四 図演
国都新京、洪熙街
満州映画協会理事長の甘粕正彦は、いつもの通り、九時前に出勤した。伊藤秘書がお茶を持って行く。理事長は執務机ではなく、ソファに座って煙草を吸っていた。こういう時は話しかけてもいい。
「目が赤いようです。眠られませんでしたか」
「そうだね。寝台の中で台本を書いていた」
「それはお疲れですね」
「はじめて書いてみたが、難しいものだ」
「まあ、それは」
「伊藤さん、すまないが、今日は半ドンで終わらないよ」
「はい、それは、もう」
伊藤は部屋を出ると肩を落とした。土曜の半休は明治に始まって、官公庁はもとより、学校や会社に広く定着していた。土曜日は夜更かしして、日曜は朝寝坊する。それが伊藤の過ごし方だった。今日もそのつもりで計画していたが、仕事なら仕方がない。軍需の工場や鉱山では日曜日もないという。いよいよ満映も決戦態勢だと、伊藤は思った。
甘粕と満州国政府の要人たちの謀議は、第二スタヂオの中で行なわれた。中央に置かれた満州国模型地図には色とりどりの駒が置かれている。ソ連軍は赤い駒、関東軍は青い駒、満州国軍は水色の駒、狙撃兵団は歩兵の形をしていて、その大きさで師団や旅団を区別してあった。国境をぐるりと囲んだソ連軍には戦車やトラックの形をした大きな駒が多い。件の邦人居留民は緑色で、小さいながらも数は多かった。
甘粕と古海総務庁次長、星子警務総局長、半田国民勤労部次長らは、一段高く組まれた舞台から模型地図を見下ろす。古海次長が日時と行動を読み上げると、下から復唱があり、続けて列車やトラックの駒が移動される。動かしているのは総務庁の役人たちで、指揮している男は柿色の協和会服を着て眼鏡をかけていた。
時々、上から叱咤の声と共に指揮棒が下りてきて、移動した駒が蹴散らされる。やり直しだ。舞台には一間ほどの張出しがあり、身を乗り出した飯島労工協会理事が行動と駒の動きを確認していた。飯島の脇には図嚢や画板を提げた上士がいて、満鉄の時刻表やトラックの諸元などをいちいち照合する。
半田が声をあげる。
「こうやって見ると、避難先をどこにするかは悩ましい問題ですね」
「やはり関東軍が選んだ長白山が合理的だと思うが」
古海がそう答えると、飯島が反論する。
「通化が選定されたのはあくまでも軍事的理由によってで、それも複郭陣地の完成と朝鮮の安定が前提です」
古海と半田が飯島を見つめる。
「関東軍は一年以上の篭城も考えているようだが、もともと篭城とは救援か増援が来ることを恃みとしている。本土が落ちて朝鮮も侵攻されれば、孤立無援となる。これから冬に向かう。十分な食糧が備蓄できるかは未知数です」
飯島の補足に星子が頷く。
「そうです。住居も全く不足だが、食糧庫や水も薪炭も未着手です。とても百万の邦人を収容できない」
満州の冬の厳しさは全員が身にしみている。冬を越せる住居だけでも三ヶ月はかかるだろう。関東軍の陣地構築を手伝いながらでは、排水や便所の整備、薪炭の集積まで手が回るかどうか。それは人手だけの問題ではなく、資材の搬入路や仮置場の問題もあった。単線の鉄路が一本だけでは民生まで回らない。
図上演習は最初の一週間ほどはうまくいくが、その後の邦人の行方をめぐって混乱する。大都市間の移動も満鉄の能力を超えているようで、その処理について、さらに紛糾する。見かねて甘粕が口を出す。
「結論を急ぎ過ぎではないのか、飯島」
「そうだな。ここまで三つの案を試行してみたが、前半は共通しているようだ」
古海は半田と頷き合うと、下に声をかける。
「宮沢君、すまないが巻き戻してくれ。現状から三週間をじっくりとやろう」
「わかりました、次長」
呼ばれた眼鏡の男が返事をした。さっきから役人たちの指揮をとっていたのは牡丹江省穆梭県知事の宮沢次郎で、一昨日、突然に呼び出され、各処からあがった邦人避退計画の整理にあたってい。もちろん、ずっと寝ていない。
「みんな、駒をすべて今朝の位置に戻してくれ」
宮沢は慣れた様子で役人たちに指示する。計画も数値も頭の中に入っているし、図上演習もはじめてではない。
模型地図の上で満州国の状況が振り出しに戻った。満州国の人口は四三〇〇万人で、日本人は二四〇万だ。そのうち、朝鮮人と台湾人が一三〇万、内地人は一一〇万である。古海たちが避退の対象としている居留民は、関東州の三五万を含めた九〇万であり、誤差と余裕を見て一〇〇万人としていた。
