紅の少女
俺は驚いた。間抜け面を晒していたかも知れねぇな。そう思うと滑稽だぜ。
猛獣どもの喧騒はうるさかったが、赤い小娘に比べればそんな事はどうだってよかった。
同族とまではいかねぇが、まさか俺と同じ"境遇"の奴が居るなんてな。俺は思わず声を掛けちまった。
「おい、お前。……俺の声が聞こえるか?」
猛獣どもの喧騒に負けない声で目の前の赤い小娘に問いかける。
が、赤い小娘は何も答えねぇ。無愛想な、と思いつつも俺は続けた。
「なぁ、聞いてんのか、お前」
すると、赤い小娘が返事と思わしき仕草をとる。
口を開いて、閉じると人差し指でばつ印を作った。
それが意味することは、大体分かった。
(もしかして、声が出せないのか?)
出ないし出せない。つまりは喋れない。赤い小娘がそうである事を俺は理解した。
だったら、こうするしか無いか、と俺は得意の変身能力で、煩わしい拘束具を解くと、鉄格子に手をかけた。
「待ってろ、今そっちに行ってやる」
◇◆◇
少女は目を開ける。そこには見慣れない光景が広がっていた。
ゆっくりと体を起こして、視点を傾けてみても、やはり見慣れない光景だ。
まるで、自分という存在が相応しくない場所。だが、その場所に今、自分は居る。
それに、自分は寝台の上だ。これが意味することは、寝台で寝ていたということ。
何故、という疑問が頭の中に過ぎるが、納得のいく答えが浮かんでこない。
取り敢えず寝台から降りる。それと同時に、自分の衣服が切り替わった。
寝間着から赤い洋服へ。以前よりそんな能力を持っていた訳ではない少女にまた、疑問が浮かんだ。
胸の辺りに赤い瞳のようなものもある。見覚えこそ無いものの、懐かしい感じを少女は抱いていた。
寝室を少し歩くと、ある人影が目に映る。
それは、全身が紫姿の女性だった。少女にとってその女性は、若く、年上の存在に見えていた。
その表情を伺うと、微笑んでいるのが見える。此処に居る理由を聞きたい訳ではないが、少女が近づくと、紫の女性はいつの間にか姿を消していた。
微かな、優しい笑い声が聞こえだし、それが徐々に遠のいていくのを聞いた少女の頭には、疑問が残るばかりだった。
純白の建造物内にある、『湧き水の間』。そこに彼女は居た。
青い肌に、触手のような髪と体の一部、膨らんだ腕にそれに合わせるかのような厚い両手。そして、大魚を思わせる下半身――今は床と置き換わった液体に漬けている――を持つ人魚の少女。
彼女の名は深月。この建造物に来て、まだ間も無い人魚の少女である。
湧き水の名に相応しく、何処からともなく噴き出てくる水を彼女は全身を濡らすように浴びていた。
――否。彼女は彼女ならではの食事をしていたと言うべきか。
厳密には人魚と言い難い彼女の全身が、『湧き水の間』の噴水を食料として補給していたのである。
その証拠に、触手のような髪が、体の一部が、異常なまでに伸びて、その先端を床や他の噴水に近づけていた。
確かに、湧き水の間には人間にとっても有益な栄養分が含まれている。人間が飲料水として毎日活用すれば、食生活から健康な肉体を維持できると言われるまでに。
だが、彼女の場合は、ある一点の物質さえ液体内に含まれていればそれで良い。それが魔素なのだ。
彼女は自分自身が魔素を作り出せる存在である上に、魔素を混ぜた水を食料として補給する。他の生物からしてみれば極めて異質な存在なのだ。
いや、彼女だけでなく、この建造物を棲家とする全ての存在が、と言うべきか――
一見水浴びをしているように見える深月の居る、『湧き水の間』の扉から、軽く叩く音が聞こえてくる。
深月が顔を向けると、扉の向こうより、一人の女性が入ってきた。
紫の肌を持ちながら、全身を紫の豪華なドレス姿に包んだ、左右とで白黒が反転した目を持つ女性。
深月と同様に、異質な雰囲気を持つ女性が、足を床の水に濡らしながら、数歩深月へと歩み寄った。
「以前、いらした方がお目覚めになられました」
