偵察員席には総司令部の参謀どのが乗っていたが、呼びかけても返事がない。急旋回や急上昇の機動で酸素吸入装置が外れて気を失ったようだ。高度を下げないと酸素不足で脳機能が失われる。

 無線機も自動航空写真機も偵察員席にある。和田は偵察行の失敗を悟った。それでも、降下しながら九九式極小航空写真機を操った。極小といっても三キロ近いが、六キロもある一〇〇式よりは断然軽い。付近に陸軍飛行場はいくつもあった。しかし、新京まで届く長距離無線機は軍司令部にしかない。和田大尉は斉斉哈爾まで低空飛行を続けて来た。


 クロガネ四起で第四軍司令部に行った浅田参謀は戻らない。機体に異状はない。さて、と和田大尉が思った時、整備隊の軍曹が煙草を差し出した。見透かされたようで面白くない和田はぶっきら棒に応えた。

「軍曹。飛行場なのだが、ここは」

「飛行場であります、大尉どの。しかし、大尉も私も航空燃料の染みどころか、臭いもないのであります」

 なるほど、軍曹の軍衣はきれいなものだった。曹長になっておかしくない歳に見えるが、昇進できない訳でもあるのだろう。

「済んだのか」

「一号自動航空写真機は整備しました。何枚か撮影されています。九九式はお預かりします。代わりは新京でお渡しします」

「参謀どのも仕事をしていたか。ところで、新司偵より先に新京に着けるのか」

「現像後に送るのは情報です。電信はどんな飛行機より早い」

「ふむ。写真の現物はどうするのだ」


 大尉の疑問に、軍曹は柔和な顔で答える。

「それは私も知りません。しかし、彼らはうまくやりますよ」

「そうか」

 大尉は軍曹の顔色を見て、根っからの特務要員ではないと思った。であれば整備兵なのか。

「軍曹は西の方にいたことがあるか」

 途端に軍曹の表情が曇った。顔を西に向け、何かを吐き出すように答える。

「六年前、採塩所飛行場にいました」






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― 新着の感想 ―
野原博起関東軍中佐は小生の先祖にあたります。 戦後モスクワのNKVDで処刑されたようです。 覚えていてくださりありがとうございます。
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