六章 彼女たちの生き様(その1)
「待たせたな、飛鳥」
深山幸をバイクで轢き飛ばした千隼は、仏頂面のままそう言った。
その山道は八王子市高尾山の裾野にあたる。
山を切り開いた道は、生い茂る木々の枝葉でトンネルのように薄暗い。ほとんど獣道と言ってよいだろう。砂利を敷いただけの道には落ち葉が折り重なって、天然の絨毯となっている。正直、スポーツバイクで走るのは苦だったが贅沢は言えない。携帯で連絡した千隼へ、即座に義足用バイクを届けてくれた後輩はよくやってくれた。支払い額が二倍になったが。
「飛鳥、立てるか?」
言って、千隼は手を伸ばす。
仏頂面が崩れていないか心配だった。病院からここまで休むことなく走り続けたせいで身体中のあちこちが痛い。幸へバイクをぶつける為、全速力のバイクから飛び降りたのも原因だろう。治りかけだった脇腹からは痛みだけでなく熱を感じている。内出血でもしているのかもしれない。
だが、そんな自分よりも飛鳥の方がボロボロに見えた。
飛鳥に外傷はないようだったが、その表情を見る限り、心に大きなダメージを受けている事が窺えた。こんな風に打ちのめされた表情を見るのは、母の菊夜と、妹の紅羽が死んだと千隼へ語った時以来かもしれない。飛鳥は目を丸くして唖然としたまま、動こうとしなかった。
仕方ない。
「よしよし、抱っこしてやろう。それともおっぱいでも吸うか?」
「ば、バカにしないで……」
千隼が飛鳥を抱きかかえようとすると、飛鳥はそれを振り払って膝を立てる。千隼は少し残念に思いながら飛鳥が立ち上がるのを待った。やはり飛鳥を元気づけるにはこういう冗談が一番効く。
千隼は素早く飛鳥の身体に怪我がないことを確認すると、轢き飛ばした幸の方へ視線を向けた。幸は未だバイクと共に地面へ突っ伏している。が、骨折はおろか掠り傷程度の出血すら見えない。やはりバイクで轢いた程度では《鬼憑き》を無力化する事はできないらしい。意識を取り戻すのも時間の問題か。
「こっちだ、飛鳥」
「え、うわ、ちょ、」
千隼は飛鳥の手を引いて雑木林の中へ飛び込む。
まずは幸の視界から逃れることが先決。幸がどのような能力を持っているかは不明だが《舌の鬼憑き》と同じく《鬼肢》を砲弾のような速度で撃ち伸ばされた場合、一本道を逃げていては良い的になる。
雑木林の中は下りの急斜面だった。だが幸いにも、地面は柔らかい腐葉土と落ち葉に覆われている。千隼は義足の踵に体重を乗せて、滑るように斜面を駆け下りた。
ふと、千隼の後に続く飛鳥が口を開いた。
「お姉、――どうして、」
「話は後だ飛鳥。深山さんが来る」
「お姉は幸さんが《鬼憑き》だって知ってたの?」
「……いや」千隼は少し考えて「気づいたのはついさっきだ」
背後で飛鳥の物問いたげな気配を感じるが、千隼はそれをあえて無視する。
それを話せば、飛鳥のことについても話さなくてはいけなくなるからだ。
気づいたのは、ゴミ箱から幸の携帯電話が出てきた時だった。
携帯電話を人目のない所へ隠し、アラームで電源が入るようにする手口。それは千隼が《SCT》を飛鳥から遠ざける際に使ったものと同じだ。つまり、この手段を用いて《SCT》を千隼の病室へ誘き寄せようとしたのは、《SCT》から追われる立場の人間という事になる。この方法で釣れるのは《SCT》しかいないからだ。
では《SCT》に所属するはずの深山幸が、どうしてそれを行ったのか。
難しく考えることはない。
深山幸が《SCT》から追われる立場だからだろう。
そして《SCT》が追うのは《鬼憑き》。
つまり――深山幸は《鬼憑き》なのではないか。千隼はそう考えた。
《鬼憑き》の擬態を現代科学は見破ることが出来ない。充分あり得る話だ。
加えて《SCT》しか知らないはずの位置情報不正利用を逆手に取ったこの方法は、必然的に内部犯の可能性を示唆してしまう。つまり、幸は自分自身へ捜査の手が伸びることを覚悟した上で行っているのだ。もう逃亡の手筈が整っていると考えるべきだろう。
だが、まだ疑問は残る。
何故、千隼の病室へ《SCT》を誘き寄せようとしたか、だ。
《SCT》を自身から遠ざけたいだけなら、携帯電話は多くの人が集まる場所に放置した方が効果的だ。《SCT》が幸の姿を雑踏の中から見つけ出そうと時間を浪費している隙に、遠くへ逃げることができる。
つまり、これには目的があるはずだった。
例えば千隼を《研究病院》から出したくなかった、とか。《SCT》が《研究病院》を包囲すれば当然、千隼も外へ出ることはできない。
もしそうならば、理由はなんだ。
《鬼憑き》である深山幸が、水無瀬千隼を遠ざけたかった理由。
もしくは、逃げる前に危険を冒してまで千隼の病室を訪れた理由。
深山幸が《左脚の鬼憑き》の正体を、わざわざ千隼に確認した理由。