「……そうですか。2日程眠っていたので心配しましたよ」
深月は、既に家族のような仲とは言え、礼儀と言うものがあるだろう、と思いつつ伸びていた触手を無理にでも引き込む。
そして、申し訳なさそうな表情を紫の女性に見せた。
「……どうされました?」
「いえ、あの、見苦しい姿を見せてしまった、と思いまして……」
「いいんですよ。私も時折そういう感じになってしまうので」
気にしていない様子の紫の女性の言葉を聞いて、深月は「……そうなんですか?」と意外に思う表情をした。
「貴方のように触手は伸びませんが、こう、体が溶けてしまうのですよ。深界様には気を付けるよう言われているのですが……どうにも酷使してしまう癖がありまして」
両手で表現しているものが、徐々に崩れていく動作を合わせて、分かりやすく説明する紫の女性の言葉に、深月は軽い相槌しか打てなくなっていた。
(冥さんもまた、失敗する時はあるのですね……)
雲の上の存在だと思っていた、冥にも意外な一面がある事に驚きを隠せなかった。
だが、きちんと意思疎通が出来ているなら、分かり合える存在なのだと理解出来た事を、深月は嬉しく感じてもいた。
「さて、そろそろ行きましょうか。深界様と、いらした方をあまり待たせてはいけませんから」
深月の返事と共に、両者は『湧き水の間』を後にした。
冥と深月は、早足で、赤い少女を寝かせておいた部屋の元へと辿り着く。
扉の前には、既に右腕部分が黒く染まった白いローブ姿の男が来ていた。
「深界様、遅れてしまい申し訳ありません。待たせましたか?」
「いや、私も先程着いたばかりだ。――さて、全員揃ったから挨拶しよう」
深界が先頭に立って扉を開ける。その後を、深月、冥の順で進んだ。
「やあ、おはよう。ゆっくり眠れたかな?」
寝台の上に座っていた赤い少女は、少し驚いた様子を見せるも、"自分と似た"姿の者達を見て一安心したのか、緊張を少し緩めた様子となった。
「私の名前は深界。そして、深月くんと、冥くんだ」
深界は名乗った後に、2人にそれぞれ右手を向けて紹介する。
「特に、深月くんについては君も分かっているだろう。……少し前に君を助けた子だ、覚えているかな?」
赤い少女に青い人魚、深月の事を尋ねると、赤い少女は首肯をしてみせた。
「……そうか、なら良かった。さて、今度は君の名を教えてもらえるかな?」
赤い少女は深界に名乗るよう促されるも、軽く俯いて名乗る気配が感じられない。
それを見た深月は、軽く疑問を浮かべていた。無論、2人も同じような様子、と思いながら。
少しの沈黙が訪れ、赤い少女は、顔を上げ、意を決した表情を見せる。
『スカーレット・エレーネ。それがこいつの名だ』
すると、何処からか、男の声が聞こえてきた。深界のものでない、少々荒い口調の声。
深界達は特別驚くような事でも無いように声の正体を探す様子を見せない。それに対して、自分の名を呼ばれた赤い少女、スカーレットは、声の主を探そうと周囲を見渡していた。
「――貴方は何処に、いらっしゃるのですか?」
冥は落ち着いた様子のまま、声の主が何処に居るのかを尋ねる。
返答がくるのに、時間はかからなかった。
『此処だよ、此処。こいつに付いてる目みたいな宝石。そん中に俺は居る』
すると、注目は、スカーレットの洋服の上にある、目とも、琥珀状の宝石ともとれる物体に寄せられた。
スカーレットもまた、視線をその物体に向ける。
『よぉ、エレーネ。久しぶりだな』
その声を聞いたスカーレットは、特別嬉しそうな表情を浮かべた。
「それで、貴方はその、エレーネ様とはどのようなご関係で?」
『間柄と聞かれたら知り合いではあるな。それも苦楽を共にした』
宝石状の物体の返答を聞いた冥は、納得した様子で「……そうですか」と一言呟いた。
それならばスカーレットの様子に納得が行くと、深月も思っていた。
「では、スカーレットくん、君に尋ねるとしよう。君は私達が助けた。それも追跡していた人間からね。此処までは覚えているね?」
