二章 願いは人を喰らう鬼(その3)
五年前の《822事件》では《鬼憑き》によって様々なものが破壊された。
その象徴的なものは霞ヶ関の国立競技場だが、数で言えば、最も多くの被害を出したのは全国各地の医療機関だった。《鬼憑き》が認知されていなかった当時、《鬼憑き》も被害者もいっしょくたに病院へと運び込まれた。その後に起こる事など一つ。怪我の治った《鬼憑き》に、医師も他の患者も監視に派遣されていた警官達すらもまとめて喰われてしまったのだ。果ては病棟自体が破壊され廃墟と化した。国立競技場のように再建された病院は僅かだ。
そして《国立特例疾患研究センター付属八王子病院》は、その希少な例の一つである。
その一般病棟に、千隼はいた。
「――ん、これで良し。一回立って貰えるかしら?」
「はい」
医師に言われて千隼は立ち上がった。新しい義足の履き心地を確認する。
ふくらはぎの断端部分に装着するソケットは、そもそも《舌の鬼憑き》に破壊された義足から流用しているので違和感は無い。重量は以前使っていたものよりやや軽い程度。後は高さのバランスだが、こちらも上手く調整されている。
それを告げると医師は「良かった」と笑顔を浮かべた。
「でも、アタシは資格もないヤブだから、今度かかりつけの装具士に相談してね」
ややドスの利いた声で、ウィンクを飛ばす医師――いや、一応女医なのだろうか。
千隼以上の身長。筋骨隆々でありながらその所作は非常に女性らしく、浅黒い肌にも化粧らしきものが施されている。いわゆるニューハーフというやつだろう。出会った瞬間は面食らったが、慣れてしまえばどうという事はない。
それよりも新たな義足を手に入れられた事の方が、千隼にとっては重要だ。
幸に『デートしましょ』と連れてこられたのは、この病院だった。競技用義足では不自由するだろうと、幸が気を利かせてくれたのだ。《SCT》の官舎からも近く、道中に聞いた話では《SCT》の隊員もよく世話になっているらしい。元々は大学の付属病院だったものを、《822事件》で破壊された際に国が買い取り、《鬼憑き》の研究を行う病院として再建したのだとか。全国で唯一の《鬼憑き》専門の病院、それが《国立特例疾患研究センター付属八王子病院》なのだという。
「そういえば、幸さんは……どちらへ?」
そう説明してくれた本人はこの女医――ということにしよう――に、千隼が呆気に取られている隙にどこかへ消えてしまったのだ。まあ頃合いを見計らって戻ってきてくれるだろうが。
「ああ、室長んとこ行ってくるらしいッスよ」
答えたのは女医の隣に立つ若い男だ。
髪を金色に染め、ピアスやネックレスをジャラジャラと付けている。女医の指示に従って細々(ごま)としたものを用意したのは彼だった。看護師らしいが、これほど看護服が似合わない看護師も珍しいだろう。――いや、ボタンを外して胸をはだけさせている姿は、ある意味、着こなしていると言えるかもしれない。少なくとも仕事に不備は無いようだ。
そんな彼は、髪をくるくるとイジりながら思い返すように話す。
「なんか……アレっスね。『ちょいツラ貸せや』って言いに行くみたいな?」
幸と《SCT》の室長はそんな殺伐とした関係なのか。
「ちょっと、太郎くん。もうちょっと丁寧な言葉を使いなさい」
オカマ女医がそう窘める。
太郎って名前なのか、このチャラ男。可愛いな。
「まあ、きっと水無瀬さんに室長を会わせておきたいんだと思うわ。悪いんだけど、ここでもう少し待ってて貰える?」
女医に微笑まれ、千隼は「ええ」と頷く。
「お邪魔でなければ」
「邪魔なんかじゃないわ。好きにしてて良いわよ、どうせ誰も来ないし」
そう言って立ち上がり、女医は戸棚からお菓子を取り出す。盆にあけて、テーブルに置きながら「どうぞ食べて」と千隼へ差し出した。
「お茶は……ローズヒップしか無いわね。構わないかしら?」
「はい、頂きます」
千隼はお湯が注がれたカップにティーバッグを落とす。隣では「センセー、オレ、ココア」「んなもん無いわよ自分で買ってきなさい」「えーっ、コンビニ遠いじゃないッスか」「だから何。お茶飲むの? 飲まないの?」「飲みマース」という会話。
それを聞き流しながら、千隼は思考する。
これはチャンスではないのか、と。
仮住まいの官舎から出てからというもの、千隼は考え続けていた。
