一 潜入
黒河省、呼瑪県金山鎮
北満州とは、通常、哈爾浜より北をいう。ハバロフスク以西の満ソ国境を形成する黒竜江は、大興安嶺と小興安嶺の二つの山脈によって竜の如く蛇行し、渦巻く水流で黒く濁る。哈爾浜駅から浜北線で北上して北安駅、北黒線に乗り継いで黒河駅で満ソ国境の黒竜江に至る。
シベリア鉄道は黒竜江よりおよそ五十キロから百キロの距離を空けて走るが、所々で河岸まで支線を出していた。それら支線の終着駅に街があり、呼応する対岸の満洲側にも街があった。例えば、シマノフスクからの支線は鴎浦の対岸まで、スコボロジノからの支線は連金・漠河の対岸まで走る。
ベルゴルスクからの支線は黒河対岸のブラゴヴェシチェンスクに終着する。支流のゼーヤ河との合流点でもあって、鉄道だけでなく水運の便もいい。満ソ交易で賑わったところである。黒竜江沿いでは最も大きい街で、満州国領事館もおかれてあった。
八年前から黒竜江を渡河しての私人交易は禁止されていた。しかし、この一帯は軍事的にも要衝で、歴史的にロシア軍の重要な渡河点だ。関東軍は黒河に第七国境守備隊、すぐ南の愛琿に第六国境守備隊を配置していた。
黒河より北は軍事的には無価値といえる。大興安嶺山脈が走り、戦略的要衝はなく、戦術的に突破できるような地形ではないからだ。
新京の中央観象台は日本の中央気象台にあたり、全土に四十八の観象台を配置していたが、黒河以北には一箇所もない。気象観測は最重要の軍事機密であり、兵要地誌の第一歩である。それが必要ないというのだから、当然、軍事行動はとられないということであった。
それでも満州国内であるから、満州国の法が布かれねばならない。一一月から四月の間、黒竜江は結氷するから徒歩でも越境できた。ソ連との密貿易は違法であるし、国威というものもある。黒竜江の要所要所には国境警察がおかれた。人口希薄といっても国民はいる。狩猟で生計を立てるオロチョン族、林業や砂金採取に従事する満人、さらに、満蒙開拓義勇青少年隊の開拓団も数箇所あった。
黒河省呼瑪県金山鎮の国境警察の責任者は大木吉武で、階級は警尉、日本では警部にあたる。部下は満人警官が十五人である。県公署に上司の原田警佐がいるが、昨日の夕方から省庁に出張していた。江上軍の汽船を使っての出発で、よほど至急の要件なのだろう。
呼瑪から黒河までおよそ二百キロ、汽船が全速を出しても半日では無理で、まだ着いていない。深夜の急行だから、途中でソ連の国境警備隊と揉めたかもしれない。つまり、この難事は大木が解決するしかない。まだ夜明け前だというのに、厄介ごとを持ち込まれた。その張本人は目の前の義勇隊開拓団の宇田団長代理だ。
満蒙開拓青少年義勇軍は十六歳から十九歳で入隊する。三ヶ月の教育を茨城県内原訓練所で受けた後、満州各地の現地訓練所で三年間の訓練教育につく。その後、義勇隊開拓団として入植する。一〇町歩という目も眩むような広大な土地が貰えた。単なる開拓農民ではなく、国境守備の尖兵でもあったから、入植先は国境省の奥地、辺境だ。土地の状態も通常の開拓団より悪い。
徴兵義務は変わらない。十六で入隊したとして十九で訓練所を卒業、入植したらすぐに兵役である。もともと、頭脳明晰、身体強健で選抜されていて、甲種合格は間違いない。軍事教練は日頃から欠かしていないから、入営すれば兵長までは当たり前で、下士官まで進級するのがふつうであった。
宇田正治も伍長までいって今年の正月に戻って来た。この時局で珍しいことだが、所属の金山鎮地区第一次西瀛義勇隊開拓団の団長と幹部らが揃って召集され、成年の責任者が足りなくなったからだ。西瀛義勇隊開拓団は周囲に訓練所を持ち、来年から開拓団へ移行させることになっていた。宇田は五十戸の開拓団の長であり、戦時には小隊長だ。