スカーレットの首肯を見て、深界は続ける。
「さて、そこで問題になるのが君がどうしたいか、なんだ。君が何処かへ行きたいなら、私達も出来る範囲で支援してあげようとは思う。君が此処へ住みたいなら、私達は歓迎しよう。君は一体、どうしたい?」
スカーレットは宝石状の物体と顔を見合わせる。
『大丈夫だ。俺が要約して、お前の言葉をあいつらに教えてやる』
スカーレットはその言葉に頷くと、顔を上げた。
『俺たちに行くべき場所なんて無い。ただただ逃げていただけだ。あんたらが俺たちを迎えてくれるんなら、此処に住まわせてもらうぜ』
「そうか、これからよろしく。スカーレットくんと、宝石くん」
深界の優しい言葉に、スカーレットは頷く。仲間――いや、家族が増える事に、深界の言葉は、何処と無く嬉しそうだった。
それを尻目とばかりに、宝石状の物体は微かに呟いた。
『俺はほんとは宝石じゃないんだが……まあいいか』
「あの、少しよろしいでしょうか?」
一先ず部屋を去ろうとする深界達の背に声を掛けて、深月は深界たちを振り返らせた。
「スカーレットの主な世話は、私に委ねてもらえますか?」
深月のその一言に、深界と冥の2人は顔を見合わせる。
そして、結論が出たかのように、深界は再び深月へ振り向いた。
「分かった、彼女の事は君に任せたよ。何か困った事があったら、何時でも相談するといいよ」
そう言い、部屋にスカーレットと深月の2人を残して深界達は部屋を出た。
「少し、変わられましたね、深月様」
「お互いにとって、良い刺激になるといいがね」
◇◆◇
深界達が部屋を去って少しした後、深月はスカーレットのその隣に座る。
深月の下半身が露わになる。スカーレットは、隣に座った深月を見つめていた。
深月もまた、スカーレットを見つめる。桃色の肌に、顔に浮かぶ炎のような赤い痣。赤色の長髪は、先端が赤黒くなっており、その目には、光が灯っていない。
彼女と出会った夜には、夜闇に紛れていたためか気にならなかった部分がよく見える。改めて、深月はスカーレットが人間では無い事を理解した。
『ちょっと、質問があるが、いいか?』
スカーレットの着る洋服、その上の宝石状の物体より声がかかる。
それを聞いて、深月は「どうぞ」と促した。
『あの夜。あの夜の事だ。接点が無いのにも関わらず、何故俺たちを助けようと思ったんだ?』
その質問に、深月は少し考える仕草をとった。改めて、あの夜の事を思い返す。
確かに、見ず知らずで無い以上、わざわざ危険を冒してまで助ける必要は無い。
だが、助けるのに決め手となった事がある。それは、"あの子"の面影を感じた事――
「――昔、私にとって大切な子が居たの。スカーレットが、"あの子"に似ていた」
『ふうん、そうかい。じゃあ、今のあんたから見て、その大切な子とやらとエレーネが違うと、言い切れるか?』
そう言われて、深月はスカーレットの顔を改めて見る。
見れば見るほど、面影が思い浮かんでくる。違うと分かっていても、どうしても照らし合わせてしまうのだ。
もし自分が弱っていたら、スカーレットをどんな目で見てしまうのだろうか。深月にその疑問が浮かんできた。
「……分からない」
『どうやら、相当苦い思い出があるみたいだな。あんたの顔に後悔の色が見えるよ』
宝石状の物体の発言を聞いて、深月は「えっ」と驚いた。
何時の間に顔に浮かべてしまったのだろう。深月は必死に表情を取り繕うとした。
『まあ、俺だって後悔はあったさ。あんたのに比べりゃ軽いもんだろうが。俺は俺なりに解決して、今の俺が居る。次はあんたの番だな。応援してるぜ』
宝石状の物体の発言に合わせて、スカーレットが深月の手を握る。
硬い表情とは裏腹なスカーレットの温もりを、深月は感じていた。
「……ありがとう」
自分より幼いであろう少女と、彼女に付く存在に、励まされるのに申し訳なさを感じつつも、深月はそれをありがたく思った。