それはつまり――水無瀬飛鳥が《左脚の鬼憑き》でないと困るからだろう。
何故、困るのか。《左脚の鬼憑き》に用があるからだ。万が一にも失敗できないからこそ、《SCT》の情報だけでなく千隼自身にまで確認を取ったのだ。
そして千隼は、かつて奧山から聞いた《鬼憑き》の話を思い出す。
――命を拾い、五体満足となった女性へ《鬼》は交換条件を告げる。
その条件とは『他の《鬼憑き》を喰って欲しい』というもの――
深山幸は《左脚の鬼憑き》を、水無瀬飛鳥を食べるつもりなのだ。
すぐにでも助けに行かねばならない。そう判断した。
そして、千隼の判断は間違っていなかった。
千隼はバイクを後輩から受け取ると同時にGPS受信機も受け取った。無論《SCT》は既に、飛鳥の持ち物から千隼が仕掛けた発信器の殆どを取り除いている。だがブラのホックに仕込んだものだけは、まだ生きていた。小さいが故にあまり精度の良いものではない。だが、幸が山道を選んでくれたお陰で、何とか飛鳥の居場所を絞り込むことが出来たのだ。
「お姉、」
「――飛鳥、今は走ることに集中し」
「違う、お姉! 上!」
言われて、見上げた時には《隼》の文字がはっきりと読めるほどだった。
咄嗟に、千隼は飛鳥を抱きかかえて横へと跳んだ。腐葉土を巻き上げながら転がる千隼と飛鳥のすぐそばを、宙を舞うバイクが通り過ぎていく。
標的を逃したバイクはそのまま森の奥へと消えていった。
「千隼ちゃーん。どこにいるのお?」
遠くから我が子を呼ぶような、優しげな声が届く。
「飛鳥ちゃんをこっちに渡して欲しいなー。そうすれば、あなたは見逃すからー」
「お姉、」
胸の中へ抱きしめている飛鳥が、不安げな声をあげた。
千隼はその頭を優しく撫でてから考える。声の感じからして、幸はまだそこまで近くには来ていない。先ほど投擲されたバイクは、千隼と飛鳥を足止めするためのものだろう。向こうも狙いをつけていたわけではないはず。
という事は、やり方次第で逃げ切ることも可能だ。
「飛鳥、」
「お姉、あたし幸さんから全部聞いたよ」
先に逃げろ。
そう言うつもりだった千隼の言葉を、飛鳥が遮った。
絞り出すように言った飛鳥の顔は、今にも泣き出しそうだった。いや、涙が零れていないだけで、もう泣いているのかもしれない。
嗚咽混じりに、飛鳥は続ける。
「お姉は、あたしが――《鬼憑き》だって、知って、たの?」
千隼は、何も答えられなかった。
答えを事前に用意しておけば良かったと思う。まだ先々の予測が甘い。脇が甘い。詰めが甘い。あの深山幸が『あなたが《左脚の鬼憑き》なのよ』と告げる可能性を考えていなかった。そうでなくても、飛鳥が自身を《鬼憑き》だと認識する可能性は充分にあったのだ。その時の答えを用意しておくべきだった。
いや、今からでも遅くは――
しかし、
「知って、たんだ」
飛鳥は千隼の仏頂面から全てを悟ってしまう。
飛鳥は突き飛ばすようにして千隼の腕から逃れ、腐葉土へ直に座り込んだ。
「ねえ、どうして」
飛鳥は問う。
「どうして、あたしを庇ったりなんかしたの? あたしが《鬼憑き》なら、今まで何人も殺してきたって事なんでしょ? 知らないうちに、何人も、何人も、何人も何人も何人も何人も何人も何人も!! あたしは!」
腹の中の空気を全て吐き出すように、身体を丸めて全身全霊で飛鳥は叫んだ。
遠くから、幸の足音が聞こえてくる気がする。位置を知られてしまったかもしれない。
「あたしは……人殺しになってまで、生きたくなかった。それに、それに、もしかしたら――あたしは、お姉のことだって……」
「飛鳥」
千隼は片膝をつくと飛鳥の両手を掴み、自身の胸へ引き寄せた。そのまま両手を包み込むようにして抱きしめる。
「それだけはない。それだけはないぞ、飛鳥。私は飛鳥に食べられるのも悪くないと思っている。だが、飛鳥が望まないのであれば、絶対に食べられたりしない」
千隼は続ける。
命の危機がすぐそこまで迫ってきているが、これだけは言わなくてはならない。
「それに飛鳥は人殺しじゃない。これまでも――これからも、だ」
顔を上げた飛鳥の瞳を、千隼はまっすぐに見つめ返す。
「私がさせない」
ざく、ざく、と柔らかい地面を踏みしめる音が近づいてくる。
もうあまり時間がない。千隼は飛鳥の手を離して周囲を確認する。そして見つけた木の根の辺りにある窪みを指差して「そこに隠れてろ」と告げる。
「いいか。私が向こうへ行ってから五分したら、そこから出て山を下るんだ。地図を見た限りだとこの先に川がある。川を辿れば必ずどこかに橋がある。その橋の下に隠れていてくれ。後から私もそこに行く」
「お姉、」
「あ、そうだ飛鳥」
千隼は背を向けようとした身体を元に戻し、飛鳥へと向き直る。
それからいつもの仏頂面のまま、顔の前に一本指を立てた。
「一つ、頼みがある」