「大木隊長、うちの団員は踏み込むべきだと云ってます」
「いや、たぶん相手はソ連の特殊部隊。精鋭ですよ」
「しばらく使っていないとはいえ、あの宿舎は営林処のもので、国有財産です。それを彼らは占拠している。つまり、占領されているのですよ」
「まあまあ、宇田団長。一個分隊と云われましたね。特殊部隊なら一人で五人分、つまり一個小隊の戦力です。うちには十五人しかいないし、そちらでも戦力になるのは二十人ほどでしょう」
「そんなところです。攻撃側は防御側の三倍必要ですから、足りませんか」
「とにかくやれることはやりましょう。県公署には伝騎を出しました。仕度が済んだら出張りますから、少しお待ちください」
「わかりました。その旨の伝令を出します。わたしはここで待ちます」
「朝食はまだでしょう、一緒にどうぞ。その伝令の人も」
「これはありがたい。いただきます。なにしろ真夜中から走りっぱなしで。すみませんねぇ」
三十になった大木の方が年上だが、なにしろ宇田は昇進間際で戻って来た。次に召集があれば軍曹である。一等兵までしか進めなかった大木の物言いは、自ずと丁寧になる。関特演時の活躍も申し渡されていた。まだ兵役前だった宇田は、関東軍の日本人と白露人の混成部隊を案内して、漠河まで大興安嶺の山中を踏破したのだ。その間、兵隊たちに引けを取らなかったという。
その宇田が熱くなるのは珍しいことである。大木はずっと黒河省で奉職しているものの、孫呉や黒河など街中の警察勤務ばかりだった。国境警察勤務も奥地に来るのもはじめてだ。なにしろ、オロチョン族を合わせて百人もいない。近くの日本人は県公署の三戸と大木一家だけである。一昨年に身重の女房と着任して以来、義勇隊開拓団を頼りにして来た。
「それで何人で見張っているんですか」
「常時二個分隊になるように交代させています」
「ふうむ。遠巻きにしているんですね」
「はい。千人収容の宿舎ですからね。周りの山林から見張らせています。狼除けの柵と濠がありまして動きは限られます」
「なるほど。ひょっとして、江頭大尉の奥様のご指示ですか」
「実は、そうなんです」
「やっぱりねぇ。あ、お代わりしてください。おい、スマエ」
「これはどうも。日本の味は久し振りです」
「遠慮なく、どうぞ」
ようやく大木警尉には納得がいった。西瀛義勇隊開拓団は開設以来、退役軍人の江頭大尉が団長で牛原軍曹が副団長だった。二人とも昨年末に召集されたが、家族は残っている。江頭大尉は、内原訓練所の加藤完治所長の剣術の弟子で直心流の使い手。あや夫人は薙刀の直心影流の皆伝であり、士族の出で武辺ばった事が大好きだった。
この辺りは林業が盛んで、黒竜江の水運で山出しするから、夏場だけ支那人の苦力を雇って一気に伐採する。そのために開拓団からさらに入った山中に宿舎が設けてあった。今は満州全土で労働者が不足しており、鉄道の便のない黒河以北では数年間伐採は行なわれていない。木材の山出しより、労務者に供給する食糧の搬入あれこれの方に不便なのだ。
大木警尉が仕度を済まして本部の庭に出ると、すでに部下たちは整列していた。副官の張警尉補が一歩前に出て敬礼の号令をかけようとした時、県公署に出した伝騎が戻って来た。伝令の警長は馬を下りると、敬礼して封筒を差し出す。大木は中の指令を読むと、待機を命じ、宇田団長と張警尉補を本部内に誘った。
「本隊が来るまで包囲して待機、ですか」
「江上軍の汽船は二個分隊が乗れるかどうか。黒河にそれより大きなフネがあったかなぁ」
「隊長。本隊というからには小隊ではない、中隊規模です。陸路ではないのですか?」