急を要する満州国内の五五万人の内訳は、開拓民が一九万、義勇青少年隊が六万、満鉄職員や政府官吏の家族が六万で、その他の私企業、商店や職人、農民らが二〇万だ。さらに軍人の家族が四万人いる。これは召集動員された男達を差し引いた数字であるから、ほとんどが年寄りと女子供である。
七月動員後の関東軍は七五万人で、これに家族のうち二万と軍属五万、また国境要塞での雇員・労務者や商店など二〇万ぐらいが行動を共にするとみられた。すなわち軍関係の一〇二万と満鉄・政府の三八万が本計画の対象外である。
開拓団や満鉄職員、政府官吏と関東軍には確実な集計があったが、その他については無頼や浪人や兵役逃れも混ざっているので二割近くは変動する。それに、通知と説得を通して翻意させるのも政府の役目だ。避退の対象は、最大で一二〇万人を超えるかもしれなかった。
飯島に囁かれた古海が下に告げる。
「宮沢君、今度は君がやってくれ」
「わかりました」
宮沢は返事すると、手帳を見た。そして宣言する。
「邦人避退計画、甲案のハを開始する。状況、ソ連軍は数日内に侵攻してくる。彼我の配置は地図上のとおり。二日間は晴天、その後は雨天が続く」
それは作戦命令と同じ様式だった。すなわち第一に情報、第二に指揮官の企図、第三に諸隊の行動と任務。純一無二、簡明直截、誤解の余地のない内容で、情報・企図・任務の間に矛盾があってはいけない。
最初の三日間で国境省の対象邦人を非国境省の都市に後退させるのが第一段階であり、甲乙丙の三案に共通だった。すなわち、東から間島省、牡丹江省、東安省、三江省、黒河省、興安北省、興安南省、興安西省、熱河省からの移動だ。受け入れる都市は、吉林、哈爾浜、斉斉哈爾、新京、四平、奉天とされた。
順調に進行する状況を眺めながら、古海は半田に尋ねる。
「間島省から移動させる必要はあるでしょうか」
「たしかに。東正面は堅固な要塞地帯ですから、間島省まで侵攻されるのはだいぶ後だと思います。通化にも近い」
聞きつけた飯島が半田を睨む。
「やれやれ、半田もだいぶ錆び付いたな。正面の敵が頑強と知れば迂回するのが戦術の常道だ。それに対する遊撃戦までも関東軍は考えているぞ」
「なら、数ヶ月は大丈夫だろう」
半田は不服そうに睨み返したが、飯島は負けない。
「いいか、ソ連の東の策源地はウラジオで、ソ連海軍の軍港だ。渡洋能力は低いが、雄基や清津あたりへの陸兵揚陸ぐらいはできる」
「背撃か」
飯島は、さらに畳み込む。
「間島省は朝鮮人が多いし、長白山は東北抗日連軍の第一路軍の残党、金一派の巣窟だ。木は森の中に隠れる。数は少ない方がいい」
「そういうことか」
「残したままだと、第一方面軍や第三軍に要らぬ負担をかける」
「すると、朝鮮の動静も関わってくる」
「朝鮮北部の第三四軍と中南部の第一七方面軍は、開戦と同時に関東軍総司令部の指揮下に入ると思う」
「第三四軍の司令官は同期の櫛淵か」
「第一七方面軍には八隅や平岡がいる。抜かりはない」
半田は深く頷いた。
「浜綏線の哈爾浜駅から旧東香坊駅にかけて滞留発生。後続の三列車二六両が二時間も停まっています」
「一つ先の香坊駅で香坊連絡線に退避、後続列車は新香坊駅から分岐させて東門連絡線へ」
「了解。全列車が運行再開」
飯島は、手際よく進めていく宮沢に感心して呟く。
「総力戦机上演習か」
四年前、宮沢は総力戦研究所に派遣され、模擬内閣の閣僚として今次の大東亜戦争をすでに経験している。ソ連参戦も敗戦も初めてではなかった。
「第一日目終了、避退通知九五%、移動開始一〇%」
宮沢が下から報告すると、古海は笑みで答えた。
「上出来だ」
「届かなかった五%はどこだ」
「興安北省の奥地で、出勤した第四軍を迂回するのに時間を食っています」
「馬車隊だな」
「はい、通知と同時に移乗です」
ハは通知後、説得抜きに移動を強要するものだった。武装警官が自動貨車や馬車で奥地を回る。捕縛や威嚇発砲も躊躇しない。要するに、身体だけを回収して運ぶのだ。
バタバタと舞台に駆け上がって来た秘書が、甘粕に囁いた。頷いた甘粕は、古見らに告げる。
「少し外します。第四スタヂオをみてきます」
「わかりました」
「それから。戦いというものは計画通りにいかない、意外裡な事が勝利に繋がるそうです。逆もあり得ます」
そう言い残すと、そそくさと秘書の後に続いて去った。
残された四人は顔を見合わせる。
「どういうことです」
「たしか、東條閣下の言葉でしたね」
「飯島さん、まさか」
三人に見つめられた飯島は、うんうんと頷く。
「そうです。今やれということでしょう」
「しかし、まだ二日目が始まったばかりだ」