飛鳥の輝かしい未来の為に《SCT》を騙すと決めたわけだが、その為には《SCT》と《鬼憑き》について知らなくてはならない。残念ながら千隼はどちらに関する知識も乏しく作戦の立てようがないのだ。そもそも《SCT》が飛鳥を《左足の鬼憑き》だと気づかない事からして不可解だ。千隼にとっては幸運だったが、《鬼憑き》専門の特殊部隊が、《鬼憑き》と一般人の区別をつけられないという事があり得るのだろうか。
しかし、それを直接《SCT》に訊くわけにもいかない。
探りを入れる相手は《SCT》と《鬼憑き》の双方に詳しく、かつ《SCT》からある程度の距離がある人物が望ましい。
――例えば、この女医だ。
「随分、静かですね。この病院」
努めて自然に、千隼は女医へ声をかけた。
女医も特に不審だとは思わなかったらしい。太郎看護師へティーカップを渡しながら答える。
「建物ばっか大きくて誰もいないのよ。医者もアタシの他に二人しかしないし」
「入院されてる方もいないのですか?」
「《鬼憑き》の病院って聞くと誰も来たがらないの。緊急搬送されてきても、すぐに出てくわ。当の《鬼憑き》はみんないなくなっちゃうしね……」
いなくなっちゃう、とはどういう意味か。
そう千隼は問おうとしたが、女医が顔をしかめながらカップへ口をつけるのを見てやめた。どうやらデリケートな話題らしい。あまり突っ込み過ぎて反感を買うと、情報源を失うことになりかねない。
千隼は思考を切り替え『敵』の情報を得ることにする。
「鬼無里さんも、ここに入院されてたんですか?」
「そうだ」
その声は背後から聞こえた。
驚いて千隼が振り返ると、先ほどまで誰もいなかったはずの空間に一人の男が立っていた。
くたびれたオッサン、という言葉が似合う中年の男だ。
大して高くもない背筋は曲がり、いかにも怠そうにしている。彫りの深い顔立ちは、清潔にしていれば雑誌の表紙でも飾れそうだったが、腫れぼったい目元と無精髭で台無し。シワだらけのスーツを羽織り、Yシャツはネクタイも締めていない。
というか、酒臭い。
「慶子ちゃん、二日酔いの薬くれ」
「もぉ……源氏名で呼ぶのやめてよね」
慶子と呼ばれた女医は、引き出しから薬袋を取り出して男へ渡す。
「あまり飲み過ぎないでね――室長」
「室長?」
千隼は思わず聞き返す。この場で『室長』と呼ばれる人物は一人しかいないだろうが、まさかこの小汚いオッサンがそうなのか。千隼はマジマジと男を見つめる。
この男が《SCT》の室長。
これが、私にとって『敵』の親玉。
水も無しに薬を一気に飲み干した男は、そこでようやく千隼の視線に気づき、握手を求めるように手を差し出した。
「水無瀬千隼さん――だね? すまんね、挨拶が遅れて。俺は《特例疾患犯罪対策室》の室長やってる、奧山一茂だ」
「どうも、お世話になっています」
一応、握手を交わす。奧山は口角を片方だけ上げて、ニヤリと笑った。
「おっぱいデカイねえ、水無瀬千隼さん。何カップ?」
なんだこのセクハラオヤジ。まだ酔ってるのか。
「最近は測ってないので判りませんが、使ってるブラはFです」
「水無瀬さん答えなくていいから……」
慶子女医が止めに入ってくれたお陰で、奧山の視線からは解放された。慶子女医はそのまま奧山と会話を始める。「それより室長? 深山さんが捜してましたよ」「さっちゃん?あれ、どっかですれ違ったか」「多分、地下棟の方に行ったんじゃないかしら」「じゃあ電話繋がんねえな……どうすっかな」
奧山は暫く考え込むように無精髭をなでていたが、何かを思いついたのか唐突にパチンと、指を鳴らした。
「水無瀬千隼さん」
「はい」
「《鬼憑き》に興味があったりするかな?」
ドキリ、とした。
何か見透かされたか。バレたのか。千隼は焦るが、表情には出さずに「ええ、まあ少し」とだけ答える。
すると奧山は「なら丁度良い」と笑みを浮かべる。
「じゃあ見てみるか? 《鬼憑き》ってのがどんな奴らなのか」
千隼としては願ってもない話。渡りに船だ。
あまりのタイミングの良さに、奧山が何かを企んでいるのではないかと思えるほど。
せめてもの抵抗と探りを入れるつもりで、千隼は「良いんですか?」と再確認する。
だが奧山は「ああ」と、気楽に答えた。
「水無瀬さんには、知ってもらった方がイイと思うんだよね」