「ふぅむ。六起トラックだと六国守、いや独混一三五になるが、十台も出せるかなぁ」
「いや、隊長。関東軍は静謐保持ですから、国軍でしょう」
「すると騎馬か。しかし、道が道だからなぁ」
「ま、とにかく。出張りましょう」
大木らは馬と馬車に分乗して開拓団へ急行した。捕り物は本隊がやるらしいので、張警尉補に八人をつけて残した。開拓団に着くと、門の上に櫓が組まれつつあった。指図しているのは白襷のあや夫人だ。額金入りの白鉢巻に家伝の宗近の大薙刀を抱えていた。やはり白襷の五人の団員を侍らせている。若い順に選んだようだ。あや夫人は寮母でもある。
宇田が、かいつまんで話す。あや夫人は待機と聞いて不服そうだったが、大木が県公署の上意ですと押すと、おとなしく引き下がった。もともと外に出る戦いは女子の本分ではないらしい。それよりも開拓団の護りを堅めると言って、団員にあれこれと指図する。大木はほっとして、休憩もそこそこに山中に踏み入った。
小銃を持った宇田が先に立つ。営林処の宿舎には何度か行ったことがあるから案内はなくてもよかったが、彼も残りたくはないのだろう。大木は何も言わずに後に続く。あや夫人は伝令用だと二人つけてくれた。
山中から見下ろすと、霧雨の中、朽ちかけた宿舎は静かなもので、十数人のソ連兵がどの建屋にいるかは判別できない。団員に云われた建屋を双眼鏡で覗くと、たしかに人の気配がある。窓が微かに開けられ、板壁の隙間から陽炎のゆらめきが見えた。今朝は冷え込んだから火を焚いたかもしれない。煙を出さないのは流石だ。
宇田が目配せすると、団員の一人が帳面を開き、鉛筆で書かれた見取り図を示す。宿舎の一つから周りの山中に向かっていくつもの赤線が引かれてあった。開けられた窓からの視界だと、大木には理解できた。青線は全部の窓が開かれた場合だろう。視界はすなわち射界だ。思った以上に宇田は有能な指揮官らしい。
宇田は、分隊の交代を見届けると、大木を誘って見張り場を離れる。直を終えた団員が休む場所があるらしい。急な坂道を五分ほど上がり下がりすると、洞穴があった。出来過ぎじゃないかと大木は思う。ひょっとしたら宿舎の場所を選定したのは開拓団かも知れない。だいたい、どうやって気付いたのだ。いつも見張っているのか。
そう思いつくと、なんだか居心地がよくない。大木は丸太の椅子の上で尻をもぞもぞと動かす。二人きりになると、宇田が低い声で話し出す。なんだか、宇田の体と瞳はいつもより大きく見えた。
「実は、あの宿舎の中には一個大隊一か月分の糧食が隠してあるのです」
「えっ。どういうことですか」
「四年前の関特演の時に、わたしが軍の日露混成部隊を道案内したのはお聞きですね」
「ええ、前任者から聞きました。県公署でも有名です」
「関特演は日ソ中立条約で終焉したことになっていますが、ここではまだ続いているのです。騎兵一個大隊で大興安嶺を突破し漠河で渡河する、その演習は毎年行なわれてきました。私にとって今回は四年ぶり二回目で、おそらく最後です」
「そ、それは」
「今回は演習で終わりません。黒河周辺から出撃した部隊が漠河まで到達するには三日から四日かかる。その途上に水、糧食や飼い葉を置いておけば、それだけ部隊の行李や荷物は減って行軍は捗る。最終地点の漠河には弾薬も備蓄してある」
「宇田団長」
「糧食も飼料も長くなると傷むから入れ替えないといけない。毎年千人単位で来る苦力は絶好の機会だ」
「演習で終わらないと云うのは」
「大木隊長は冷静ですね。頼りにした甲斐があった。江頭団長から引き継いだ受信専用の無線機です。原田警佐が受信されたものと同じです」
「えっ」
「状況三が発令されました。大木隊長、心してかかりましょう」
「はぁ」