「いや、宮沢君がまとめた計画だから、うまく運ぶに違いない。それを眺めるだけなら時間の無駄です」
「では、そういうことで」
飯島は書類鞄から大封筒を取り出した。手を伸ばしながら古海が念を押す。
「空クジもあるんでしょうね」
「もちろんです。半分はスカです」
「ならば」
古海が緊張した顔付で二つの紙片を取り出す。紙片に書かれた番号を見て、飯島が笑った。
「二つとも大当たりです、古海さん」
「ええーっ」
仰け反る古海を無視して、飯島は高唱する。
「緊急情報。鶴崗炭鉱で苦力の暴動が発生。東北抗日連軍が煽動しているもよう」
「佳木斯行きの列車を緊急停止」
「はいっ」
「あっ、鶴崗から佳木斯行きは止めるな」
「だって」
「もう一つ。緊急事態、興寧線老黒山駅が燃えている。一八時間は不通とする」
「長過ぎます。戻しましょう」
「東寧に引き返すのはまずい。復旧を待つ。炊き出しだ」
下は大騒ぎになった。古海が窺うと、眉を顰めた宮沢が見上げていた。
第四スタヂオに入る前に、甘粕は秘書に言う。
「似合っています、伊藤さん。いよいよ初舞台ですね」
「はい。もう、頑張ります!」
甘粕に向かって敬礼した伊藤は、ソ連軍女性兵士の軍服を着ていた。その伊藤も、中に入ると目立たない。第四スタジオの中は軍服を着た男女であふれている。片側にはソ連軍の総司令部を模したセットが作られてあった。カイゼル髭を生やした恰幅のいい男は書記長であろう。
反対側には、どういうわけか、ドイツ兵が大勢いた。軍服はぼろぼろで、銃はおろか帯革もつけてない。上着のない者や靴のない者、頭髪はぼさぼさで髭も生え放題、一目で虜囚とわかった。そのとなりには、同じように惨めな男女の一団があった。軍服を着てないから、戦火から逃げて来た市民に扮しているらしい。
坪井処長と内田監督、朱監督らは、青ざめた顔で中央のテーブルを囲んでいた。会釈を返した甘粕が覗き込むと、テーブルの上には甘粕が書いた台本のほかに、書き殴りの用箋が数枚あった。
「問題ですか」
「いえ、理事長の書かれた台本の意図は理解できました」
「絵コンテもありましたから、問題ありません」
「ああ。では、日記の方ですか。ドイツ語です」
「はい。大塚君が訳していますが、本当のことなのですね」
一人だけ椅子に座った巡回映画課長は、ぶつぶつと呟きながら辞書を片手に、くたびれたノートに向かっていた。理事長が来たのも気付いていないようだ。
「本物です。新京飛行場から届けられました」
それは、昨夜はまだ大興安嶺の山中にあった。今朝、斉斉哈爾の陸軍飛行場に運ばれ、秦総参謀長の乗った新司偵で新京に到着したのだ。
「関東軍情報部が欧州で入手したものです」
全員が息を呑む。あちこちに滲みのあるノートは、ルート・アンドレアスというドイツ人女性が書いた日記らしく、今年の四月から六月までの日付だった。内容は占領されたベルリンの状況で、占領下の惨劇、すなわちソ連軍の蛮行が詳しく書かれてあった。
「書いた女性は複数の反ナチスグループに属していたそうですから、ソ連側のことも判る筈です」
新聞記者出身で編集者の彼女は、日記の意味を理解していたから、早いうちに写しを作成していた。哈特が入手したのは写本の方である。
「これでリアリティあるディテルの再現を期待します」
坪井と内田は毒気にあてられた態だったが、朱は何度も頷いた。
第二スタヂオの中で、汗びっしょりの宮沢が弾んだ声で報告する。
「第三日目終了。避退通知一〇〇%、移動開始一一〇%、収容完了八〇%、残り三〇%は移動中で、あと数時間です」
スタヂオ中がどっと沸いた。三日余りで百万人の邦人を避退させたのは大きい。甲案は開戦前が前提とはいえ、大成功と言える。やはり有無を言わさぬ強制移動は効果覿面だ。下は全員が大喜びである。
古海らはにこやかな顔で、三〇分の休憩を告げた。宮沢を先頭に、役人たちはぞろぞろと食堂に向かう。軽食と本物のコーヒーが用意されてあるという。
しかし、舞台の上の四人は動かない。沈痛な表情に戻って互いを窺い合う。それは、新たな問題が提議されたからだ。
『満人はどうする?』
古海が言ったそれは、重い言葉であった。
同盟国の日本人を保護するのは満州国としての務めだが、それと同等以上に、満州国民を守るのが政府の第一義的な義務であり、レゾンデトルだ。
古海も半田も星子も、日本人として邦人の避退に熱心なのは当然だった。しかし、満州国官吏として、満州国民に対する責務を疎かにはできない。四人は、異口同音に呟く。
「国民をどうする」




